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「ここにある」と言う一文は、何処かの精神科医や名の知れた哲学者に良く使われている印象のある文だ。
しかし、これほど難解な文もそうそうない。
 一様、バラバラにして意味を考えると、どうなるだろう。
「ここ」とは何か?
此処、茲、爰…特定の場所なのか、発言者の印象に残る場所なのか、そもそも場所ですら無く、時間や環境を指しているのか。分からない。だが、常識との関連が無く、文脈により意味を持つ言葉の様だ。
「ある」とは何か?
有る、在る、或る…何故か、小学生の時読まされた「である」と「する」論争を思い出すが、文末の言葉に所属しているから、何か、物事、現状を肯定、認識する意味が含まれる言葉の様だ。
 「ここ」と「ある」の共通点として、発言者の思想や認識してる万物を指し示していることだと言えるだろう。
 そうであれば、
 その二つの語句を繋げた「ここにある」と言う文は、言ってしまえば宗教文と言える。発言者にしか分からい思想や考え、認識を麻薬の様に強める文。
 例えば、
 「ここ」が苦楽を共にできる恋人のそばであるならば、私は側に居る異性の自分を恋人と呼ぶ世界「にある」
 「ここ」が人々が皆自分のように生きれいる現実であるならば、私は他人の生を認めなければならない世界「にある」
 「ここ」が自分の幾つもの成果を一向に認めない人間を親呼ぶ場所であるならば、私は親とは子の成果を褒めない人間と定義される世界「にある」
あぁ、恐ろしい。
 一見平仮名で柔らかい文なのに、中身は発言者の思想を善だと洗脳する文が危険でないわけがない。だか、薬にもなって居るのも事実、「ここにある」と言う文は人間たちが声を揃えて絶賛する客観に一役買って居る。
 だからか、この文に対する人々の感情は安堵と拒否に大きく二分されているのだろうと読み取れる。

 人間たちは自分の作った言葉にさえ、感情を抱き、個々の潜入感100%て使い回す。これが群の統率故に生み出された宗教の一端から来た「ここにある」と言う一文は、共通して2種類の正反対な捉え方がされているのは、人間の宗教全体、存在自体に耐しての感情の様で、更に不思議である。

 言葉が思想を作る土台となっているのに、それを客観のふるいにかけるのも言葉とは、
この矛盾が群の一京年の課題なのかは定かじゃ無いが、たまには内から眺めるのも悪く無い。
まぁ、巻き込まれるのはごめんだが。

8/27/2025, 8:47:35 PM