金木犀

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3/7/2024, 4:42:47 PM

 月夜

 月が綺麗な夜だった。
「夏目漱石はなんであんな遠回しな告白を考えたんだろう。」と君。
「それが当時の浪漫だったんじゃないかな。」と僕。
 君を家に送る、散歩という言い訳の遠回り。お互い、まだ家には帰りたくなかった。悪あがきというか最後の抵抗というか、ある意味、遠回しな告白だったかもしれない。
「相手が鈍感な子じゃなくてよかったね。」
「その時は、ストレートに伝えてたんじゃないかな。」
「そっか。」
 それからしばらく沈黙が流れた。街灯の乏しい住宅街を、ただ赴くままに歩いた。そうして少しずつ、君の家へと近づいていく。暗く静かな街。足音だけがやけに大きく聞こえた。
「私は。」と、ふと君が立ち止まる。
「私はきっと鈍感だし、他の人より足りてない部分も多いし、焦ってるわけじゃないけど、待ったり我慢したりするのはあまり得意じゃない。」
 雲の隙間から差した月明かりが、君だけを照らしていた。

「僕は……。」



——月が綺麗な夜だった。

3/5/2024, 1:52:21 PM

 たまには

 

2/29/2024, 4:02:26 PM

 列車に乗って

 海に行こう。
 君の思いつきで、僕らはこうして電車に揺られている。時刻は調べずに、来た電車に乗って行こう、と無計画な旅。折角の春休みだから、といまいち理由にならない理由に頼って、僕らは並んで揺られていた。
 日が傾き始めた15時過ぎ。海水浴場に着いた。夏を忘れたように、冬の海は静かだった。
「思ってたより寒い!」
 君は両手を広げて笑った。
 長い髪が潮風に舞うと、君は急いで前髪を押さえて、そのまま砂浜を進んでいく。僕はその後をゆっくりと追いかける。夕日の乱反射する海と君の後ろ姿。口を開きかけた僕に、
「綺麗だね」と君は振り向いて笑った。
「綺麗だ」
 帰りの電車はほとんど無口に、ただ車窓を流れる景色を見ていた。日が沈んだ真っ暗な景色を。
「夜だね」
「早いね」
 帰りはやけに早く感じた。同じだけ時間が掛かっているはずなのに。このまま駅に着いてしまうのだろうか、と不明瞭な不安に襲われた。
「次はどこ行こうか」と僕。思い出して、折角の春休みだから、と理由を添えた。
「次は……」君は暫く考えたあとにふっと微笑んだ。

——理由のいらない旅がしたい。
 

2/27/2024, 1:17:27 PM

 現実逃避

 誰にだって目を背けたくなるようなものはあるだろう。
 私の場合、たまたまそれが「現実」だっただけで、不思議なことでも特別なことでもない。
 梅雨明け。すごく暑い日が続いた。ニュースでは連日の猛暑だとか、最高気温更新だとか言っていた。そんな日が続いたとして、私たちは学校に通わなければいけないわけで、その日も扇風機の音がうるさい教室でじっと座っていた。
 読書感想文を書こう、という話だったはずだ。図書室にある本でいいからとにかく提出しろ、と。夏休みのお決まりの宿題。読書感想文。なんでもいいから、と言われたのを逆手に、私は絵本を選んだ。実に捻くれていた。

「この辺じゃ、だれでも狂ってるんだ。俺も狂ってるし、あんたも狂ってる。」
「あたしが狂ってるなんて、どうしてわかるの?」
「狂ってるさ。でなけりゃ、ここまでこられるわけがない」

 そう言ってチェシャ猫がにんまりと笑う。
 こんなことになるなら素直に向き合うべきだった。酷暑も面倒くさい宿題も、今よりずっとマシだ。私はため息を一つ吐いて、またウサギを追いかける。

2/25/2024, 2:32:30 PM

 物憂げな空

 私は昔から心配性だった。
 石橋を叩いて叩いて、叩き壊してしまうほどに。何度も何度も繰り返し繰り返し確認して確認して、やっと半歩進むような性格だった。
 今日の面接もしっかり準備して臨んだ。
 志望動機、質問と返答、自分の長所、短所、就活用のメイク、表情、目線にすら気を遣って。なのに、失敗した。

——最近嬉しかった事などを教えてください。

 アドリブへの対応力がなかった。というか、そもそも最近嬉しかった事がなかった。学生のままでいたかったし、働きたくなんてなかった。将来の夢なんて、小学生の頃でさえ思い浮かばなかったくらいだ。卒業文集には「六年間の思い出」という題で下手な文を書いた。
 ため息を空に吐いた。すると、最近は空を見上げることもなかったな、とふと思い出した。空は分厚い雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうだった。
 空を見上げるのは幸せな証拠だと思っていた。晴れやかな気持ちで笑顔を送るものだと。でもそれは私の、勘違いだった。
 私が生まれるよりずっとずっと昔からこの空はあるのに、それでさえ曇ることがあるんだ。だから大丈夫。暗く重たい空に励まされているような気がして、なんだか笑ってしまった。
「帰ろう」
 そう空に告げて、躓かないように足元を見て歩いた。

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