愛は呪いである。
人生は自分のために生きていくというのに、自分のための感情が全て汚く見えるのは何故だろう。誰かのためだと伸ばした手は、手を掴んだ人を救いたいと思うこの気持ちは、結局は私がその温もりに救われたいと願う気持ちの裏返しなのだと気づいたときから、ずっとその傷に囚われたまま生きている。
人間が当たり前に生み出す感情も、当たり前に営む関係も、全てが正しく享受できない。もしくはわたしが正しいのかもしれないという気持ちも、少しはあるけれど。この際正しいかどうかなんてどうだってよくて、都合良く解釈できたらいいのに。息絶える瞬間までにこれができるようになれば、わたしの人生は満点が取れるだろう。
けれども、もし、わたしがわたしのために生きていいのだとしたら。
人てして生きる権利を真っ当に行使していいのなら。
あなたを心の底から愛していると、言いたい。
愛を、人を縛り付ける呪いだというそのものが呪いみたいなドロドロとした全てから解放されたい。そしてあなたをただ心地よい温もりで抱きしめて、大丈夫だよと言うわたしを見て、きみが言うならそうなんだなと思ってもらいたいのだ。
わたしが、わたしのために生きていいのだとしたら。
きみへの愛は、呪いなんかではなく、祈りとなるだろう。
ただ、きみとわたしの幸せを祈る、それだけのこと。
今でも覚えている。幼稚園生が数十人並んで各々のポーズをとる写真とともに、名前と将来の夢を書いてまとめたものがあった。女の子は揃って「ケーキ屋さん」「プリキュア」「お嫁さん」と書いていたと思う。私はたった1人、「アイドル」と書いていた。今思えばあの頃、まだ5歳くらいだった時からもう、私の人生は人よりも少しずれてしまったのかもしれない。
私がアイドルを好きだという感情は、もはや崇拝である。アイドルは夢を与えてくれる。苦しいレッスンやアンチの言葉とも戦って、その全部をステージのエネルギーに変換して歌って踊る。私はその宗教がたまらなく愛おしいし、アイドルを見ていると猛烈に胸が躍り、そして痛む。アイドルなんていうものは、アイドル側もそれを応援する側もどこかずれてしまっているのかもしれない、と思ってしまう。
歌って踊ることが好きだ。ステージの上でキラキラ輝いて用意された歌詞を歌い振り付けを踊る。そこに計算され尽くした表情管理やファンサ、一つ一つがアイドルによって違って、それが所謂美学なのだと思う。その美学のぶつかり合い、ドラフト、どの美学を良いと思ったかがファンとなる過程である。世界には数え切れないほどのアイドルがいて、その数だけ美学がある。その世界に自分も行けたらいいのにとずっと願っていたのだ。歌って踊っているとき、心の場所がわかる。私は今"アイドルを演じているのだ"という強い高揚感が私をぐちゃぐちゃにする。私のアイドルはステージ上で完璧なパフォーマンスして、目が合えばレスを送って、悲しいことがあっても悲しかったなんて言わない。毎日が、アイドルが楽しくって仕方がない!って顔で歌って踊る。それがアイドル。
幼稚園生のときからの夢、これから叶うよ。
私はアイドルになるらしい。全然信じていないけど。きっと当日のギリギリまで信じないだろう。でも、一応そういうことになっているのだ。さあ、私はどんなアイドルになろうか。
アイドルは私の光だ。
アイドルになりたいと思わなかったら対面しなかった、私のもう一つの人格だ。それが私の影をも救い、光り輝いて、私にはコレがあるから!と胸を張って生きていける。そう思わないかな?アイドルなんて好きにならなければよかったと、心の底から思ったことがあったけれど。アイドルが好きじゃなかったら今の私の人生は半分以上違ってしまうだろうと思う。私の光は、間も無く幕が上がる。その先で出会う私の偶像が、どうか最大限まで綺麗なものでありますように。私は、アイドルなのだから。
昔好きだった絵本がある。
主人公は人付き合いが苦手なねずみで、ひとりできままに生きていた。そんなねずみのところにある日いとこねずみがやってくる。そこに泊まり込みたいというのだ。主人公はなんて面倒なんだと思いながらも渋々いとこを泊めてやった。いとこねずみは主人公とは正反対の性格で、朗らかで人付き合いが良い。近所のねずみともどんどん仲良くなる。そんないとこに誘われて、二人は一緒に川を船で渡ったり、食事をしたりという1週間を過ごした。そして最後には主人公もいとこに心を開き、またくるよ!と別れを告げるのだ。私が好きだったのはここからである。その絵本の最後のページに食器棚が描かれているのだが、そこにははじめは確かに1つずつしかなかった食器が二つずつ並べられていた。その描写があまりにもあたたかくて、食器が増えるということは人と繋がるということなのだと、幼い心ながらに思った。
マグカップ。そういえば昔、同棲をしている友達にペアマグカップを送ったことがあった。自分でも、昔はそういうことをしていたかもしれない。
食器が増えることは、あたたかくて幸せな現象。けれども、それが必要なくなったときの気持ちがあまりにも痛い。
お揃いのマグカップ。ひとつのイヤホンで聴いた音楽、とっておきの小説の共有。全て、あなたのことがたまらなく大切だからしたことで。エピソード記憶として、私を苦しめ続けるのだろう。こんなことになるのなら、教えなければよかった、買わなければよかったと。
飲み物を飲むたびに思い出す。これをあなたとお揃いのものだったなと。これを選んだときのことを鮮明に記憶に呼び出し、その温もりはとっくに冷たさに変わっていることを知る。思い出すということは、時にぬくもりを、そして時に冷たさを運んでくる。もうあの時間は戻らないという冷たさ。けれどもあの場所には確かに温もりが存在していたという事実。
私は一人でこれを使い続けているよ。
もう取手をハートにしたりすることはできないけれど。
ねえ、こんな気持ちになるなら、買わなきゃよかったのかな。
わからないね、今となっては。
あの日の幸せが、今日の私をじくじくと傷つける。
もしも君が私のことなんて好きじゃないと言ったら、私はなんと答えるだろう。
よかった、私のことなんて好きじゃなかったんだ。そっか、だからなんだ。好きじゃないから、私はこんなに悲しい気持ちになったりしていたんだ。私は愛情を受けて歪んだ化物なんかではなくて、ただ愛情を受けることができない悲しい存在なだけだったらしい。
好きじゃない、この言葉は鋭利だ。世界で同時に言葉というナイフを振り翳したら、大量の死人が出るだろう。
君が私のことを好きじゃなかったらよかった。そしたらわたしも君のことを好きなんかではなかったと思う。
それはつまり、この物語が始まらなかった未来がスタートするのだ。
こんなにも愛おしい痛みも知らずに、ただただ見えない何かに拘束されたような気分になり、手を伸ばして、届かないその愛情に。私は必死に掴もうとする。
だいすき、だいすき、だいすきなんだよ。大好きなんだ。
君の全部がわたしになったらいいのに。
君の見る景色、君の心、その全てが私にも同じように伝わったら
君を傷つける頻度はきっと減るし喜ばせることもできるだろう。
きみが幸せならそれでいい、ほんとうにそれでいい。
その幸せに私が組み込まれていたら、もっといい。
朦朧とした意識の中で綴る、もしもという文章は
暴力的までに私の脳を刺激する。
本当に、幸せたらそれでいい?
その幸せに、自分が関与したいのだろう。
私がいるから幸せだと、君に言って欲しいのだ。
なんという欲望。愛とは何よりも醜い。
ビニール傘越しに眺める雨が好きだ。
あの独特な素材が雨を叩く音と、絶対的に守られている透明な安心感の中に宿る不幸みたいだ。けれどもきっと同じような人間に、碌な人はいないのだろうな。全員がその空間に浸っているだけだ。
私は昔から音楽に救われて生きていたけれど、音楽すらまともに聴けない日がある。人の創作なんかに救われてたまるかという日や、どんな歌詞を聴いてもその全てが自分を責めているように感じる日がある。そんな時は雨音を聴く。今時のスマートフォンは便利で、ワンタップで雨音が流れるようになる機能などが存在している。(そのせいで何度も意図せず世間に雨を降らせて驚かれたことも多々あるが。)雨音は何にもならず、ただ冷たく地面を叩くだけだ。
誰にでも平等で、初めからどこか不幸で、湿っていて。
それがとても、好きだ。