生きていれば誰かを好きになる事を、何回か経験するだろう。
馬齢を重ねてもう60年近い中で、
淡いかすかな思い出や、何年かお付き合いさせていただいたものまであるが、
その中には、やっぱり一生に一度だけするような、燃えさかる炎のような恋もあったのである。
いや、私は女性を引き寄せるような魅力にはまったく乏しいタイプだし、一般男性の平均的な恋愛経験数なんて統計は見た事もないのだから、普通人はどのくらい恋をするのか知らないのだが、それにしても自分の経験が豊富だったとは思えない。
だけれども、
古今東西、数々の大恋愛があったとしても、それらに少しも引けを取らないくらいの経験が、
1度だけある。こんなのは、1度で十分なんだ、その後の私は燃えかすみたいなものなんだから。
でも、恋多き男とか女とか言われている人の行跡を追ってみても、相手をコロコロ変えているように見えて、
それは単なるパトロンだったり、代用品と付き合っていただけで、彼らも本当に好きな相手は1人だけだったのではないだろうか?
私は西行のことを書いた事があるけれど、西行の秘めた恋心が、どんなにか辛く、身を焼く程の苦しみであり、刹那さであったかが想像出来る。
西行は、私である。
そう、私の恋は道ならぬ恋であった。
永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
いつまで経っても変わらない
そんな物あるだろうか
見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い
そんな気持わかるでしょ
THE BLUE HEARTS 『情熱の薔薇』
信じていたものや、永遠に続くと思っていたものが、突然崩れてしまう事は時々起こる。
なら、時間の進行方向が過去→現在→未来と流れて行くのは本当に本当なのか?私には分からない。
現在だけが存在するとか、未来→現在→過去に進むとか、そもそも宇宙には時間なんて存在せず、人間が作り出した集団幻想みたいなものだとする説もあるらしい。
パラレルワールドだってあっても不思議ではないし、動的平衡の理論で言えば、人の身体は7年から10年で完全に入れ替わるようだから、
10年後の私が手紙を送って来たとしても、それは私と何の関係もない人なのではないかしら?あなたの現在と、私の10年後は違います、たぶん。
もちろん、常識的に考えて、時間は過去→現在→未来の進行方向だとする事は動かし難いし、物事の考え方の根幹になっているから、それを否定したら非常識になってしまうけど。
「現在」という認識は脳が作り出しているもので、たとえばスキゾフレニアや脳に疾患のある人達は、「現在」を作り出す事が出来なかったりするのである。
そして、哲学の父とも呼ばれているソクラテスは、スキゾフレニアであった可能性があるのだ。
ソクラテスの功績を、私は微塵も批判する気はない、それどころか私自身の思考法の基礎になっていると思っているくらいだが、
常識の成り立ちは、意外と脆いものだとも同時に思っている。
10年後の私の境遇が、幸福であろうと、不幸であろうと、今の私には何の関係もないと思うだけだろうな。
日本でバレンタインデーが盛んになったのは昭和30年代頃で、女性が気になる人にチョコを贈る日ーーなどという独特な風習に変わって定着したのが昭和40年くらい、
1965年、つまり昭和40年生まれの私にとっては「なんて日だ!!」と叫びたくなる顛末が多かった。
すごく期待していたのに、もらえない日ばかりだったからだ。(母は除く)
今は義理チョコだとかチョコレート渡すのは気軽になったり、義理もないくらい廃れて来てるのか知らないが、
とにかく私の子供から思春期にかけてはチョコはそもそも高級品だったし、バレンタインデーはガチ勝負みたいな雰囲気があったのである。
当時、3人兄弟で、3時のオヤツに板チョコを3等分して分けていた記憶がある、
わが家が特別貧しかった訳ではないと思う。当時の平均的な家庭はそんなものだった。玉子がバラ売りされていて、1個20円くらい(今より高い)、その1個の生玉子を、普通に2人で分けて食べていたから。
「チョコは食べ過ぎると鼻血が出るからだめよ!」と母親や周りの大人からも注意を受けた。
いう事聞かずに1人で1枚の板チョコを全部食べたら直後に鼻血が出た。
さっき調べたら、食べ過ぎると鼻血が出るなどという事実はないらしいので、暗示にかかっただけのようである。
多分、高級品を子供にバクバク喰われては堪らないから大人がそういう事を言っていたのではないか?
そんな高級品だったから、渡す方だってそんなに気軽には渡せなかっただろう。1枚の重みが今とは少し違うのである。
残念ながら私はほとんどもらった記憶がないのだが、
小学3年生くらいの時、バレンタインデーの日に歩いていたら、女子高生が数人たむろして何やら楽しげに話をしていた。手にはチョコが入っていそうな紙袋を手に手に持っていたのである。
彼女たちのそばを通り過ぎようとしたその時、「ちょっと!」と女子高生の1人が私に声をかけてきた。
私はドギマギして、聞こえない振りをして足早にそこから離れ去ろうとした、
「ねぇ!!君!」私は顔を真っ赤にして走り出していた。
さすがに追いかけては来なかったが……
シャイな小学生であった。
勝手にチョコを渡されると思って逃げたのだが、
それは単なる私の思い過ごしだったのかも知れない。
今となったては永遠に分からない。
待つのはあまり得意ではない。
ラーメンが好きで、一時期ラーメンブログもやっていた程ラーメンを愛していたが、行列に並んだりする事はなかった。空いている時に行くか、そうでなければ諦めた。
巌流島に於ける、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘では、武蔵が大遅刻するが、正しい時間は分からないものの、3時間くらいの遅刻だったらしい。
3時間って、……もうこの時点で佐々木さんの勝ちでOKじゃね?
そんなに待たされたら、失礼にも程があるし、ふつうにはらわた煮えくり返りますわ、
佐々木さんも本来の実力を出せなかったに違いない。
日を改めるべきでしたな。
「待ってて」なんて言われてもねぇ。
どうしようもないわたしが歩いている
種田山頭火の句を抱えながら、私も歩き続けた。
何も持っていないどころか、山のような借金もしていた、税金も滞納していた。
追い詰められて、行き詰まって、逃げ出した。
どうしようもないわたしが歩いていた。
9月26日から、12月17日まで。その内1ヶ月くらいは段ボールを集めて外で寝ていた。ムリ。やっぱり寒い、限界だった。
結局は役所になきついた。もはやほとんど何も考えられぬ、懐中には60円しかなく、恥も外聞もなく、みっともない私がいた。
けれど、役所の人たちはとても親切だった。
日本は良い国です、心からそう、思う。
憲法第25条 生存権
すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
誰でも少しは耳にした事があるだろう?しかし、我が国の自立支援制度は実にしっかりしているのだ。
施設に保護されて、支援の内容を学んで、私は驚いた、実に行き届いている、恩恵を受けながら不満を言っていた人達も沢山いたが、いやいや、冗談じゃない、至れり尽くせりなのである。
その施設には最長6ヶ月いられたが、私は5ヶ月と少しで自立して出る事が出来た。
私は行方不明者であったが、施設によって住所も確定された。従って、逃げていた借金や滞納していた税金もすべて厳しい封筒で催促されてしまったのだが、無料の法律相談も出来るのだ。
食事の心配も寝る場所の心配もないので、じっくり考える余裕も生まれた。疑問点を質問する相手もいる。
そう、放浪している時の私には、時間はあっても、余裕はぜんぜんなかったのであった。
就職活動では交通費が全額支給された。ワイシャツや下着、靴下も支給されて、スーツ一式や靴は貸してくれた。
こんなのはほんの一端に過ぎない、実に細やかに自立するための支援が行き届いていた。
このようなシステムを作り上げた人は何者だろうと舌を巻いた。役人達がよってたかって作ったのだとしたら、日本の役人は素晴らしいと言わざるを得ない。
そうして私は3年かけて借金や滞納していた税金を返し続けて、その額もう残りわずかになった。
他の国ではこうは上手く行かなかっただろう、日本に生まれて幸せだ、日本の役人はやはり優秀だぞと、
誰かに、これを伝えたかった。