この作品には以下のような内容が含まれています。
・暴力的な描写や身体的な苦痛
・精神的な苦痛やトラウマに関する内容
:つまらないことでも
青い色した丸型のデカいゴミ箱の蓋を開けると獣臭がした。ゴミ箱の中にいるお前をただ見詰めるしかできなかった。
――あ……はは、きっと近いうちに捨てられるんだと思う。僕どうなっちゃうんだろ……。
――どうもしねぇ、さっさとソイツから離れりゃいいんだよ。捨てられる前に逃げろ、そしたら匿ってやれる。
そんな会話をした翌日から音信不通になった。こんなゴミ溜めで異臭が漂う中、ゴミ箱ん中詰められて、何やってんだ。胎児のように丸まっているが足が見えない。膝から下はどこに行ったんだ。右腕も無い。どこだ、どこに、そもそもお前、生きてるのか。なんで逃げなかったんだ、なんでこっちに来なかったんだ。ヤベェ奴から逃げて隠れて安静にしてりゃ傷も癒えて元気になって、したらそのうち堂々と外出れるようになるはずだったろ。捨てられるって比喩だろ、なんで本当にゴミ箱に詰め込まれてんだよ。なんでお前は、早く連れて帰んないと、なんで
「ねえってば!!」
「あ!?」
体が跳ねた。なんだここ、世界が横向き……いや違う、自分が寝転んでいるのだ。
「酷いうなされ方してたから起こしちゃった、ねえ、大丈夫? あ、お水持ってこればよかったね、すぐ取ってくる!」
肩に置かれた右手、歩いていく姿、手も足もちゃんとくっついてる。
「お前、生きてるよな、手足もちゃんとあるし……」
「手足? 幽霊じゃないし生きてるよ、大丈夫……もしかしてまたあの夢?」
水を受け取って落ち着かない呼吸ごと腹の中に流し込んだ。気持ちが悪い。部屋に臭いものなんてないのに、鼻の奥でゴミ溜めの臭いがする。夢の中で嗅いだ臭いってのを覚えてるのも奇妙なもんだ。
「なんでだろうな、ずっと見る」
「大丈夫、現実じゃないよ。だってほら見て、こんなに元気に生きてるし!」
「そうだな……夢だ。お前がゴミ箱に入ってるところなんて一度も見たことねぇのに、はは、ほんとなんでだろな。見たことあるような気すらしてくんだ」
「気のせいだよ、大丈夫、大丈夫……」
■
ゴミ箱に入っていたのは僕じゃなくて君だ。
君と僕はご近所さんだったから小さい頃から一緒に遊んでいた。その日はインターホンを押しても「今日は熱を出してるから遊べないの、ごめんなさいね」と言われたから一人で遊んでいた。晴れていた空が今にも雨が降り出しそうな黒い雲に覆われて家に帰ろうとしている途中、ゴミ箱の中に入ってる君を見つけた。偶然だった。ポツンと置かれた丸くて大きな青いゴミ箱の中身が気になって、いたずらに開けてみただけだった。引っ張っても開かず諦めかけたとき、その頃親に教えてもらったペットボトルのキャップの開け方を思い出した。大きな蓋を半回転するとロックが外れて蓋が空いた。ワクワクしながら中を覗いたら君が入っていて、幼い頃だったからてっきりかくれんぼでもしてるのかと思った。それにしては半袖半ズボンから除く皮膚は傷だらけでアザができているし、具合が悪そうで、というかさっき熱を出してるって聞いたのに変だと思って直ぐに家に帰って母に伝えた。母の顔色も悪くなってすぐに付いてきてくれた。当時は理解できなかったが、虐待だったらしい。
胎児のように丸まって暗いゴミ箱の中に閉じ込められていた。今思い出しても躾というにはあまりにも痛々しくて、暴力的で、ただただ辛かっただろうなと心を痛めることしかできない。
己の過去を僕に投影して夢を見ているらしかった。それに気づいたのは本当に最近だ。週末定期的に部屋に遊びに行って夜通しゲームをしたり映画を見たりするほど仲は良い。僕はよく寝落ちしてしまうが君が眠っているところを見たことがなくて、聞けば「ショートスリーパーなんだ」と言われて「そうなんだ」で済ませてしまった。最近は少し眠れるようになってきたと言われ、変だなと思って事情を聞いた。
「ゴミ箱の夢を見るんだ」「こんな経験したことないのに、やたらリアルで気味が悪いんだよ」「正直怖い。蓋を開けてお前が死んでたら、お前が死んだら、いよいよ孤独になっちまうって」「お前が『捨てられる』って言ったのが妙に印象的だったんだ。それで夢に出てんじゃねぇかな。でもお前のせいじゃないんだ」
確かに前ちょっと厄介な恋人がいて、捨てられるだなんだと傷心したことはあった。僕がDVされてたから当時の僕は気が狂ってたんだ、捨てられるも何も僕が依存してただけで……とりあえず結果的に円満……でもないけど別れられたし、それはちゃんと伝えた。君に匿ってくれるって言われて僕も僕で甘えてしまっていたんだと思う。見捨てられたくないとか、でも怖いとか、嫌いじゃないけど離れたいとか、やっぱり嫌いかもしれないとか、さんざん吐露した。そんな僕の言葉と君の記憶が紐付いてより夢を複雑化させてしまった。
君は虐待の記憶がすっぽり抜け落ちている。だから夢を見ても自分のこととは思わないが、体験したことを体が覚えていてパニックを起こす。自分の脳と体が繋がっていない感覚は恐ろしいと思う。どうするのが正解なのか僕には分からない。無理に辛い記憶を思い出す必要はないんじゃないかとか、思い出してしっかり治療したほうがいいんじゃないかとか、しかしどれを選んでも君は傷つくだろう。ならばこのまま夢の話にしてしまって、僕を被害者だと思ってもらって、僕に投影することで巡り巡って自分自身を癒やすことに繋がれば、まだマシなんじゃないか。
一緒に過ごして楽しいことや面白いことを沢山すれば傷を癒すことができるんじゃないか。派手なことじゃなくてもいい。些細でつまらないことでも一緒にいれば孤独感だって少しはマシになるんじゃないか。恐怖や痛みより多く幸せを積み重ねれば、君だっていつかぐっすり眠れるようになったり、したら、いいな……。難しくても、少しでも楽に。
「気のせいだよ、大丈夫」
この言葉がもし呪いになっていたら……のろいでもまじないでもどちらでも良い。君が眠れるようになれるならどちらでも。
:病室
「どうしたら赦してくれる、どうしたら償える、どうすれば良い」
虫が良いことを言ってるのは自覚している。むしろ殴られるか詰られることを覚悟していた。なのにお前はそんなことすらしなかった。
「いじめた奴を抱きしめるなんて神経がイカれてる」
そう言ったらもっと強く抱きしめて笑ったんだ。やっぱりずっとお前のことなんか分からなかった。どうしようもなく 自分の感情が理解できなかった。お前に対して何を感じてどういう思いを抱いたのか分からなくて暴力になった。一番最初、始まり、優しくされたのに腹が立ったことを思い出した。今は腹が立つ思いなんて微塵も湧いてこなかった。
■
抱きしめたとき「イカれてる」って言われた。そんなにイカれてるかな。だって泣いてたんだ。助けてあげなきゃって思った。君の名誉に関わることだろうから言っておかなきゃいけないと思うんだけど、可哀想だから抱きしめたんじゃないよ。ただ少しでも楽になってほしかった。痛みを一人で抱えるのは辛いから、ここにいるよって。君に一人になってほしくなかったんだ。
心から後悔して謝罪したとしても過去が消えるわけじゃない。「殴ってごめん、暴言吐いてごめん、いじめてごめん」と言っても過ちが無くなるわけでもないし相殺されるわけでもない。それでも君がぐっちゃぐちゃな顔して「ごめん」って言ったんだ。どうしようもない感情に駆られてぐちゃぐちゃになって苦しんだんだと思う。されたことを忘れることはないし、されたことを「良いことだった」とは言えない。でも苦しんでるなら君を抱きしめたいと思った。
「自分が赦されて楽になりたいがために『ごめん』って言ってるんだ、謝罪するなんて卑怯者だ」と言う人もいる。その意見も間違ってはいないと思うし、実際そんな思いで「ごめん」と言う人だって沢山いるだろう。でも「ごめん」って言葉がないと相手がどんな風に考えているかなんてこちらには分からない。伝わってこない。君がちゃんと口にしてくれたから、君が過去を考えていることを知れた。誰だって赦されたいよ。苦しんでるならそれが償いだと思う。
こっちだって君が「ごめん」って言ったから赦してもらえたような気持ちになった。何かしでかしたから君を怒らせたんじゃないかって思ってたんだ。例え第三者から見てこちらに落ち度がなかったとしても、君が傷ついたなら傷つけたってことだから謝りたかった。でもこんなこと言ったら君はより苦しんだ。「なんでお前が謝るんだ」って言て泣いた。まるでお腹からナイフが飛び出していて、抱きしめれば抱きしめるほど君を刺しているみたいだと思った。傷つけたくないよ。でも、その痛みが君の償いになるんだろうから、安易にやめてなんてあげられない。「赦してあげる」なんて簡単には言わない。楽をさせることもしない。ちゃんと「ごめん」に痛みを伴わせて、ちゃんと苦しんだ方がこういうのは良いんだと思う。
嫌われてると思ってたんだ。でも嫌われてなかった。なら戻れるって……もう一度やり直しができるって言うのかな。一緒に遊んでた頃みたいになれるならなりたいよ。いがみ合って憎んでるよりそっちのほうがずっと良い。それをするのが「イカれてる」って言うなら、イカれててよかったって思うよ。
:澄んだ瞳
君は多くの光を瞳孔に集め、キラキラした景色を見ているんだろうか。
彼女は日傘を後ろに倒して上機嫌にはしゃいで笑っている。地面には柔らかい草が広がり、色とりどりの花が花弁を広げ、彼女と共に笑っているかのように小風を受けて首を揺らしていた。第一ボタンまで留られた真っ白なブラウスが春の日差しを浴びて閃き、ふんわり広がる青いスカートが大きく揺れて、後ろで結ばれたリボンが風に乗って見え隠れしている。服すら陽気で朗らかであった。
彼女は笑っている。濁りを知らない透き通った美しい目、澄んだ瞳で。その目で君はこの景色を、この世界を見ているのか。そんなに楽しく見えているのか。
――君の目は美しい。美しくて、いっそ醜い。
ハードダーツを手に取る。無意識だった。金属の先端を瞳目掛けて思い切り振りかぶる。想像より硬い感触、滲み出す血、どこまでも刺さっていくダーツ、笑顔の君。
潰した。醜い嫌悪の対象だからその目を潰した。どこまでも澄んだ汚れを知らない脳内お花畑のイカれたクソ女の目を潰してやった!!!!
ダーツが刺さったぐちゃぐちゃの写真、所々凹んだ床、傷だらけで血が出ている己の手の甲を見て清々しさと苛立ちと憎しみと喜びが入り交じる。取り敢えず手が痛かったから絆創膏を探した。
昔撮った写真はもうデジタルには残っていない。プリントして飾ってある分で最後だ。傷をつけてしまえば二度と彼女を見ることができなくなってしまうということ。これでまた一枚消費した。徐々に部屋から君が消えていく。これでいい、これでやっと満足できる。
ぐちゃぐちゃで血の付いたゴミを拾い上げてゴミ箱に投げ捨てた。
:鳥かご 続編
1年前に書いたものも一番下に載せています。
「こんな小さな鳥かごの中より、君はもっと広い空へ飛び立つべきだ。君が僕のもとから離れるというなら僕はそれを肯定しよう」
「俺は、貴方のことが好きですよ」
その優しさが苦しい。
■
15分程前に遅刻の連絡を受け取ったが、そろそろスマホをいじっているのも飽きてきた。先に注文したアイスティーは既に汗をかいている。カラカラとストローを回して氷を鳴らした。すぐ来るだろうと思って二人分のドリンクを注文しようとしたが、辞めて自分の分だけの注文にして良かった。
外は太陽が照って、木が濃い影を伸ばしている。その木に張り付いた蝉が元気良く鳴いていて在りし日の夏を思い出した。一緒に肩を並べて笑いながら登校した数年前を。
「あ〜〜……! おまたせしました、すみません! 仕事が長引いちゃって……」
息を切らしながらドサドサと荷物を落とす慌ただしい到着に、思いを馳せようとしていたところで我に返る。
「構わないさ。仕事の合間を縫って来てもらってるんだし、むしろこちらの都合に合わせてもらって申し訳ないよ」
「それこそいいんですよ! 俺から会いたいって言ったんですし」
謝罪もそこそこに「俺も飲み物頼みますね」とメニューを見始めた。「今日はこっちにしよう」と呟いたから、なるほど今日はレモンティーにするのかと思った。
「アイスコーヒーをお願いします」
「え」
「え? アイスコーヒー頼みますか?」
「いや、ううん、ごめん」
僕はストレート、君はミルクティー砂糖入りでアイスならシロップ入り、たまに味を変えるとしても僕がコーヒーを飲むか君がレモンにするだけ、これが定番だったのに。よくよく考えてみれば数年経っていれば味覚だって変わっていて当たり前だ。なのに僕は、君が変わっているだなんて。
「……コーヒーは苦くて飲めないんじゃなかったの」
「あ〜、そうでしたねぇ。昔は苦くて飲めなかったんですけど、眠気覚ましに飲むようになってから意外と美味しく思えてきたんです。あ、でもお砂糖を入れるときもありますよ?」
「そっか」
もう僕の知ってる君じゃないんだと突きつけられている。そうか、そうかやっぱり君は最初からもっと自由になるべきだったのに、僕が無理矢理捕まえて無理矢理決めつけていたんだ。
己が招いたことだというのに心臓の裏側が炙られているみたいで息苦しい。これじゃまるで被害者ヅラをしている。
「君とこうやってお茶をするなんて懐かしい気持ちだよ」
「そうですねぇ。あれからいち、にぃ、さん、し……わぁ、7年ぶりですよ! もうそんなに経ったんですね」
「それで、今日は僕にどんな要件で?」
ふわふわ嬉しそうにしていた顔が固まって、視線を外して、目を伏せた。
「ん〜…………昔のこと、を、話したくて」
カラン、と氷が崩れる。
「それって……学生時代の」
「そうですね」
ついにこの時が来たんだ。処刑台の刃が落とされて僕は首を刎ねられるだろう。
■
図書室で本を読んでいた。その日は青空が広がって窓辺には柔らかい陽光が降り注ぎ、ゆったり本を読むには良い日だった。君が今日図書室に来るだろうと踏んで。
しばらく本を読んでいると扉が開いて君が入ってきた。「あれ、図書委員は今日お仕事かい?」とあたかも偶然を装って聞いたら「こんにちは。今日は仕事じゃないんですけど、時間のある時にやっておこうかなぁと思いまして。お邪魔してすみません」と予想通りの回答だった。大丈夫だよと言って手伝う為に本を閉じて立ち上がる。
本の整理をしながら鳥かごの話をした。君に似合いそうだって。自由に羽ばたける羽をもぎ取ってでも欲しかった。一生檻の中で飼い殺すくらいじゃないと満足できないと思っていた。
「一緒に座りませんか」と言う優しい声と優しい笑みを見たら堪らなく幸せに感じた。
幸せの青い鳥がいたら鳥かごに入れたいと思うだろう? だから捕まえた。騙したようなものだ。「鳥かごが似合いそうだね」と言ったとき「俺、そんなに弱っちく見えますかね〜」「だって鳥かごに入ってる鳥は捕まってるわけじゃないですか」なんて言うからバレたんじゃないかと肝が冷えた。それとなく誤魔化したけど、間違ってなかったよ。表面上はニコニコ愛想良く笑って相手の警戒心を下げて近づいて捕獲なんて、れっきとした犯罪者だ。気持ち悪いクソ野郎だと罵ってくれ、見損なったと言ってくれ、勝手な話だがそう思っていた。君なら伸ばした僕の手をちゃんとはたき落としてくれるだろうなんて思って。
君、なんて言った? 「いいですよ」って僕の手を取ったんだ。馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか、馬鹿じゃないのか!
羽をもぎ取って血まみれにした。僕にはそう見えていた。流石の君も嫌がるだろうと思ってみれば、血まみれのまま嬉しそうに笑ってこちらに手を伸ばそうとしてくる。「ハグがしたいんです」って、「貴方のことを大事に思ってるから」って。怖くなった。否定されると思っていたのに受け入れられたのが心底理解できなかった。
だからある時言ったんだ。
「こんな小さな鳥かごの中より、君はもっと広い空へ飛び立つべきだ。君が僕のもとから離れるというなら僕はそれを肯定しよう」
卑怯な言い方をした。僕はずっと卑怯者だったけれど。
「俺は、貴方のことが好きですよ」
僕だって、なんて言えなくて蹲った。滑稽だろう。滑稽すぎて目も当てられない。僕もそう思う。
■
「僕は君にごめんね、なんて言うつもりはないよ」
良いように使って、捨てるようなことをした自覚はある。それでも今更過去を悔やんで謝罪なんてしたところで、それはただ僕が許しを乞いたいだけだ。
「あはは、もう、勝手に思い込んで先走りすぎです。謝罪が欲しいなんて思っていませんよ」
どうしてそんなことが言えるんだろう。僕はずっと君に……君に? 僕から手を伸ばしても掴むのは空気だけで、指先が君にかすることすらなかったのに。
「気になりますか?」
「『気になる』って……僕は、昔のことなんて……」
柔らく微笑みじっと見つめてくる目や顔から怒りや悲しみが感じられない。僕を責め立てるような棘がない。それどころかむしろ柔らかく包み込もうとしているみたいなのは、僕がそう思いたいからなのか。
「…………君みたいな人が僕を置いて行くなんて意外だと思っていたんだ。これは僕の慢心だったのだろうけれど」
どうにか憎まれ口を叩く。そうでもしないと君は怒ってくれない。……責められたいのだって、僕がそれで楽になりたいからじゃないか。
「それは……」
「いや、いい、答えなくていい、口が滑っただけだから」
「君が蹲っている時、俺が必要だとは思えませんでした。君を支えてくれる新しい人がきっと君のもとに現れるんだろうって、そんな気がしたんです」
「喋るのかい?」
「ふふ。それに当時の俺はもう貴方にとって用済みなんだと思っていましたから。あ! 今はそんなこと思ってませんよ! 今も、今でも、貴方と友達になりたいと思ってるんです」
「…………そう」
相変わらずお人好しだと思う。頭の中がぼぅっとしてきた。いつ裁かれるのかそればかりが気になって話が入ってこない。いっそ早く君の口から否定の言葉を聞きたい。
「むしろ、貴方みたいな人が俺を逃がそうとする方が意外でした。そんな気全然なかったんでしょう? 天邪鬼なんですから」
「でも……君はちゃんと逃げたじゃないか」
「そうです。貴方から解放されて自由になった。俺は俺の青い鳥を探しに鳥かごから飛び立ちました」
「……それじゃあ、君は自分の青い鳥を見つけたからそれを報告しにきたってことかい」
君の幸せなんて聞きたくない。もはや気力がなくなって手持ち無沙汰になってきた。氷が溶けて薄まったアイスティーを手に取る。
「そうです、だからこうして貴方のもとに来たんです。ねえ、貴方は後悔とか執着心が強いですし、まだ解消しきれていないのかもしれないけど……むしろそれで良いんです、物語は終わりを迎えていませんから」
幸せそうに目を細めて、告げる。
「俺は俺の幸せの青い鳥のもとに帰ってきたんです」
頭が重い、視線が下がっていく。蝉がうるさい。
「貴方のもとに」
ストローを噛んだ。
あの時の君と重なって見えた。首を傾げて、差し込む光に照らされ艶めく髪。ふわりふわりと風で服の裾が揺れていて、今にもその青空へ飛び去ってしまいそうだった。それでも「一緒に座りませんか」とそう僕に言って、優しく笑いかける、君の顔と。
カランカランと氷の音がして顔を上げる。
「俺はコーヒーが飲めるようになって嬉しいんです。貴方と同じものを飲めるようになったんですから」
苦しい。
お題:鳥かご 2023/07/26
君は鳥かごが似合う。必ず。
首を傾げて、差し込む光に照らされ艶めく髪。ふわりふわりと風で服の裾が揺れていて、今にもその青空へ飛び去ってしまいそうだ。君は人気者。君は自由。
「一緒に座りませんか」
――今だけはその目、僕を見ているんだ。
図書室の本を整理しようと扉を開ければ珍しく先客がいた。窓辺に設置された椅子に座っている彼は柔らかな陽光に包まれている。ゆったりとページをめくって優雅に本を読んでいるようだ。今日は天気がいい。青空を視界の端に見ながら読書をするのはとても心地良いだろう。
「あれ、図書委員は今日お仕事かい?」
「こんにちは。今日は仕事じゃないんですけど、時間のある時にやっておこうかなぁと思いまして」
お邪魔してすみませんと言えば彼は大丈夫だよと微笑んで本を閉じ立ち上がった。どうやら手伝ってくれるらしい。
「バラバラになった本を順番に並べ変えて、それから……あった、これです。この紙に本の有無を記入していくんです」
「お安い御用だよ」
「助かります」
コトンコトンという本の音と柔らかな陽光に自分以外の息づかい、穏やかな空気に包まれている。今日彼がここに居て良かった。
同じ本棚についたとき、彼はこちらを見て唐突に言った。
「君は鳥かごが似合いそうだね」
「鳥かご?」
とても嬉しそうな顔をしているものだからそんなに似合いそうですかと問いかけた。彼は満足そうに頷き「うん。とても」と目尻を下げる。
「俺、そんなに弱っちく見えますかね〜」
「弱いだって?」
コトン、スー、コトン、コトン。この本は表紙が弱っている。
「ええ。だって鳥かごに入ってる鳥は捕まってるわけじゃないですか」
「うん、そうだね」
コトン、ス、コトン、コトン。ここの棚は滑りが悪い。
「餌に仕掛けられた罠に掛かって捕まったんですよね。だから、小さくて弱いのかなぁって」
コトン、コトン、コトン。この本はシリーズ物なのに2巻目が足りない。
「ねえ、鳥を飼う時、君は野生の鳥を捕まえるの?」
本棚に入れようとしていた本を中途半端に止めて彼を見上げた。とても真剣な眼差しだった。
「そんなわけないじゃないですか。法律違反ですよ〜? 買うんですからペットショップに行きます」
「そう、綺麗に飼われた鳥を買いにいく。それから鳥かごに入れる」
「あれ、じゃあ俺、おぼっちゃまとかに見えてるんですか」
「ふふ、確かに君は世間知らずの箱入りおぼっちゃまだ。鳥かごに入れて、お世話をして、美しい羽を保たせて、それから毎日眺めて君を見つめるのはさぞ満たされるだろうね」
コトン、コトンと、彼は順調に本を入れ始める。
「なんだか褒めてもらってる気分です」
「君が綺麗なのは事実だよ」
「だから鳥かごが似合うって思ったんですね」
「決して弱いだなんて思っていないよ。君を見下しているように聞こえた?」
「いえいえ! そんなことありません」
「そうかい?」
「優しく丁寧にお世話して飼うっていうのもありますもんね。鳥かごのイメージが、拘束とか捕獲とか、そういう過激なイメージがあっただけです」
コトン。抱えていた最後の一冊を入れた。
「少し休憩にしましょうか」
随分埃っぽくなった部屋の換気をしようと窓を開けると、ぶわっと強い風が教室に吹き込んでくる。心地良い。陽の光も、青い空も。
風が気持ちいいですよ、と声をかけようとしてやめた。彼はさっきの場所で立ち止まったままだ。
「……間違ってないよ」
(彼は何か言っただろうか)
「僕は欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れる口だ。それこそ野鳥を捕獲するのが違反だとしても。自由に羽ばたけるその羽をもぎ取ってでも、僕は欲しい」
(彼が鳥を飼ったら、頬杖をついて、うっとり眺めるんでしょうか。ちょうど今みたいな目で)
「お世話をして可愛がるだけの生温いものなんて満足できない。拘束して捕獲して、鳥かごに閉じ込めて、一生檻の中で飼い殺すくらいじゃないと」
(あ、今、いいアイディアが思い浮かんだんでしょうか。とても楽しそうな顔……こんなに遠い)
「一緒に座りませんか」
今度こそ声をかけると彼は一等優しく微笑んだ。
:花咲いて
床に赤い花を咲かせる。
歩いてきた道を示すように、ポツ、ポツ。
呆然としていたから目の前にある電柱に気が付かなくて鼻から突っ込んだ。強く噛み締めて切った唇の血と、鼻から垂れる液体が混ざって顎に流れ、慌てて下を向いた。ボタ、と落ちた赤い一滴。表面張力でギリギリ保っていたストレスカップにそいつが入り込んできたもんだから耐えられなかった。我慢の限界と鳴き喚く蝉の声で強烈な目眩がした。
努力だとか、才能だとか、そういったものが辛くて足を引きずって歩いている。重たい足枷みたいな。
「なんかすっごい賞を取れたんだ! 今度表彰されるって……へへ」
水を飲んでも飲んでも口の中がやけに乾いた。震える指でカップをつまみ上げていることが相手にバレていたら、底の底に残っていたプライドすらへし折られてしまっていたかもしれない。なんとか取り繕って「おめでとう」と言えたのは、あいつが人と目を合わせられない人間だったからだ。気恥ずかしそうに自分のコップだけを見つめてくれていて助かった。
「おめでとう」
笑えなかった。他人の成功を喜ぶことができない小さい自分にも、バケモノみたいなスピードで成長していくお前にも。
「なんで?」って言葉が滑り落ちた。なんでそんなに優れているんだ、なんでそんなことができるんだ、なんで自分はできないんだ、の「なんで」。そう思うことすら惨めで恥ずかしい。優れている人は皆どこかで何かの努力をしているのに、それを「なんで」なんて言葉でまとめるなんてあまりにも浅膚だ。その人の努力を踏みにじっているも同然の言葉だ。なのに、そんな言葉を口にした。
覚束ない足取りで帰路を辿った。いっそ泣き喚いてしまえたら楽だろうに、あまりのショックで涙がひと粒も出てこなかった。何も考えたくない。ゴツンと鼻をぶつけた激しい痛みでようやく我に返ったが、直ぐにまた朦朧としてどうやって家に帰ったかは覚えていない。右足を引きずって帰ったような気もする。重い足枷をつけられているみたいに。
リビングの床で蹲っていた。頭を上げると乾ききっていなかった鼻血が一滴床に落ちた。拭かなきゃ。
振り返って廊下の方を見た。床にポツポツ赤い色が付いている。玄関の方は真っ暗でよく見えないがきっとそっちも汚しているだろう。早く掃除をしようと立ち上がるが、目の前がジワっと黒くなって砂嵐のようなものが見えた。結局また蹲ってギュッと目を閉じる。体調が悪い、寒気がする、早くシャワーを浴びて眠ってしまいたい。
そっと目を開けて辺りを見回す。床の方で何かが蠢いている。虫だろうかとよく目を凝らしてみると、ポツポツ落としてきた血から、ゆらゆらと何かが生えてきていた。赤い花、真っ赤な花だ。真っ赤な花弁を大きく広げて膨張しながらどんどん上へと伸びていく。手に何かが触れて飛び跳ねるように立ち上がった。先程落とした血からも花が生えてきて、どんどん大きくなっていく。右足に蔦が絡まってきて思い切り締め付けられる。どこもかしこも暗くて赤い。早くここから逃げなければ。そう思うのに、動けなかった。カタカタ震えるばかりの指先、いっそ泣き喚いてしまいたいほどの恐怖。なんで、なんで、なんで!
――身に覚えがあった。おめでとうを素直に言えず震えて、努力とか才能とかに気圧されて、挙げ句の果てに「なんで」なんて、全部自分が辿ってきた道じゃないか。自ら蒔いてきた種じゃないか。ああ、なんだ、なんだ。はは、そうだ、分かっていた、あいつの方が伸びることくらい、最初から目に見えていたのに、今更ショックを受けているだなんて。甘えてたんだよ。ずっと甘ったれだったんだ。
「おめでとう」
黄金に輝く丸い花を胸に咲かせている。
キラ、キラ、ただただ眩しかった。