:キャンドル
ここに火をつければ一酸化炭素中毒で死ぬだろう。
耐え難い人生と、死の恐怖、どちらをとる?
共にクリスマスをお祝いしよう。
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耐えられない。
朝の満員電車に乗って揉みくちゃにされている時、社会に合わせ我慢を強いられている時、何を言われているのか何故言われているのかさっぱり分からない窮屈なお説教をされている時、不幸なニュースが流れてきた時、ネットで繰り広げられる誹謗中傷を目にした時。
ありふれた不幸だ。よくあることで、些細なこととも言えるこの不幸を、生きている間、後何百回、何千回、何万回と――――
考えた時、どうしようもなく死にたくなった。
一度気づいてしまうと駄目だった。
四六時中電車に揺られているわけでもないし、我慢を強いられているわけでもない。生きていればもちろん楽しいと思うこともあるし嬉しいことだってある。
分かっている。当然のことだと。
世界はありとあらゆる不幸で溢れている。戦争、自然災害、政治家の不祥事、パワハラ、いじめ、殺人事件、交通事故、貧困、病気、家庭内暴力。
それらを目にする度に心を痛め、かといってどうすることもできず、知らん顔で目を背ける。
たまたま自分が体験していないだけで、誰しもに降り掛かる可能性のある不幸でも「関係ない」と言い捨てる人。
身を持って体験していることであろうと、騒いでいる人たちの中へ入って肯定も否定もできず、意見を述べることも異を唱えることもせず、目を背け続ける人。
否応なく耳や目に入ってくるそれらに苦しみながら、慎重に蓋をしてなかったことにしようとする。
そうして耐えられなくなるのだ。
分かっている。誰もが当たり前のようにスルーしていることを、一々取り立てて傷ついているだけだと。ありふれた不幸、よくあることで、一々反応しているほうが変なのだと。
今時こういうのを「感受性が豊か」「繊細」だと言うらしい。そうか、そうか、僕はそうなのか、感受性が豊かで繊細というのも考えものだなあ。
過剰反応を起こしているただの精神疾患者だ。
20XX年12月25日
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耐えられない。
ほっぺが落ちそうなほど美味い食べ物を口にして咀嚼している間は幸せでも、飲み込んでしまえばなくなってしまうし、悲しくなってしまう。仮に延々と絶品料理が提供され続けたとしても、いずれ腹は膨れ、次第に苦しくなってしまう。
人は幸せになると相対的に不幸になる生き物だ。
誕生日は好きか?クリスマスは?その他なんでもいい、お祝い事をするような特別な日は好きか?
いろんな人が「誕生日おめでとう」と声をかけて笑いかけてくれる。ケーキに蝋燭を立て火をつけて、吹き消して、プレゼントを貰う。
クリスマスツリーにオーナメントを引っ掛けて、壁にサンタクロースやトナカイ、プレゼントや雪の結晶のウォールステッカーを貼って、リースを掛けて、クリスマスキャンドルに火をつける。ターキーやブッシュドノエルを頬張って笑い合う。
これ以上の幸福はないだろう。確かにあのときあの瞬間、俺は幸せだと思った。
でも次の日になったらいつも通りの食事に戻って、あれだけ浴びた祝福の言葉も、楽しい笑い声も、何もかもがまるで無かったかのようになる。
分かっている。それが当然であると、それが普通だということも。分かっている。過去の記憶をいつまでも再生し続けている愚かな自分のことも。分かっている。
自室に戻ってしまえば何もかも「無」だったんじゃないかと思ってしまうのだ。笑い合ったこの記憶は、プレゼント交換し合ったこの記憶は、食事をしたこの記憶は、全て夢か幻覚を見ていただけなのではないか、全て己が作り上げた偽の記憶なんじゃないか。そう、ふと我に返る。
その落差がどうにも堪えた。
幸せになったら不幸が待ち受けている。「じゃあまた幸せになればいい」と簡単に言えるような割り切れる人間だったなら、そもそもこんなこと考えやしない。
必ず不幸が待っているのだ。幸せだと思ったら必ず。
耐えられないんだ。終わってしまうという不安と、幸せが終わる瞬間の空虚さに。新たな次の幸せが来たってそいつらは消えない。
分かっている。それはごく普通のことで、ごく当然のことで、どうしようもないことであると、俺はとっくに気づいている。
だから終わりにしようと思った。
20XX年12月25日
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可愛らしいクリスマスキャンドルだろう?折角だからデコレーションしたんだ。今日は落差に怯える必要もない、目一杯最高のクリスマスを味わえる。だって明日が来ないからな!
これでもう不幸を感じなくて済むんだ。幸せなことだね。ようやく穏やかになれる。ねえ、せっかく書いたけど、遺書も焼べようと思うんだ。なんにも、なくなってしまいたいから。
共にクリスマスを祝おう。
おめでとう、おめでとう。
パチ、パチ
メリークリスマス、メリークリスマス!
パチパチ、パチ
キャンドルに灯る温かな光は燃え上がる炎に変わって、モクモクと煙を吐き出して、僕らの体を優しく包み込んでくれる。
幸せ、幸せ、まるで「死合わせ」だな、俺達。
「まるで」じゃなくて「ほんとうに」だけどね。
あはは、あはは。
息を吸えば吸うほど頭の中が霧がかって、頭上は引っ張られていく。
大丈夫、怖くない。渡してくれた素敵なプレゼントのおかげで、もう眠いだけなんだ。
ありがとう。連れて来てくれて。
ありがとう。連れて行ってくれて。
気づいてなかったわけでもないんだ。自ら不幸ばかりを摂取していたことを。でも、今は、心から幸せを感じられる、満喫できてる。この幸せはきっと永遠なんだって思えるから。
永遠じゃないから耐えられないという「わがまま」のために、幸せは永遠じゃないから尊く価値があるんだと思えない「わがまま」のために、永遠になろう。
穏やかな微睡み、しあわせ
しあわせだな。
おやすみ、おやすみ。
おめでとう、おめでとう。
ありがとう。
パチパチ、パチパチ
メリークリスマス、メリークリスマス、メリークリスマス!
メリークリスマス!
ハッピークリスマス!
どうか、思い出に残る幸せな一日にならんことを。
:たくさんの思い出
片付けができない。やり方が分からない。
片付けようと物を手に取って、どうしていいか分からなくなって、同じ位置に戻した。
「いやいや、だから片付けるんだってば」
と首を振って、また手に取って、またどうしていいか分からなくなって、泣きそうになって、また同じ位置に戻した。何をしているのか、何がしたいのか、自分でもよく分からなくなった。
片付け方が分からない。本当に分からない。
いらないものは捨てた。45L袋に詰めまくって、7袋くらいできて、全部ゴミの日に出した。いるものだけが部屋に残っているはずなのに。部屋がぐちゃぐちゃ、物で溢れかえっている。片付ける場所がないのか、片付け方が分からないからなのか、それすら分からない。
まだ断捨離する必要があるのだろうか。
好きで集めていた鉛筆も、過去に貰った手紙の数々も、大事にしまっていた宝物という名のガラクタも、ゴミの数々も捨てた。とにかくなんでもいらないと思ってゴミ袋に突っ込んで捨てた。心を無にしたつもりもなく、本当にどうでもいいと思って捨てた。はずだ。
ここ数年で人から貰ったものを捨てるのは忍びなくて捨てられなかった。「どうかもう物をくれないでくれ。これ以上増やさないでくれ」と思った。鬱陶しい気持ちがしてイライラして泣きたくなった。人がせっかく渡してくれた物に対して「いらない」などと思い始めた心の狭さも感じて余計惨めな気持ちになった。
部屋にあるもの全て捨ててしまいたいと思っている。こだわりがあるわけでもない。できないのは罪悪感があるからと、捨て方が分からないから。取り敢えずとっているだけ、本の捨て方、時計の捨て方、邪魔な棚の捨て方、そういうのが分からなくて、ただ放置しているだけ。
たくさんの思い出がこの部屋にはあるはずで、物一つ一つにもあるはず、なんだと思う。でも本当にどうでもいい。なんの思い入れもないというと嘘になってしまうが、どれもこれも、この部屋にあるものには嫌な記憶ばかり染み付いているから、いっそ全て捨ててしまいたい。
捨て方が分からない。調べても分からない。理解できるほどの脳みそがない。頭が足りない。だからって綺麗に保っておく方法も分からない。やってみようにも何故だかすぐに部屋がぐちゃぐちゃになる。
片付けができない。昔から片付けなんて、ほとんどしたことがない。異様なことを言っている自覚はある。ゴミの捨て方も掃除の仕方も、ずっとよく分からなかった。
掃除機をかけないと埃がいつまでも溜まっていく一方だと、定期的に掃除しないと綺麗を保てないのだと、最近ようやく知った。
思い出通りのことをなぞっているばかりじゃ、きっと駄目なんだと、最近、ようやく、薄っすら、分かり始めたところだ。
だからって相変わらず何も知らない。
何も考えたくないということを考えている。
眠って眠って眠っていれば考えなくて済む。
眠りたい。寝ればいい。心音が気になる。
暑い、寒い、喉が渇いた。
何も考えたくない。
:秋風
夢を見る。
手を取り合いながら二人、海中に浮かんでいる。ここは薄暗く何もない。弾けて消えゆくあぶくが私たちを包んでいるだけ。
何もない、しかし全てがここにあった。
ここが私の全てだと思った。
突然貴方に強く腕を引かれ、向かい合わせになる。とん、と軽く肩を押され体が沈む。沈んだ際に生まれた微かな風が、私の長い髪をふわりと押し上げ、あぶくが私たちを撫でる。
貴方の上後から光が降り注ぎ、長い髪が揺らぎ広がる。降り注ぐ光と長い髪が光輪となり、微笑む様は女神の如く、ステンドグラスの前に佇む石膏と瓜二つ。貴方の瞳はどこまでも柔らかい。熱心に祈りを捧げる誰かの気持ちを今しがた理解した。
瞠目する。何に?
辺りを漂う己の髪が徐々に上昇してゆく。掴もうと手を伸ばしてみるも、髪は指先をすり抜け揺れ笑う。引き千切ってしまおうと漸く掴んだ時、手の甲にそっと貴方の手が重ねられた。貴方は私の髪を手ごと掬い上げながら、光を含んだ美しい目を細めて囁いた。私の名を。
見開く。息が苦しい。
宙ではなくベッドにいて、髪は枕に広がっていた。幸福の中を漂う貴方を描き出し、飽きもせず底冷えするような朝をまた迎えた。
まばたきをして、ぼと、と枕に涙が染みる。
彼女は、そんなことしない。彼女は、あんなこと言わない。彼女は、ちがう。
都合の悪い夢を見ている。
洗面所の鏡に映る自分の顔が酷く醜い。血の気が引いた青白い頬、震える唇に、どこまでも黒い瞳。
――――貴方の髪、すごく綺麗。さらさら揺れて、透き通ったような色で、とても素敵……地毛なのね、ああ、よく見たら、貴方の瞳も。きれい、とっても。
勢い良く水を出し、手のひらに溜めては顔に押し付ける。果てに溺れ死にたくなった。冷水で顔を洗っても気分は晴れない。髪を纏めることもせず水を浴びたせいで、顔に、首に、へばりついた髪の感触が気持ち悪い。袖をまくっていなかったために布が手首に巻き付いてくる。
ぎょろりと見上げた鏡に映る重い黒髪。
バカみたいだ。
ハサミに手を伸ばした。
お揃いになりたかったのか、美しく煌めく髪に憧れたのか、それとも願掛けだったろうか。どちらが言い出したのか、始まりが何だったかは不確かで、今更こじつける理由もない。ただ、髪を伸ばしていたという事実があるだけ。
失恋ではない。断じて違う。
見事な中秋の名月がぽっかり空に浮かび、眩しい月光が降り注いでいた秋夜。秋風にさらわれた髪を捕らえられたあのとき、目を細めて掬い上げられた髪を、綺麗だと囁かれたこの髪を、震える手に重ねられた貴方の手のひらの感触を、名を呼ぶその声を、月の映ったブラウンの瞳を、瞠目する私が映ったその瞳を、全て――あれは幻だった。
私が作り上げた虚構。
不都合な微睡みを知ってしまった。その何もかも断ち切って、あれは幻だと脳にメスを入れて、悪夢に魘される日々ともさようなら。
私に愛を囁く貴方など。
寒気がする。
付け焼き刃を握りしめてしまえ。
ざく、ざく。できるならこのまま排水口に流してしまいたい。ざく、ざく。あの秋の夜の貴方の指も、目も、声も切り刻んで、零れる涙も切り刻んで。
どうか彼女の目が、喉が、腫れてしまいませんように。どうか彼女の身体がやつれてしまいませんように。どうか、二度とまやかしを囁かないで。
全部、全部、悪い夢よ。
ざく、ざく。どうか、彼女の美しい髪が傷んでしまいませんように。
ざく――ざく。
秋が終わる頃、髪を切った。
:また会いましょう
本を読めばいい。
分からないならもっと調べればいい。
無知だから怯え悩むしかできない、ならば知れば良い。
先生、これってどういうことですか?
黙読で理解できないものは一度音読してみる。読み上げても頭に入ってこない、理解できないなら、もう一度。
音として認識はできているはずなのに、文という連なりになった途端理解ができなくなる。何を言ってるのか、頭がぼやぼやしてくる。
三度目読み上げても無理なら「先生、これってどういうことですか?」と呪文を唱える。すると頭の中がくるりと回ったような気がして、さっぱり理解できなかった文章の解説が浮かんでくる。単語ごとに、文節ごとに、そして文章の説明がされて、大まかに「この文章はこういうことを言ってるね」と、説明してくれるようになる。
分からなかったら解説してくれる、脳というのはなんて素晴らしいんだ!
傷ついて落ち込んでもう何もできないと泣きべそをかく。もう頑張れない、もうできない、そう言って足を止めてしまう。
しかし目的地に辿り着かねばならない。少しは自分で励ましてみる。「大丈夫」「ゴールできたらご褒美にお菓子買おう」「頑張ろう」と自分で言って、自分でブチ切れる。何が頑張ろうだ頑張ってんだよ大丈夫じゃないからこうなってるんだよ何が!!
大体自分でも手がつけられない。「先生、どうしたらいいんですか」と呪文を唱える。すると頭の中がくるりと回って「十分頑張ったってことで引き返してもいいし、引き返すのも嫌だなぁと思うなら、もう少しだけ歩いてみたらいいんじゃないか」「散歩と同じだよ。目的は歩くことで、到着するのはおまけだと思ってみたらどうかな」「いざとなったらどうとでもできるよ。今は椅子に座って落ち着いてみる?何か飲み物があるといいかもね」と、これまた自分じゃ思いつかないような言葉が浮かんできて慰めてくれる。
脳ってよくできてるなぁ。
自販機を前に何を飲めばいいか分からなくなる。「先生、どうしたらいいですか」と聞くと「水か麦茶か、甘いものがほしいなら加糖の紅茶がいい。カフェインが入ってるコーヒーや緑茶は避けた方がいいよ」と答えてくれる。「なんで紅茶はいいんですか?」と聞けば「何故かは分からないけど、紅茶で頭痛が起きたことないならいいかなって」と笑ってた。
水が出てくるボタンを押した。先生は怒ってなかった。
やっぱり脳みそってよくできてると思う。
助けてくれる人が誰もいないから自分と会話する他なかった。誰かをイメージして、自問自答する。最初はあの人ならなんて答えるだろう、と想像しながら、ゆっくり受け答えしていけば、次第に普通の会話みたいにレスポンスが返ってくるようになった。
そういえば「タルパ」なんてものがうっすら流行っていたのを見たことがある。ネット上ではお友達づくり、のような軽さだった気がする。存在しない相手をあたかも存在しているかのように扱って、本当に存在するようにさせる技法、とか。「これで推しと常に一緒!イマジナリー推しが喋りかけてくれる!」なんてエッセイ漫画か記事で見た。
先生、と呼びかけるのもそれと同じ類なんだろう。
やっぱり脳というものは良くできてる。素晴らしい。
本を読めばいい。
分からないならもっと調べればいい。
無知だから怯え悩むしかできない、ならば知れば良い。
先生、これってどういうことですか?
聞きたかったけど、先生は最近いない。今は聞く気もない。多分、もう会う気もない。今のところ。どうせ心底病んで死にたくなった頃に「先生」と呼びかければ応えてくれるんだろう。今のところ、会うつもりはない。
知ればいいんですよね。その上で取捨選択すればいいと、貴方はそう教えてくれた。
ところで、先生、とは結局誰だったのだろう。学校で出会ってきた中の先生とか、人生の師としたい人とか、そういう誰か特定の人を指しているわけでもない。先生、と呼びかけていた相手は一体誰だったんだろう。
誰でもなくて、きっと都合のいい理想像だったんだろうな。最近はきちんと自分自身と会話をしてる。別の誰かじゃない、きっと健康な状態なんだと思う。
また会いましょう、とは。特に。
こう思っていることに対して「冷たい」とは言わず「そりゃそうだろうね」と、きっと先生は許してくれる。それに、許してくれない理想像ならいらないかな。