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3/6/2026, 11:50:57 PM

「絆」と言う言葉ほど怖いものは無いだろう。
ただの、
(きずな)と言う三音の響きが、
ただの、
千文字の原稿の一マスのみを埋めるだけの一字が、
私たち、言葉を扱う者たちに
数多の夢を見せ、輝きを見せ、
誘い込み、
甘い集団幻覚に浸らせるのだから。
そして、あまつさえ、
私たちに見せた神の糸と見紛うほどの幻の糸を
私たちに握らせ、
その色を褪せさせ、
糸の所在も、
持ち続けるかどうかの選択も、
断つかどうかの選択すらも、
私たち押し付け、
最初から何もしてないかの様なそぶりで、
又私たちの目の先に居続けるのだから。
現世の定義では、
「絆」と言う言葉は、元々、家畜が逃げないように繋ぎ止める綱(ほだし)を指していたものだった。しかし、そこから、転じて、心や行動の絆(縛り)や人間関係の結束を指すようになったとされている。
一時得た浅知恵ではあるが、このことだけ見ても、その言葉の狂気性が伺える。
本来、生きるために必要だった自分より下位の存在を縛るための血生臭い鎖だったものが今はもはや対等な存在同士を結ぶ神秘的な糸になってしまっているのだから。
いったい何千人、何万人に幻覚を見せたら、このような意味の逆転現象がおこるのか。
「絆」と言う言葉が義務教育で歌われる校歌や合唱の歌詞にすら浸透してしまっている事を普通と捉えてしまっている私では麻痺し過ぎて、その酷さを正確に認知する事はできないだろう。しかし、異常な侵食力があるのは間違い無い。だが、その力を持たせたのは、その言葉自身でなく、その言葉を使って居た私たちの先祖が悲惨な現実から夢見た平和と言う幻想かも知れない。
けれど、
「絆」と言う言葉の一番怖い部分は、
その強烈な中毒性だ。
この言葉は、
私たちが住み、暮らし、適応している社会の中心に位置し過ぎてしまっている。
私たちは支え合わなければならない、
そのためには繋がりが必要だ。
私たちは支え合う社会での生き方しか知らないから、
共有し、受け続く媒体が必要だ。
中毒性のあるもの、例えば、アルコールなら離れる期間をゆっくりではあるが、どんどん長くしていけば適切な摂取量に出来る。
だが、常時供給が続く社会の中で
「絆」の中毒性を私たちは克服出来ない。
もう克服しようともして居ないのかも知れない。

10/21/2025, 10:57:52 AM

予感とは、なんだろう。
私はこれまでの人生一度も予感と言う感覚を体験したことがない、、いや、私が認知を怠っていただけで本当は知っているかも知れない。
けど、全く知らないわけじゃない。
何よりその言葉を知ってるし、体験してはいなくても予感と言うものは知識として知っている。
文献やSNSを始めとする動画配信サイト、タロット占いに至るまで予感と言う言葉は日常生活に溢れかえる文字の中で、何故か魅惑的で、不意に目を止めてしまう言葉だ。
ある文学者は、自身の創作の中で
予感を主人公が物語の中で見る「転換する兆し」として描いていた。 
ある経済学者は、数多ある情報を判別する中で
予感を信頼性の高い情報から編み出したデータだと捉えていた。
ある心理学の先生は、人の心を見ていく中で
予感とは、心が衝動に駆られる前の僅かで、不確かなサインだと言っていた。
ある預言者は、何かと通じる中で
予感とは超常的な力だと驚いている俗人たちに知らしめてみせた。そして、熱狂覚めやらぬ狂人たちにより熱を与えていた。
ある哲学者は、言葉遊びをする中で
予感とは、生まれる前に見たものの、肉体を手に入れて感知できなくなったものの、僅かな期間の想起だと書いていた。
ある演劇家は、周りに順応する中で
予感とは危機意識の表れだと体現し、それを観客に見せていた。



8/27/2025, 8:47:35 PM

「ここにある」と言う一文は、何処かの精神科医や名の知れた哲学者に良く使われている印象のある文だ。
しかし、これほど難解な文もそうそうない。
 一様、バラバラにして意味を考えると、どうなるだろう。
「ここ」とは何か?
此処、茲、爰…特定の場所なのか、発言者の印象に残る場所なのか、そもそも場所ですら無く、時間や環境を指しているのか。分からない。だが、常識との関連が無く、文脈により意味を持つ言葉の様だ。
「ある」とは何か?
有る、在る、或る…何故か、小学生の時読まされた「である」と「する」論争を思い出すが、文末の言葉に所属しているから、何か、物事、現状を肯定、認識する意味が含まれる言葉の様だ。
 「ここ」と「ある」の共通点として、発言者の思想や認識してる万物を指し示していることだと言えるだろう。
 そうであれば、
 その二つの語句を繋げた「ここにある」と言う文は、言ってしまえば宗教文と言える。発言者にしか分からい思想や考え、認識を麻薬の様に強める文。
 例えば、
 「ここ」が苦楽を共にできる恋人のそばであるならば、私は側に居る異性の自分を恋人と呼ぶ世界「にある」
 「ここ」が人々が皆自分のように生きれいる現実であるならば、私は他人の生を認めなければならない世界「にある」
 「ここ」が自分の幾つもの成果を一向に認めない人間を親呼ぶ場所であるならば、私は親とは子の成果を褒めない人間と定義される世界「にある」
あぁ、恐ろしい。
 一見平仮名で柔らかい文なのに、中身は発言者の思想を善だと洗脳する文が危険でないわけがない。だか、薬にもなって居るのも事実、「ここにある」と言う文は人間たちが声を揃えて絶賛する客観に一役買って居る。
 だからか、この文に対する人々の感情は安堵と拒否に大きく二分されているのだろうと読み取れる。

 人間たちは自分の作った言葉にさえ、感情を抱き、個々の潜入感100%て使い回す。これが群の統率故に生み出された宗教の一端から来た「ここにある」と言う一文は、共通して2種類の正反対な捉え方がされているのは、人間の宗教全体、存在自体に耐しての感情の様で、更に不思議である。

 言葉が思想を作る土台となっているのに、それを客観のふるいにかけるのも言葉とは、
この矛盾が群の一京年の課題なのかは定かじゃ無いが、たまには内から眺めるのも悪く無い。
まぁ、巻き込まれるのはごめんだが。

6/23/2025, 3:24:36 AM

(どこにも行かないで)
母は車に乗り込もうとしていた
私は今よりも短い手足をばたつかせ、「一緒にいるの、一緒に…」と言う言葉を何回も繰り返し叫び、胸の中はその気持ちで埋め尽くされていた
今はもう居ない祖母と祖父が私を抑えて宥めていた
車に乗り込む母と玄関にいる私との距離は子供にとって遠く
涙が渋滞している私の眼では輪郭を掴むのがやっとだと連想させる  

変だ

母が私の方を向いた
その表情は、悲痛の様な面持ちと感じられ、何故かそれが鮮明に見えた
母と向き合った私の表情さえも 

変だ、明らかに

どうして、私がわたしの表情をわかるのだろう?
どうして、この場面がドラマの様に現実味が無く感じているのだろう?
どうして、私はわたしの気持ちを理解はしているはずなのに、どこか冷めた目で見れているのだろう?

ああ、思い出した これは夢だ

私が幼稚園か、小学校に入学したばかり見た 夢

そしてこの夢が私に母への執着を自覚させた最初の事柄だった

次に私がその思いに襲われたのは、小学校2、4年ぐらいの将来にひどく不安を抱いていた時だったか
それとも道徳の授業に慣れてきた頃だったか
とにかく、私は「もしも、母が死んだら」と言う妄想にひどく囚われ、枕を濡らしたような時があった
その時は
ただ、ただ、嫌だと思った
(一緒にいたい!)と言う思いが頭を何度も何度も何度も巡っていた
しかし、それは以外と長く続かなかった
その契機はある日、ケンカした時の母から出た言葉だった
母と私は時折喧嘩することが時折あった。
母子家庭故だと言っておこう
口喧嘩で済む時もあれば、
身体に傷がつくか、つかないかくらいの殴り合いになったことも幾度がある。
喧嘩の終わりはいつも母が私に謝ることが定番だ
その時のケンカは口喧嘩の方であった
実は、母が言ったであろう言葉はわたしの記憶では曖昧だ。しかし、それまでの母への執着と心配の情を根こそぎ削ぐほどに苛烈で私にとって大きい言葉であったことは覚えている。
そして、自分の今の信念、思想への重要な糧となっていることも自覚している
だから、ある程度は予想が着く
母が言ったのは「どおして、そんな言い方しか出来ないの」や「育て方が悪かった」など、自分の言動の正気を疑う類いの言葉だろう
私は当時自分の行動と大多数の他人の行動に相違が応じることを命懸けのつの渡りをしているかの様に気にしていた
それを母と言う創造主は「狂った」と、大多数の言動と明らかに違ったことをしていると定義せしめ

この世で言う社会不適合者であると示唆した

私は後悔した
(どこにも行かないで)と胸の内で懇願したことを
母を”母”だと思っていた事を
私は漠然と認識した
母が喧嘩のたびに「施設に預ける」、「病院に連れて行く」と言って行動に移さないのは典型的な依存状態であり、本当は離れるべきだったことを
私は決心した
社会で自分が生きていけないならば、自分が自分であるまま生き、母に創造主として責任を取らせる事を

今思えば、
私はその地点まで試し行動と言うものを3.4回ほど失敗していた 
どれもが若干の自覚ある行動だった故に失敗した時の情景は鮮明に記録されていた
要するに、母への、家族への不信が募っていた
それを私の成長を「可愛い」と「すごい」と時折賛辞する母が「狂った」と表現したことにより 弾け

急速に何かを落とさせ

何かを再起させた

その結果。落胆だけがあった

家族愛は憎悪となり
(行かないで)の叫びは(離さない)と言う決意となった
ただそれだけの話だ

6/15/2025, 10:35:47 AM

もしも君が”私”であったなら
そして、それが「常識」という言葉、「普通」という言葉で括れる世であったなら
「群れ」という言葉は意味をなさず
また、「一人」という言葉も意味をなさないだろう
だが、
「多数」という言葉はまだ意味を持ち、
「独り」という言葉もまた、意味を持ち続けるだろう
君が私であったならば、対立など起きてなかっただろう
対立するきっかけなど起きるはずがないのだから
君が私であったならば、地位の上下が無く、敬語や賛辞などすぐ廃れて、言葉も時期にいらなくなっただろう
だって、私は君なのだから
君が私であったならば、この世のあらゆる「消費」は今以上に加速しており、世界は私が自我を持った半年後に寿命を越し、すぐ「終わり」をもたらしただろう
だって、君は私であるのだから将来など無い、今があるだけなのだ
もしかすると、そうでは無いのかもしれないが、
生憎、私は根っから「将来のために」行動する気が無い人間だ
君が私であったならば、この世は恐怖心すら抱く様な「暇」で溢れかえり、時期それに押しつぶされただろう
だって、
競うことが無い
相手がいないのだから
共感することが無い
異なる感性などないのだから
鏡(「君」)に苦悩することは無い
善悪、常識、ルール等人間が司る万物は全て私の主観に収まるのだから
目標を持つことがない
目標を立てるほどの刺激が無いのだから
つまりだ、
もしも君が”私”であったなら、
私は惰眠を謳歌し、良く言えば穏やかに、悪く言えば空虚に息をしていると言うことになる
それを君が”君”である現状と比較するなら、
私の「幸せ」はどちらに当てはめられるだろう?



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