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「絆」と言う言葉ほど怖いものは無いだろう。
ただの、
(きずな)と言う三音の響きが、
ただの、
千文字の原稿の一マスのみを埋めるだけの一字が、
私たち、言葉を扱う者たちに
数多の夢を見せ、輝きを見せ、
誘い込み、
甘い集団幻覚に浸らせるのだから。
そして、あまつさえ、
私たちに見せた神の糸と見紛うほどの幻の糸を
私たちに握らせ、
その色を褪せさせ、
糸の所在も、
持ち続けるかどうかの選択も、
断つかどうかの選択すらも、
私たち押し付け、
最初から何もしてないかの様なそぶりで、
又私たちの目の先に居続けるのだから。
現世の定義では、
「絆」と言う言葉は、元々、家畜が逃げないように繋ぎ止める綱(ほだし)を指していたものだった。しかし、そこから、転じて、心や行動の絆(縛り)や人間関係の結束を指すようになったとされている。
一時得た浅知恵ではあるが、このことだけ見ても、その言葉の狂気性が伺える。
本来、生きるために必要だった自分より下位の存在を縛るための血生臭い鎖だったものが今はもはや対等な存在同士を結ぶ神秘的な糸になってしまっているのだから。
いったい何千人、何万人に幻覚を見せたら、このような意味の逆転現象がおこるのか。
「絆」と言う言葉が義務教育で歌われる校歌や合唱の歌詞にすら浸透してしまっている事を普通と捉えてしまっている私では麻痺し過ぎて、その酷さを正確に認知する事はできないだろう。しかし、異常な侵食力があるのは間違い無い。だが、その力を持たせたのは、その言葉自身でなく、その言葉を使って居た私たちの先祖が悲惨な現実から夢見た平和と言う幻想かも知れない。
けれど、
「絆」と言う言葉の一番怖い部分は、
その強烈な中毒性だ。
この言葉は、
私たちが住み、暮らし、適応している社会の中心に位置し過ぎてしまっている。
私たちは支え合わなければならない、
そのためには繋がりが必要だ。
私たちは支え合う社会での生き方しか知らないから、
共有し、受け続く媒体が必要だ。
中毒性のあるもの、例えば、アルコールなら離れる期間をゆっくりではあるが、どんどん長くしていけば適切な摂取量に出来る。
だが、常時供給が続く社会の中で
「絆」の中毒性を私たちは克服出来ない。
もう克服しようともして居ないのかも知れない。

3/6/2026, 11:50:57 PM