もし”君”が私が思う君であるのなら
もし私が”君の思った私”であるのなら
二人だけで居よう
私が君をいつでも信じられるのなら
君が私に全てを預けてくれるのなら
私が君に何をしたとしても
君が私をいっぱい褒めてくれるのなら
未来永劫 二人で居よう
そして
二人だけの秘密を作ろう
極上の秘密を
秘密にしているだけで充足感に満たされる
そんな秘密を
けれど、他人が聞いた所でピンと来ないであろう
秘密を
何にしようか
“秘密になる”ことは多くあるだろう
例えば、
私と君が世間で言う共依存関係であること
私と君は20年後の今日「みんなのための社会」から外れること
君の”私”と私の”君”は、この世に存在なんてしていないこと
互いに親族を殺そうと考えていること
互いに初恋なんて無くて、性行為なんてものをした経験すら無いこと
本当にたくさん
なればこそ、秘密は”あれ”にしよう
根源にある秘密に
さぁ、
二人だけの秘密にしよう
“君”の素性と私たちが「愛していた」ことを
「愛と平和」これを平等に希求しているのは個人では無い、社会である。
個人が唱えるそれらには、
強い味と色、感触がある
他者との共有は出来る仕組みの様だが、余りおすすめはされない行為になっている。
他者に渡った個人のそれらは、渡った途端に形を変える。
例えば、
身の丈に会わないくらい膨張したり、重量が急に軽くなったり、輪郭が分からなくなったり、色が変わったり、まぁ様々だ。
そして、その形状変化に伴って、渡した他人に与える影響も変わる。
例えば、
押しつぶされ潰されてしまったり、軽く見えてそれを捨てしまったり、無視してしまったり、足りないと感じた分を妄想で補強した結果迷走してしまったり、
まぁ、大体が「生死」の問題に間接的でも間接的でも触れることになる。そのため、余りお勧めはされない行為となっている。
だから、組織でも、集団でも、
個人の「愛と平和」の”強さ”は薄められ無い。
社会が丁度いいのだ。
それらは限界まで薄められ、無味、無臭となり、他者に渡っても影響を及ぼすことはない。
しかし、どんな洗浄機でも落ちないミクロの汚れがある様に社会も万能ではないらしい。
ほんの少し、肉眼では見えない程薄められた個人の色と味が残り、その現象が社会の括りにある個人たちの「愛と平和」一つ一つに起きた結果、遠目で見た社会のそれらは一つの色彩系統を示すのだろう。
このように改めて、考えると、
この文章の最初に、私は社会の「愛と平和」は平等であると言ったが、平等な社会であっても、少しの偏りは生まれていると言うことになる。
ただ、その偏りが誰にとってのものなのかは、
今の社会の個人に該当する私には、分からない。
それを知る者は、
未来でこの社会に形容詞を付けた者らだけ知るだろう。
「絆」と言う言葉ほど怖いものは無いだろう。
ただの、
(きずな)と言う三音の響きが、
ただの、
千文字の原稿の一マスのみを埋めるだけの一字が、
私たち、言葉を扱う者たちに
数多の夢を見せ、輝きを見せ、
誘い込み、
甘い集団幻覚に浸らせるのだから。
そして、あまつさえ、
私たちに見せた神の糸と見紛うほどの幻の糸を
私たちに握らせ、
その色を褪せさせ、
糸の所在も、
持ち続けるかどうかの選択も、
断つかどうかの選択すらも、
私たち押し付け、
最初から何もしてないかの様なそぶりで、
又私たちの目の先に居続けるのだから。
現世の定義では、
「絆」と言う言葉は、元々、家畜が逃げないように繋ぎ止める綱(ほだし)を指していたものだった。しかし、そこから、転じて、心や行動の絆(縛り)や人間関係の結束を指すようになったとされている。
一時得た浅知恵ではあるが、このことだけ見ても、その言葉の狂気性が伺える。
本来、生きるために必要だった自分より下位の存在を縛るための血生臭い鎖だったものが今はもはや対等な存在同士を結ぶ神秘的な糸になってしまっているのだから。
いったい何千人、何万人に幻覚を見せたら、このような意味の逆転現象がおこるのか。
「絆」と言う言葉が義務教育で歌われる校歌や合唱の歌詞にすら浸透してしまっている事を普通と捉えてしまっている私では麻痺し過ぎて、その酷さを正確に認知する事はできないだろう。しかし、異常な侵食力があるのは間違い無い。だが、その力を持たせたのは、その言葉自身でなく、その言葉を使って居た私たちの先祖が悲惨な現実から夢見た平和と言う幻想かも知れない。
けれど、
「絆」と言う言葉の一番怖い部分は、
その強烈な中毒性だ。
この言葉は、
私たちが住み、暮らし、適応している社会の中心に位置し過ぎてしまっている。
私たちは支え合わなければならない、
そのためには繋がりが必要だ。
私たちは支え合う社会での生き方しか知らないから、
共有し、受け続く媒体が必要だ。
中毒性のあるもの、例えば、アルコールなら離れる期間をゆっくりではあるが、どんどん長くしていけば適切な摂取量に出来る。
だが、常時供給が続く社会の中で
「絆」の中毒性を私たちは克服出来ない。
もう克服しようともして居ないのかも知れない。
予感とは、なんだろう。
私はこれまでの人生一度も予感と言う感覚を体験したことがない、、いや、私が認知を怠っていただけで本当は知っているかも知れない。
けど、全く知らないわけじゃない。
何よりその言葉を知ってるし、体験してはいなくても予感と言うものは知識として知っている。
文献やSNSを始めとする動画配信サイト、タロット占いに至るまで予感と言う言葉は日常生活に溢れかえる文字の中で、何故か魅惑的で、不意に目を止めてしまう言葉だ。
ある文学者は、自身の創作の中で
予感を主人公が物語の中で見る「転換する兆し」として描いていた。
ある経済学者は、数多ある情報を判別する中で
予感を信頼性の高い情報から編み出したデータだと捉えていた。
ある心理学の先生は、人の心を見ていく中で
予感とは、心が衝動に駆られる前の僅かで、不確かなサインだと言っていた。
ある預言者は、何かと通じる中で
予感とは超常的な力だと驚いている俗人たちに知らしめてみせた。そして、熱狂覚めやらぬ狂人たちにより熱を与えていた。
ある哲学者は、言葉遊びをする中で
予感とは、生まれる前に見たものの、肉体を手に入れて感知できなくなったものの、僅かな期間の想起だと書いていた。
ある演劇家は、周りに順応する中で
予感とは危機意識の表れだと体現し、それを観客に見せていた。
「ここにある」と言う一文は、何処かの精神科医や名の知れた哲学者に良く使われている印象のある文だ。
しかし、これほど難解な文もそうそうない。
一様、バラバラにして意味を考えると、どうなるだろう。
「ここ」とは何か?
此処、茲、爰…特定の場所なのか、発言者の印象に残る場所なのか、そもそも場所ですら無く、時間や環境を指しているのか。分からない。だが、常識との関連が無く、文脈により意味を持つ言葉の様だ。
「ある」とは何か?
有る、在る、或る…何故か、小学生の時読まされた「である」と「する」論争を思い出すが、文末の言葉に所属しているから、何か、物事、現状を肯定、認識する意味が含まれる言葉の様だ。
「ここ」と「ある」の共通点として、発言者の思想や認識してる万物を指し示していることだと言えるだろう。
そうであれば、
その二つの語句を繋げた「ここにある」と言う文は、言ってしまえば宗教文と言える。発言者にしか分からい思想や考え、認識を麻薬の様に強める文。
例えば、
「ここ」が苦楽を共にできる恋人のそばであるならば、私は側に居る異性の自分を恋人と呼ぶ世界「にある」
「ここ」が人々が皆自分のように生きれいる現実であるならば、私は他人の生を認めなければならない世界「にある」
「ここ」が自分の幾つもの成果を一向に認めない人間を親呼ぶ場所であるならば、私は親とは子の成果を褒めない人間と定義される世界「にある」
あぁ、恐ろしい。
一見平仮名で柔らかい文なのに、中身は発言者の思想を善だと洗脳する文が危険でないわけがない。だか、薬にもなって居るのも事実、「ここにある」と言う文は人間たちが声を揃えて絶賛する客観に一役買って居る。
だからか、この文に対する人々の感情は安堵と拒否に大きく二分されているのだろうと読み取れる。
人間たちは自分の作った言葉にさえ、感情を抱き、個々の潜入感100%て使い回す。これが群の統率故に生み出された宗教の一端から来た「ここにある」と言う一文は、共通して2種類の正反対な捉え方がされているのは、人間の宗教全体、存在自体に耐しての感情の様で、更に不思議である。
言葉が思想を作る土台となっているのに、それを客観のふるいにかけるのも言葉とは、
この矛盾が群の一京年の課題なのかは定かじゃ無いが、たまには内から眺めるのも悪く無い。
まぁ、巻き込まれるのはごめんだが。