【生と死の距離】
9月も中頃に差し掛かった頃、槇原さん夫婦から手紙が届いた。
8月の始めにお礼の品と手紙を贈ったから、
きっとそのお礼の手紙なのだろう。
「槇原さんのこと、お母さんは知ってる?」
私が訊いてみると、お母さんは
「う〜ん、聞いたことはあるかな。
でも、直接会ったことは無いなぁ」
と答えた。
槇原さん夫婦には、随分と助けられた。
私の家出初日、「これからどうしよう」という不安を抱えて立ち寄った楽器店が出会いの場だ。
私を一晩泊めてくれた上に、私のオトウサンのことを色々と教えてくれて。
本当に感謝しても足りないくらいだ。
「一緒に、手紙読もうよ」
私はお母さんに声をかけた。
今までなら、こんな会話はきっと無かった。
封筒をそっと開き、二人で言葉を受け取る。
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橋本海愛様
お手紙拝見いたしました。本当に、海愛ちゃんは聡明な子ですね。やはり大智譲りなのでしょう。
海愛ちゃんと過ごしたあの日が、まるで昨日のことのように感じられます。
あの日に弾いてくれたギターも歌声も、もう1ヶ月以上経っているのに鮮明に覚えています。
自分語りになってしまうのですが、私は親友の大智を亡くしてから、ずっと心に穴が空いたままでした。
何をしても満たされないし、気がつけばあの頃を思い出して悲しくなってしまう毎日でした。そんな私を受け止めてくれたのが妻で、心が沈んでいた私を元気づけてくれたのです。
お陰で前より明るくなれたのですが、次第に大智のことを忘れようとしてしまいました。
思い出すととても辛くて、ならばいっそのこと忘れてしまったほうが楽だと考えてしまったのです。
本当に私は酷く情けない人間です。
ですが、あの日海愛ちゃんに会って、私は久しぶりに大智のことを思い出しました。
そして海愛ちゃんと一緒に話すうちに、私は段々満たされていくのを感じました。
ずっと穴が空いていたのに、それを埋めてくれたような気がしたのです。
海愛ちゃんにいきなり弾き語りをお願いしてしまったのも、海愛ちゃんに大智の面影を感じたからです。
海愛ちゃんの弾き語りを聴いて、私は本当に感動しました。
「生きてて良かった」とも思いました。
礼をするのはこちらのほうです。
本当にありがとうございました。
それでは、またお目にかかれる日を楽しみにしています。お身体にはお気をつけてください。
敬具
令和6年9月15日
槇原晋也
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まず思ったのは、「晋也さんも辛かったんだな」ということだ。
会ったときは「優しそうな人だな」くらいにしか感じなかったけれど、
その裏では想像を絶するほど苦しんでいたのだろう。
何度も涙を流し、それでも前を向くことを決めたのだろう。
「また、会えると良いね」
お母さんはニッコリ笑って言った。
「次は一緒に行こうね」
私は笑顔で答えた。
きっと、私達を阻む距離なんてどうでもよくて、心はずっと繋がっているのかもしれない。
それが生と死の間だとしても。
晋也さんとオトウサンは今でも確かに繋がっているのだから。
【愛情の形】
午前8時頃、私は車窓から景色を眺めている。
自然溢れる景色が次第に都会に染まっていく。
学校に近づくほど、胃がキリキリと痛みだす。
1時間後、私は270日ぶりに教室に入るらしい。
不登校では無くなるらしい。
遂に学校に着いてしまった。
今は始業式の途中だ。
なので、周りには誰もいない。
昇降口には担任の先生と保健室の先生が、
並んで私を待っていた。
「おはようございます〜」
先生とお母さんが挨拶をする声が聞こえる。
その後も何か喋っていたような気がするが、
私は不安で何も覚えておらず、
気づけば担任の先生と一緒に廊下を歩いていた。
「この後先生は転校生を迎えに行くから、先に席に着いてていいよ」
え、教室に先生がいてくれるわけじゃないの?
そんなの、絶対に気まずいじゃん…。
なんて言えず、唯一「……はぁ、」という相槌しか打つことができなかった。
教室の前に着いた。
壁越しに楽しそうな声が聞こえる。
扉を開ければ、私もその世界に飛び込める。
本当に?
私には見える、
皆がワイワイと楽しんでいるところに、
私がいきなり扉を開けて、
「え?」と困惑するところが。
その時の皆の顔は、私にとっては見るに堪えない光景だろう。
「じゃ、扉開けるよ。いい?」
「……はい。」
「大丈夫、うちのクラスは優しい人ばかりだから。」
そう言って、先生は私の背中をトントンと軽く叩いた。
先生にとってはエネルギーの注入のつもりなのだろう。
それが私にとって、エネルギーなのか毒なのか分からなかった。
先生が教室の扉をガラガラと開けた。
「さ、入って」
先生が耳打ちしたのを合図に、私は教室に足を踏み入れた。
いや、踏み入れるしか無かった。
私はずっと下を向いていた。
今、皆はどんな顔をしているのだろう。
私はそれを見るのが怖い。
肩紐をぎゅっと握り締めて耐えるしか無かった。
辛い、辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い…
「海愛ちゃん、」
誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。
思わず顔を上げると、
友達―かのんちゃんがいた。
「ここ、私の隣だよ」
そう言って、隣の席を指差している。
「ありがとう」
私は席に着き、辺りを見回した。
本を読んでいる人、
勉強している人、
大勢で騒いでる人、
スマホを観ながら会話している人、
色々な人がいた。
ああ、私は浮いていない。
きっと皆にとって、さっきの出来事は些細な事に過ぎなかったんだ。
私はそれが嬉しかった。
変に心配されたり、困惑されたりするのは嫌だった。
だから、この空気感が心地よく思えた。
「おーい、皆うるさいぞ」
先生が皆を叱り、空気は一気に氷柱のように冷たくなった。
「……、この後転校生来るぞ」
「よっしゃーー!」
「マジで!?」
「やったぁ!」
氷柱が一気に溶け、再び空気が温かくなった。
「海愛ちゃん、転校生だって!」
「うん、ワクワクするね!」
私は少しだけ考えた。
先生が始業式の日に学校に来るように勧めたのは、転校生が来ると分かっていたからなのかな。
転校生の存在によって、私が変に浮くこと無くカモフラージュできるから、なのかな。
もしかすると、の話だけど。
「長瀬あいりです、大阪から来ました!」
転校生―あいりちゃんは、とても明るい子だった。
「え、大阪弁しゃべれるの?」
「しゃべれるでー。
ま、そんなコテコテでは無いけどな。」
「もうかりまっかー?」
「ぼちぼちでんなー、
ってそれあんまり使わんねん!」
うわぁ、本当に大阪弁だ。凄いなぁ。
あいりちゃんとは席が近いこともあり、
3人でに一緒に過ごすようになった。
「ここって静岡やねんな?
静岡弁ってあるん?」
「あるよ。でも、あんまり聞かないかな。」
「うん、近所のおじいちゃんおばあちゃんが使ってるくらいかな。」
「へー、皆使ってるわけでは無いんやなぁ」
あいりちゃんの大阪での話は、どれも面白いものばかりだった。
「よく『大阪の人はたこ焼き毎日食べてるんやろ』って言われるねん。
そんなわけないやん。飽きるて。」
へえ、大阪の人って毎日たこ焼き食べてるわけでは無いんだ。
私が再び学校に登校し始めてから、あっという間に2週間後が過ぎた。
勉強は案の定難しくて、頭が混乱する毎日だ。
部活は……、
未だにバンドのメンバーと会えていない。
1回だけ、廊下ですれ違ったけれど。
目が合った瞬間、相手はビックリして目が真ん丸になっていた。
しかし、1秒も経たないうちにすっと視線を逸らされてしまった。
仕方ない。
きっと、そんな簡単に話せる仲ではないのだ。
そんな折、ある人から手紙が届いた。
手紙の差出人は、槇原さん夫婦だった。
【ハッピーブルー】
9月1日、始業式の日。
誰もが憂鬱を纏い、去った夏を想いながら校長先生の話に耳を傾けようとしても、話が長すぎて退屈する日のこと。
案外、なんてこと無いのかもしれない。
みんなにとっては。
中には「やっとあの先生に会える」と喜んでいる人もいたりするかもしれない。
何だかんだ、みんな楽しみにしていたりするのだ。
けれど、私は違った。
もう憂鬱で憂鬱で仕方ない。
不安過ぎて消え去りたい。
とか考えながら、仕方なくポロシャツを頭から被る。
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私の不登校は、去年(高校一年生)の12月から始まった。
あの時は勉強についていけなくなったり、人間関係が上手くいかなくなって、精神が崩壊しかけていた。
ボロボロになりながら、なんとか糸一本だけ残っているみたいな状況だった。
何もかも上手くいかない、そんな時に私は聞いてしまったのだ。
ある日の放課後、教室に忘れ物をしたので取りに行こうとした時だった。
「なんか、橋本さんってさ」
私の苗字が聞こえて、びっくりした。
「なんか、橋本さんってさ、
人と喋るの下手だよね」
「あ、分かる。
なんか、友達少ないんだな〜って。」
「なんか、あのちょっとノリ悪い感じ?
気まずいときあるよね」
「いや、別に嫌いじゃないし、
別に悪口じゃないんだけどさ?
なんかねー、って思ってさ」
私は拳を握りしめた。
ああ、私ってそんなイメージだったんだ。
悔しい、悲しい。
教室で会話をしている4人組は実に楽しそうに会話していた。
……許せなかった。
「別に嫌いじゃないし」って、
嫌いなんでしょ?
私は分かっていた。
こういう空気感のときに出てくる「嫌いじゃない」も、「悪口じゃない」も、
全部嘘だ。
しかし、
友達少ないのも、人と喋るのが苦手なのも、集団行動が苦手なのも、
全部本当だ。
仕方ないじゃん、
友達との接し方なんてわかんないよ。
本当はここで面白いことを言えたら、
私の好感度は上がるのかもしれない。
気にしなければいいのに。
けれど、私にそんなことができる筈もなく、
忘れ物を置きっぱなしにして、逃げるように家に帰った。
家に帰ってから、自室に籠もって泣いた。
私、やっぱり無理だ。
もう辛い。
小学生の時にもっと友達を作っていれば。
私がもっと面白い人間なら。
もっとポジティブなら。
もっと有能なら。
あんなこと、言われなかったんだろうなあ。
高校生になって初めて宿題をサボって、
ひたすら泣いた。
翌日から、私は不登校になった。
もう限界だった。
中々リビングに来ない私を心配して、お母さんが自室の前まで来てくれた。
「大丈夫?どこか具合悪いの?」
「……もう、学校行きたくない。」
私は布団の中から言った。
その時のお母さんの「え……」という声を、未だに忘れられない。
ショックを受けたような、哀しい声。
その声を聴いて、私もショックを受けてしまった。
「上出来な娘じゃなくてごめんなさい」と思ってしまった。
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夏休みに担任から「もうそろそろ、教室入ってみてもいいんじゃない?」と声を掛けられた。
正直、「はやく不登校脱却しろや」という脅迫としか感じられなかったけど、
確かにもう生温いことを言ってられないと思い、
2学期の始業式から普通登校を始めることに決めた。
とはいえ、まだまだハードルが高い。
保健室登校までは頑張れる。
でも教室には入れない。
入った瞬間「え、誰こいつ」という空気感になりそうで怖いのだ。
「あと10分したら車乗るよ―」
リビングからお母さんの声が聞こえる。
「……はーい」
憂鬱すぎる、今から取り消せないだろうか。
「なんだか微熱があるような……」と誤魔化せば、今日も休めるかもしれない。
いやいや、と私の中の私が首を振る。
ふと、東京での思い出が蘇った。
あ、そういえばおばあちゃんからお守り貰ったんだ。
こんなこと思い出してる暇なんて無いのに。
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「海愛ちゃん、お守りあげるわ」
「え、お守り?」
「そう、これからも海愛ちゃんが楽しく暮らせるように」
そう言って、おばあちゃんは私に勾玉をくれた。
聡明な青い勾玉。
蛍光灯に照らされて、キラキラと光っていた。
「太陽の下なら、もっと綺麗に輝くんだよ」
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あのお守りは机の引き出しにしまってある。
今日は、頼ってみてもいいかな。
私はお守りを机の中から探し出し、通学鞄に急いでつけた。
黒い鞄に青が輝いている。
同時に、私の心がすっと軽くなるのを感じた。
「太陽の下なら、もっと綺麗に輝くんだよ」
私はその言葉に惹かれ、やっと学校に行く決心をすることが出来た。
「まだ〜?」
いけない、時間が迫っている。
私は鞄を持って階段を降りた。
「おまたせ!」
外に出ると、太陽が嫌と言う程眩しく感じられた。
鞄につけた勾玉は太陽光が反射して、
それはまるで海のようにキラキラしていた。
私をちゃんと照らしていた。
【ソレイユ】
3日間の家出から帰ってきたあの子の話です。
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家に帰って、まずお母さんに抱きしめられた。
泣きながら「ごめんね」って。
とても強く脆いハグだった。
私は少しびっくりしてしまったけど、なんだか私も泣きたくなった。
お母さんへの申し訳なさもあったと思う。
しかし、それ以上に「家に帰れたことへの安堵」が先行していたのだろう。
私もお母さんを抱きしめて涙を流した。
それからは一緒にご飯を食べて、家出生活のことを話したりした。
あまり多くのことは語らなかったけど、槇原さん夫婦のこととかおばあちゃんのことをたくさん話した記憶がある。
久しぶりにお母さんの笑顔を見た。
柔和な笑顔。
私はずっと見たかったんだ、
お母さんの笑顔を。
ただ楽しかった。
嬉しかった。
翌日以降は、私の進路について話し合う日が増えた。
というのも、終業式の日に担任との面談があるらしく、そこで私の進路が正式決定されるらしいのだ。
私が今通っている高校に残って、留年回避の為に補講を受けるか。
通信制高校へ転入するのか。
私は現在、不登校だ。
本来ならば後者の選択が正しいのだろう。
しかし、私は前者の選択がしたかった。
私は、私を諦めたくない。
勉強も部活も、教室での立ち回りも上手くいかなかった私だけど、私は逃げたくない。
私と周りの人達が許すのならば、
もう一度向き合いたい。
前回にお母さんと話し合った時は、意見がぶつかりあって上手くいかなかったけれど。
今ならちゃんと話せる、聴ける。
そう思った。
逃げたくない、と思った。
終業式の日。
担任との面談の日。
ここで、私のこれからが決まる。
お母さんとはたくさん話し合った。
やっぱり一筋縄ではいかなかったけど、
でも私達はもう決めてる。
「えー、ではこれからの進路について聞かせてもらってもよろしいですか?」
担任が言った。
お母さんが口を開こうとしたけど、私は止めた。
私が、自分の口で言うよ。
目で会話して、今度は私が口を開いた。
「私は、……この学校に残りたいです。
補講も受けます。」
これが、私達が出した結論。
お母さんが妥協してくれたわけでも、
私が強引に意見を押し付けたわけでもない。
これは、十分に話し合って決めたことだ。
「……そうですか。
では、これで決定ということでよろしいですか?」
「はい。」
私は横を向いた。
お母さんは微笑んでいた。
「大丈夫」と言ってくれたような気がした。
「では、夏休みは補講ということで進めていきますね」
そうして始まった夏休みは、学校での補講で
埋め尽くされることとなった。
約8カ月間の遅れを取り戻すのって、結構ハードだ。
改めて、自分の不登校生活が如何に長いものだったのか感じさせられた。
夏の茹だるような暑さ、太陽の下でダウンしそうな毎日だが、別に嫌ではない。
……嘘だ、本当はちょっと嫌だ。
でも、自分で決めた道だから仕方ない。
ここで立ち止まってなんかいられない。
そして、先生方の協力もあって私は留年を回避することができた。
あっという間に夏休みは終わり、9月1日が来た。
【セーターを着れない君】
彼は未だ半袖だ。
「寒くないの?」と私が訊くと、
「別に。恒温動物じゃん。大丈夫だよ」と
返された。
いつもと変わらない返事に呆れた。
私はホットコーヒーを一口嗜み、雑誌に目を落とした。
彼はカーペットの上でゴロゴロしている。
月に1回、私達はこうやっておうち時間を過ごしている。
場所は決まって私の家、
外には決して出ない。
別に外に出てもいいんだけど……
「ねえ、」
私は再び訊いてみた。
「ほんとに寒くないの?」
「別に、寒くないよ。
僕はそういう、暑いとか寒いとか無いんだって。
五感が無いんだよ」
「でも私の言う事聴こえるじゃん」
「あ、それは別」
私は暫く躊躇ったが、意を決して言った。
「1ヶ月後、一緒に出かけない?」
すると彼は急に固まってしまった。
「いきなり、何?」
「私も、寒くないから。
寒さなんて平気だからさ、一緒にどこか出かけようよ。
ショッピングとか、映画とか。」
彼は暫く考え、こう答えた。
「無理」
「だめ?」
「いや、考えてみなよ。
僕たちにとっては普通のデートなのかもしれないけど、
他の人からしたら『なんかあの人、一人でぶつぶつ言ってるなー』って思われるんだよ?
変人扱いされるよ?」
「そんなのどうだっていいよ。
私は、二人で色々楽しみたいだけ…」
「あ、12時来るわ。」
彼は私の話を遮って立ち上がり、ベランダに出た。
「今日はベランダから出るわ〜。
じゃ、また1ヶ月後。」
そう言って、彼はベランダから飛び降りた。
私もベランダに出て、下を見た。
もう彼は消えている。
私ははあっと溜息をついた。
もう冬だ。息が白い。
君が死んで1年半か、と考えながら、私は冬の街を眺めている。