よあけ。

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9/17/2025, 11:50:09 PM

靴紐

ある男が煙草を吸いながら語っている。

「お金のことを心配したのでしょう。祖父は大きな家を売り、土地を売り。どうせ先の短い命だからと。あんなにあのアトリエとそこから見える景色を気に入っていたのに。その後、祖父はそのまま…………。

あの家で生きることが彼女の幸せなのかもしれません。あたたかな家庭で、きっと彼女もここにいるよりは笑って過ごせるだろう。何も間違っていない。…………それでも、目の前の幸福がこぼれ落ちていくのをただ見ていることしかできなかった、この寂しさはどうにも消えないものです」

道すがら、男はふと立ち止まる。靴紐がパラリと解けた瞬間、どうしようもなく、堪らなくなった。

「じゃあ死んだあいつはどうなる。本当の弟みたいに思ってた。彼女を守り、それで幸せだったと? なんのために。生まれてきた意味なんて……」

それを聞いていた若者がけろりと答えた。

「僕、弟さんが生まれてきた意味、あったんじゃないかなって思います。だって、奇跡的に隕石が落ちてくることなんて誰も分からなかったわけじゃないですか。でも、弟さんはたまたまその日帰ってきていて、たまたまベランダにいて、たまたま彼女さんと一緒にいた。だから彼女さんは今生きてる。奇跡的に弟さんが守ってくれたから。その為に生まれてきたんじゃないですか?」

男は思った。

緑の尾を引く隕石が、彼女と、その弟が談笑している方へ、一直線に向かっていく。それを想像して、やめた。『その為に生まれてきたんじゃないか』。生まれてきた意味があるんなら、それでよかったのだろうか。それで。

視線を落とした先、指に挟んでいた煙草が目についた。紫煙が星々煌めく夜空へ立ち昇ってゆく。

「…………そうか」

男はそう呟いて、滲む涙を拭いもせず、携帯灰皿に煙草を押しつぶしていた。

9/8/2025, 4:46:59 PM

仲間になれなくて


部室で皆既月食を見ていた気がする。その時、同性で一個上の、名前が素敵な先輩も一緒にいたかな。なんとなくその先輩が窓から少し身を乗り出して写真を撮っていた記憶がある。その背中を、多分何かを思って見ていた。結局覚えてるのは「好きだな」って感覚だけ。なんで好だったんだっけ。いつからだっけ。少人数の部活だったから、姿とかは見ていたけど、特に関わったりはなかった。真面目で精一杯ボーンを吹いていた姿が好きなんだったっけ。それとも、ボーンの音色が好きなんだったっけ。分かんない。

一回だけ遊びに行った。

好きなアニメとかのジャンルの話になって「あー、もしかしたらツバキさんは苦手かもしれない」って前置きしてから教えてくれたんだよね。実際確かに苦手な絵柄で、言い当てられたことが衝撃的だった。「なんで分かったの」って訊いたら「缶バッジ、△△……? だよね。付けてたよね。△△みたいな、綺麗系好きな人はこの絵柄苦手な人多いから」って。それで、あ、この人は周りをよく見て考える人だ、と思った。やっぱり私の目に狂いはなかったって、私はこの人のことそりゃ好きだろうなって思った。それから、そりゃ、そりゃ先輩、体調よく崩すだろうなぁって。

お店の人とのやり取り一つとってもしっかりして見えたし、歯切れのよい喋り方をする。私が「あんまり得意じゃなくてさぁ……●●なのにねっ」って自嘲したら「そうかな。そういう人もいるよ。●●より■が得意な人もいるし。ツバキさんは●●の人じゃなくて▲の人……って聞いたけど……そうだよね。●●じゃなくても、▲もいいと思う」って言われた。あまりにもハッキリと言われたものだから、不意を突かれて戸惑ってしまった。誤魔化す様に「あれ、いつ▲って言ったっけ」と訊くと「さっきのとき言ってなかったっけ」と言うから回想した。それは私がポロッとこぼしただけの言葉だった。先輩はきっと、いろんな細々した情報をたくさんインプットして記憶していたんだと思う。私が人の話を覚えてなさすぎるだけかもしれないけど。なんにせよそれって、すごく大変なことで、エネルギーを使うことで、ほんとぶっちゃけ生きづらいだろうなぁ。脳のリソースを割きまくってるわけじゃないか。そりゃしんどいよ、足りないよ、体調崩しやすいよ。

「朝起きられないよね」って話を二人でしてた。先輩は「起きたらずっと窓見てる」って言うのね。「分かる、私も虚無ってる」って返した気がする。そしたら「起きてから一時間はぼーっとする時間がいるよ」って言うから、どうかこの人の朝の時間が穏やかであればいいのにって思ってた。

電車に揺られながらいろんな話をした。「○○が好きなんだよね?」って訊かれたなぁ。あの人は一体どれだけの情報を頭の中に抱えて、それを適切な場所で出して――ってやっていたんだろう。

「大正ロマンっぽいのが好きなんだよね」って話もしてくれた。写真も見せてくれた。丁度それっぽい写真を撮っていたから「こんな感じ? ちょっと下手だけど……」って見せたら興味津々に覗き込んでた。

「上手くないって言ってたけど良い写真撮るやん。さっきの面白かった」とも褒めてくれた。人の心を掬い上げるのが上手な人だった。一緒にいると息がしやすくて、太陽の光がいつもよりきらきら繊細に輝いて見えた。ということは、私は今、この人を搾取してるんだろうな、と脳裏を過ぎって心臓がぐちゃりと潰れそうだった。気分を良くしてもらってばかりだった。そう感じるくらいには、私は心から楽しいと思っていた。

二人でベンチに座ってソフトクリームを食べながら、飛行機雲が描かれていくのを眺めていた。私が「子供の頃、飛行機に乗った時なんだけどね、窓の下を眺めたら海が広がってて、でも白いモクモクしたものが浮かんでたから大困惑した。海だと思ってたものは空で、白いモコモコは雲だった」って話をしたら笑ってくれた。

「一緒に写真撮ろう」って誘ってくれたから二人で撮った。私は写真に写るのが嫌いだ。でも嫌じゃなかった。「嫌じゃなければ」って言われたから。嫌じゃないよ、嫌じゃない。確かミッフィーのオブジェがあった。保存していたスマホを水没させてしまったから、その写真は今や幻。それでもどんな写真だったか思い出せるよ。

二人で歩いていた。マップを見ていたけど分からず唸っていたら「あ、道分かるから、案内する」って言ってくれた。「そうなの?」って訊いた時の「うん」って返事の仕方が今でも小さな魚の骨みたいになって刺さってる。真っ直ぐ前を歩く先輩は何を考えていたのかな。

クレープを食べた。初めてアボカドが入ってるクレープを食べた。美味しかった。「クレープ」って、ベタだなぁ。

「全然知らん場所だ〜!」と感動していたら「ここ、いつも散歩する場所やわ。なんか見覚えあると思った」と先輩がはにかむ。「え!家近!」「30分くらいで家」「家遠!」って笑ってた。深夜徘徊に最近ハマってるって話をしてくれた。

別れ際に手を握って「楽しかった……!また遊ぼうね!」って言った。ゆるく握り返してくれた気がする。気がするだけの願望だったらどうしよう。

ずっと話していた。「家近いから歩いて帰るわ!」って言ってたけど、帰り道、どんな気持ちで歩いてたのかな。

どこかへ行くか行かないかって話のときに「ツバキさんが行くなら行こうかな」って言ってくれたことも覚えてる。

先輩だったけど、下の名前で呼ばせてくれた。だから名前にちゃんを付けて呼んでいた。好きな名前だった。この口で発音できることがなにより嬉しかった。あなたが纏う真っ直ぐなものが好きだった。

なんでさ、ちゃんとありがとうって気持ちを伝えないといけない人に限って、もう言えないような、手遅れな関係になっちゃうんだろう。とにかく伝えときたいことがある人には早くちゃんと言わなきゃ。ちゃんとありがとうって言わなきゃならないってことに気づくのが遅れた。それに気づけなかったのは私の愚かさだ。

元気にしてるかな、してたらいいな。先輩は転校しちゃって、それきりだから。

9/5/2025, 4:49:18 PM

信号

歌が上手くなった。 なんとなく録音してみたことがきっかけだった。あまりに酷いものだからいっそ面白くて、研究してみようと思った。カラオケのキーを変えるということを初めてした。歌いやすくなってびっくりした。滑舌が悪い音があるなとか、ここの癖うざいなとか、ここひでぇなとか。そこを一つ一つ潰していく。でも好きな癖は残して。そうやって歌っていく。前より幾分か歌うのが楽しくなった。調子に乗るとまた変な歌い方してるから、また研究して。綺麗に歌えるように。赤の他人の声に聞こえるから、不思議と恥ずかしさはない。誰かをプロデュースしている気分で録音を聞いて修正点をメモして、それを歌うときの自分が見る。二人三脚。

信号を見てる。 青に変わる瞬間を考えてる。みんなじっとしてた。片足でリズムを刻む。足りなくて肩を揺らす。頭が揺れてる。きっとメトロノーム。出遅れてる。横断歩道に乗り上げて考える。誰か突っ込んでこないかなって。今しか見えない向こうの景色を見てる。

元気になった。 よく笑って、よく食べて、よく出歩いて、よく買い物をして。皆が私を見てにっこりする。調子がいい、こんなに物事を前向きに受け止められる、考えられる、元気になってる。普通の日常を歩んでる。

3時間ぶっ通しカラオケをした。すごく楽しかった。数週間の間にいろんな人と色んなところに行った。すごく楽しかった。ふらっと隣町のショッピングモールへも行った、カフェへも行った。ふらっと何度も郵便局に行って発送もしてきた。こんなに回復してきてるみたい。みたい?みたい?みたい?みたい?みたい?みたい????

泣き叫んだ。 喉が震えるほど泣き叫んだ。「ぶっ殺してやる」「のうのうと生きやがって」って誰かを呪ってた。「ヘラヘラしやがって」「使えねぇな」取り繕ってる自分に。「なんの効果もねぇじゃねぇか」「役に立たねぇな」「なんだよそれ」薬に対して、診察時の自分に対して。

相変わらずだと思った。それどころか昔よりもっとおかしくなってるんじゃないかって。本当に良くなってきてるはずなら、こんなに泣き叫ぶわけないじゃないか。

高所恐怖症になった。 50m下へぐちゃりと押しつぶされるんだろうか。それを願ってここまで来たのに。何を当たり前なことを。まあるい夕日が赤信号みたいだった。待ってた。青信号になるのを。じっとできなくて片足が揺れる。上半身が揺れる。「赤ん坊の人生に幸多からんことを」。スマホをギュッと握りしめて覚悟を決めた。気がする。

上手に書けなくなっちゃった。脳みそ、壊れちゃった。

8/26/2025, 5:04:14 PM

外部記憶媒体

 言葉も記憶も感情もすべて消耗品だから、なるべく長く保存しておきたいよ。だから冷凍保存するんだ。
 あの時の柔らかく刺された台詞、あの時の世界が煌めいて見えた視界、あの時の甘い涙の味、あの時の濁流の痛み。何度も使っているうちに言葉は価値が落ちるし、記憶は擦り減っていく。毎日消費していれば、いずれ最初の感覚が何だったのか忘れてしまう。
 ならそのまま冷凍保存してしまえばいい。いつか解凍された時、当時の感覚がそのまま蘇ってくれるはずだ。すべて冷凍して、全部忘れて、鍵となるものだけを棚の奥にしまっておく。部屋を片付けているときにたまたま触れる程度の場所に。
 忘れられることは幸せだ。長く味わっていられるのだから。

 好きだったゲーム、好きだった物語、好きだった人。意識していないものはすべて忘却される。この脳はすぐ記憶喪失になる。そして何度もそのゲームをしては感動してのめり込み、何度もその物語に触れてたその度に噛み締めて、何度も同じに人を好きになっては、そうやって過去を何度も再生する。過去を再生していたってその時感じる感覚はすべて「初めて」だ。何度だって好きになる。
 私は私の脳みそが好きだ。大して役に立たない残念な脳みそが、こうして言葉を書き残すことを選んだ。価値を瓶に詰めたいと願ったあの頃から、私はずっと価値を瓶詰めする作業をし続けてきた。君の脳に欠陥があったからだよ。何も覚えていられないことを嘆いた君がいたからだよ。
 この価値を詰めた瓶は冷凍されて、いずれ解凍される。この意味が君にはちゃんとわかるはずだ。
 君の脳に欠陥があるからだ。だから冷凍保存できる。忘れちゃうのが悲しいなら、鍵だけどこかに隠しちゃえばいいんだ。文章でも、音楽でも、写真でも、絵でもいい。記憶はものに宿る。脳みそじゃなくたっていいよ。全部覚えてなくたっていい。

 君は素足のまま歩いたっていい。僕は僕の脳みそが好きだ。

8/18/2025, 3:07:49 PM

足音

人生ずっと悔い改めて生きていきたい

もっと大事にすればよかったって、もっとあの時間とあの場所とあの関係性をちゃんと大切にすればよかったって

喋り方、言葉遣い、表情筋の動かし方、手の動かし方、歩き方、立ち居振る舞い全部改めて

そうして「別人みたいだね」って言われたら
私は「そうかな」って笑ってみせる

貴方が望むように振る舞いたい
貴方が望むように振る舞いたかった

どんな風にすれば貴方の好みか知ってる

ねえこの喋り方が好きなんでしょ
ねえこんな言葉のチョイスが好きなんだよね
ねえこの笑い方が好きなんでしょ
ねえこんな仕草が好きなんだよね
ねえこの足音が好きなんでしょ
ねえ私が好きなんだよね

ねえもっと、今ならもっと理想通りになれる
私の理想通りになれる

人生ずっと悔い改めて生きていきたい

■■

 私のことを推しだと言い出した人がいる。同い年で同性の子。「癒やし」「世界一かわいい」「天使」だって、オタク特有の誇張表現をしてくる。ベタベタに甘やかしてくる。その子と話しているときその子は私と握手会でもしてるのかと思えてくるくらいには私のオタクをしてた。
 その時のことを思い出した。
 何度も考えた。なんでそんなに好かれてるのか分からない、そういう不信感が積もって酷く吐きそうだった。そんな内心とは矛盾するように脳内では「どうやったらあの子の好みにもっと近づけるだろう」「どうやって振る舞おう」「どんな喋り方をしよう、どんな言葉遣いをしよう」と考えていた。
 なんで、って言われても分からない。好かれたかった?嫌われたくなかった?幻滅されたくなかった?本当の自分を隠して「好きだ」と言うやつを見下したかった?当時も今も分からない。
 どうせ短期間の付き合いだ、そのうち飽きる。そう思ってから、もう何年もその子と付き合いがある。そしてその子の前での私を見た他の友達から「別人みたいだね」と言われるのだ。
 しばいてやろうか。二度と口にするなよ。お前に何が分かる!!
 そんな気持ちを飲み込んで「そうかな」って曖昧に笑った。「人って誰でもAさんの前での自分、Bさんの前での自分って違うからさぁ、ペルソナってやつだよ」とそれっぽいことを言う。分かっている。私でも私の正体がつかめない。まるで別人だ。ペルソナというにはあまりにも
 あの子が私を「まだ全然推し」「好き」「日に日にオタク加速していく」というのは当然だ。だって、だって、だって、ずっと悔い改めてきたから。どうやったらもっと好みになれるか考えてきた。そうやって振る舞ってきた。そうやって喋ってきた。「こうやって言ったらこの子にはウケがいいはず」と思って自分の意見みたいなものを述べて。そりゃあ、私のことを好きでいてくれないと、私が足りてないってことになってしまう。
 で、それで私は本当に友達っていいんだろうか。なんて悩むことがないから、余計厄介なのかもしれない。

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