NoName

Open App

「愛と平和」これを平等に希求しているのは個人では無い、社会である。
個人が唱えるそれらには、
強い味と色、感触がある
他者との共有は出来る仕組みの様だが、余りおすすめはされない行為になっている。
他者に渡った個人のそれらは、渡った途端に形を変える。
例えば、
身の丈に会わないくらい膨張したり、重量が急に軽くなったり、輪郭が分からなくなったり、色が変わったり、まぁ様々だ。
そして、その形状変化に伴って、渡した他人に与える影響も変わる。
例えば、
押しつぶされ潰されてしまったり、軽く見えてそれを捨てしまったり、無視してしまったり、足りないと感じた分を妄想で補強した結果迷走してしまったり、
まぁ、大体が「生死」の問題に間接的でも間接的でも触れることになる。そのため、余りお勧めはされない行為となっている。
だから、組織でも、集団でも、
個人の「愛と平和」の”強さ”は薄められ無い。
社会が丁度いいのだ。
それらは限界まで薄められ、無味、無臭となり、他者に渡っても影響を及ぼすことはない。
しかし、どんな洗浄機でも落ちないミクロの汚れがある様に社会も万能ではないらしい。
ほんの少し、肉眼では見えない程薄められた個人の色と味が残り、その現象が社会の括りにある個人たちの「愛と平和」一つ一つに起きた結果、遠目で見た社会のそれらは一つの色彩系統を示すのだろう。
このように改めて、考えると、
この文章の最初に、私は社会の「愛と平和」は平等であると言ったが、平等な社会であっても、少しの偏りは生まれていると言うことになる。
ただ、その偏りが誰にとってのものなのかは、
今の社会の個人に該当する私には、分からない。
それを知る者は、
未来でこの社会に形容詞を付けた者らだけ知るだろう。

3/11/2026, 2:12:43 AM