ほとと

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「そりゃあ…ね。だって…。生きてもらわなきゃあ、困るでしょう?」

それが大人の答えなのだと。
突きつけられた言葉たちは、尖ってこそいないものの、鈍い痛みを音もなく私の奥底に残して消えていった。

。 。
。 。 そこはまるで 海のなかみたいな
。 まあるく たおやか ゆらゆらと 。
たゆたう水面 柔らかな日差しに 。
。 すべてゆだねて 海月のように
。 あおいろを眺めて 。 。
。 生きたいだけなのに 。


遡って五月、夏用のセーラー服でも少し暑いぐらいのあの日。忘れ物を取るために長すぎる階段を上って、ガラガラと教室の古びた重たいドアを開けた私の目を捉えたのは赤色だった。かっと照っている陽光の白でも、さわさわと揺れる葉桜の緑でも、小さな窓に切り取られた、手のひらサイズの海の青でもなく、鮮血の赤。そこにいる誰かの白い肌に、すぅと一筋、また一筋…。何が…起こっているのかと、不思議に思う私の心に、切迫の影はひとつもない。ただただ、慣れない空気に、時間の流れに飲まれてしまっていたのだ。随分長い時間、私はドアから半歩のところで立ち止まったままだったのだろう。風を受けて膨らみすぎたカーテンが机上のナイフを落とした音にふと目覚めさせられると、急に視界がぐらりと揺れて、黒板の端に腕をゴっとぶつけてしまった。
「…早く死なせてよ…。」
空気の波間を縫うように私の元に届いた声に、顔を上げる。逆光で顔は分からないものの、その声が誰からのものかなんて、彼女の声だけで十分だ。
「綾乃…一体何やって…。」
影がゆらりと揺れた。
カーテン越しに入る陽の光だけの薄暗い教室で、その左手に血が線を引いていくのだけ、何故か鮮明に見えたから。
その時ようやく全てを察した私は、逃げた。
「…ごめんっ……。」
それだけ残して走り去った。

。 。 。
。 。 。 。 。 。 。。 。
。 。 。。 。 。。。 。。
。 。 なにかを決めて なにかをえらばなければ 。
。なにかにしんじられて なにかを守って 。 。
。 。なにかを愛して なにかにあいされ 。 。
。 。 。 。 なにか… 。 。 。
。 。。 なにかって、なんだっけ… 。 。 。
。。 。 。。。 。。 。。。 。 。 。。
。。 。 。 。 。 。 。。 。。
。 。 。 。

あの日から数週間経ったが、まだ綾乃とは一言も話せていない。…というより、そもそも登校していないようで、顔ですらしばらく見ていない。
潮見綾乃は私が中学生になってからできた友人だ。三年生になるまで、クラスが別々になったことは一度もなく、更には同じ吹奏楽部に所属しているので、互いに親しくなるのに時間はそう要しなかった。彼女は、休み時間になるとほぼ毎回と言っていいくらい私の机のそばによってきては、自分の話を始める。少し不思議ちゃんなところのある彼女は時に私が考えたことのないような世界を語ってくれるから、二人きりの会話でも飽きることは一度たりともなかった。
「綾乃は話し上手で、私は聞き上手だから。最高の組み合わせだよね!」
私がそう言う度に、彼女は本当に嬉しそうな顔をする。風船は弾けないし、向日葵も咲かないけれど、それでも本当に、嬉しそうな顔。まるで、幼い子供が綺麗な落ち葉を見つけたときのような…そんな表情。
そんな無邪気な彼女が…肌に傷をつけていた。私はあのような行為をリストカットというのだと、後に調べて初めて知った。綾乃のために何かしてあげたい。そうは思うのに…、自分が綾乃のためにできることが、全く分からないのだ。低い校舎の渡り廊下を進みながら考え続けていると、六月のじめじめした嫌な空気がじっとりと肌にまとわりついてくる。それがふと不気味に感じられて、私は思わず
「嫌っ!!」
と叫んでしまった。その時、
「どうしたの〜。何かあった??」
と、話しかけてきたのは、我らが吹奏楽部顧問の林先生である。先生は今までに幾つもの中学校で吹奏楽を教えており、その界隈ではベテランと言われているような人らしく、一人一人に丁寧にコメントをくださる先生のことを敬愛している部員は、私含めて少なくなかった。部員全員に真摯に向き合う先生になら、と、私は綾乃のことを林先生に相談することを決めた。

「ああ、そのことね。」
先生から返ってきた予想だにしていなかった返答に、思わず衝撃を受ける。
「先生は前から、潮見さんのこと、何か知っていたんですか…?」
そう私が問いかけると、林先生は困ったような顔を窓の外に向けてこう言った。
「ええ。実を言うと彼女が四月から休部しているのもそのせいなの。建前は家庭の事情ってことにして誤魔化しているんだけど。それに…」
林先生から語られる事実の数々は衝撃的なものばかりだったが、それらが正しいであろうことは確かだった。綾乃が寒がりだからとはいえ、体育の周回走で一人だけ長袖長ズボンだったのも、授業中急に先生に呼び出されてどこかへ行くのも、面談の時間が出席番号十八番のくせに一人だけ最終日の最後なのも…。全てに納得がいった、いや、いってしまった。
視線を隅にそらすと、決して美しくない蛾が中ぐらいの蜘蛛の巣に羽を絡ませて動けずにいるのが見えた。バタバタと必死でもがいてもがいても、勝ち目はなさそうだ。そんな様子を見て、綾乃はどうしたいんだろう…なんて、考えてしまった私が馬鹿なんだろうか。
「先生。」
愚痴混じりになっていた先生の話を遮って言葉を発する。
「綾乃は、生きるべきなんでしょうか。」
あの蛾のように、この世を生き地獄だと感じているのかもしれない。私たちはその周りで悠々と飛んでいるから分からないだけで、捕らえられた側はすごく苦しい思いをして毎日を過ごしている…それなら。…そんなことを、考え込んでしまったのだ。
雨風を受けた木々がザワザワと騒ぐのを背景に、先生は口を開いた。
「そりゃあ…ね。だって…。生きてもらわなきゃあ、困るでしょう?」
そう言い終えた瞬間、林先生は大声で呼ばれて、じゃあねと残して部長のもとに駆けていった。
辺りが急に静かになる。蒸し暑いと感じていた潤沢な湿気も、なんだか今は底まで侵食しそうなくらい冷たく感じる。
困るって何…?何に困るのだろう。教師として自殺者が出たら傷になるから困るの?お金がかかったりするの?それともただ純粋に、綾乃の命を守りたいだけ…?
『困るでしょう?』その言葉がひどく頭に残って離れない。

生きるのが善で、死ぬのは悪なのか。
本当に、それでいいのか……。

答えを出す勇気を、持ち合わせてはいなかった。

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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。いわないといけない。。。。。。。
。。。。。。わらわないといけない。。。。。。。
。。。。。あさおきて くちからたべて。。。。。
。。。。。。あるかないといけない。。。。。。。
。。。。。。。いきないといけない。。。。。。。
。。。。。。。。。 なんて。。。。。。。。。。。
。。 。。。。。。。 。。。。。。。。 。 。 。。。。 。。。 。
。 。 。。 。 。。 。



なにもかんがえなくていい
なにもおもわなくて かんじなくていい
なんてすてきなんでしょう

なんでしにたいのってそんなの
わかるわけないよ馬鹿

サックスをふくのはきらいじゃない
あの子とはなすのも きらいじゃなかった
それでもわたしは
くらげみたいにながれるままに
このままあおにそまりたい

ふらふらといえをでて じてんしゃをつかんだら
真下の海へ かけおりてしまおう
しょかのようきもきょうでお別れなら
ここちよくさえかんじられて
かぜがきもちいい
みみもとでおおきくいきをしている
眼前の海がズームアップされていく
もうすぐ……

「……って…。…ってよ!」
え?
「待ってよっっ!!!」
荒げた声が耳に響く
あの子だ。

「私は…っ綾乃と…もっと、一緒にいたいっ!」「だから止まって、話そう…?私が聞くがら!!」
「早く…ブレーキっ!ねえってば!!」

おつかいの帰り道で、綾乃を見つけた。
だんだん大きくなるその影を見て、立ちすくんだ。
なんていうスピードで走っているの…?
………速すぎる…。
その瞬間には駆け出していた。
バッグから大量のトマトが転がり落ちて行くのが視界にうつるが、そんなのどうでもいい。
綾乃に越されてはいけない。
声を、伝えなければ。
もはや思考など挟むことはなかった。ただ叫んだ。人生初めて、ありったけの声で。
何が正しいとか、善人はどうするとか、もはやどうだっていい。私はまだ終えてほしくない。
私がまだ、綾乃と一緒にいたいから。
自転車に負けじと坂を駆け下りていく。
足は思うように動かず、右も左もわかったもんじゃない。だけど…。
海はもう目の前なのに、彼女はまだ止まらない。
立ち入り禁止の鉄柵が近づく。
まさか。そう思ったときには、もう手遅れだった。

ガン、と鉄がぶつかる鈍い音がなったとき、綾乃は空を舞った。
彼女の影を浴びた次の瞬間には、そこにあるのは真っ白な太陽と、しぶきをあげる海水の青だけ。

ガハッ…ゴボ…
海に身を沈める寸前の彼女はまだ、生きている。
『溺れている人がいたら119番に連絡して、ペットボトルを投げましょう。』
それが世の言うところの善だろう。
でも、私はそうはできなかった。
見捨てるのは悪?普通はそのはず。
でも、それでも私はただ彼女を見るしかない。
だって…だってあまりにも、
彼女が幸せそうな顔をしていたから。

4/27/2024, 1:31:00 AM