:花咲いて
床に赤い花を咲かせる。
歩いてきた道を示すように、ポツ、ポツ。
呆然としていたから目の前にある電柱に気が付かなくて鼻から突っ込んだ。強く噛み締めて切った唇の血と、鼻から垂れる液体が混ざって顎に流れ、慌てて下を向いた。ボタ、と落ちた赤い一滴。表面張力でギリギリ保っていたストレスカップにそいつが入り込んできたもんだから耐えられなかった。我慢の限界と鳴き喚く蝉の声で強烈な目眩がした。
努力だとか、才能だとか、そういったものが辛くて足を引きずって歩いている。重たい足枷みたいな。
「なんかすっごい賞を取れたんだ! 今度表彰されるって……へへ」
水を飲んでも飲んでも口の中がやけに乾いた。震える指でカップをつまみ上げていることが相手にバレていたら、底の底に残っていたプライドすらへし折られてしまっていたかもしれない。なんとか取り繕って「おめでとう」と言えたのは、あいつが人と目を合わせられない人間だったからだ。気恥ずかしそうに自分のコップだけを見つめてくれていて助かった。
「おめでとう」
笑えなかった。他人の成功を喜ぶことができない小さい自分にも、バケモノみたいなスピードで成長していくお前にも。
「なんで?」って言葉が滑り落ちた。なんでそんなに優れているんだ、なんでそんなことができるんだ、なんで自分はできないんだ、の「なんで」。そう思うことすら惨めで恥ずかしい。優れている人は皆どこかで何かの努力をしているのに、それを「なんで」なんて言葉でまとめるなんてあまりにも浅膚だ。その人の努力を踏みにじっているも同然の言葉だ。なのに、そんな言葉を口にした。
覚束ない足取りで帰路を辿った。いっそ泣き喚いてしまえたら楽だろうに、あまりのショックで涙がひと粒も出てこなかった。何も考えたくない。ゴツンと鼻をぶつけた激しい痛みでようやく我に返ったが、直ぐにまた朦朧としてどうやって家に帰ったかは覚えていない。右足を引きずって帰ったような気もする。重い足枷をつけられているみたいに。
リビングの床で蹲っていた。頭を上げると乾ききっていなかった鼻血が一滴床に落ちた。拭かなきゃ。
振り返って廊下の方を見た。床にポツポツ赤い色が付いている。玄関の方は真っ暗でよく見えないがきっとそっちも汚しているだろう。早く掃除をしようと立ち上がるが、目の前がジワっと黒くなって砂嵐のようなものが見えた。結局また蹲ってギュッと目を閉じる。体調が悪い、寒気がする、早くシャワーを浴びて眠ってしまいたい。
そっと目を開けて辺りを見回す。床の方で何かが蠢いている。虫だろうかとよく目を凝らしてみると、ポツポツ落としてきた血から、ゆらゆらと何かが生えてきていた。赤い花、真っ赤な花だ。真っ赤な花弁を大きく広げて膨張しながらどんどん上へと伸びていく。手に何かが触れて飛び跳ねるように立ち上がった。先程落とした血からも花が生えてきて、どんどん大きくなっていく。右足に蔦が絡まってきて思い切り締め付けられる。どこもかしこも暗くて赤い。早くここから逃げなければ。そう思うのに、動けなかった。カタカタ震えるばかりの指先、いっそ泣き喚いてしまいたいほどの恐怖。なんで、なんで、なんで!
――身に覚えがあった。おめでとうを素直に言えず震えて、努力とか才能とかに気圧されて、挙げ句の果てに「なんで」なんて、全部自分が辿ってきた道じゃないか。自ら蒔いてきた種じゃないか。ああ、なんだ、なんだ。はは、そうだ、分かっていた、あいつの方が伸びることくらい、最初から目に見えていたのに、今更ショックを受けているだなんて。甘えてたんだよ。ずっと甘ったれだったんだ。
「おめでとう」
黄金に輝く丸い花を胸に咲かせている。
キラ、キラ、ただただ眩しかった。
7/23/2024, 4:04:54 PM