願い事ひとつ教えておくれ。憐れな僕に教えておくれ。
そしたら、一緒に願ってあげる。
【願い事ひとつ空の向こうへ】
『家族みんなが幸せに過ごせますように』
『世界から戦争がなくなりますように』
『あの人の病気が治りますように』
今年も大豊作だなあ、と他人事のように思う。そもそもこの紙切れは、誰宛てなんだろう。
少なくとも、神に願ってはいけないよ。あれは愚か者に鉄槌を下すことはできても、正直者を救う力なんてありはしない。
『大切な人と、ずっと一緒にいられますように』
……それでも、自分にはどうにもならないことを、一縷の望みに賭けてみたいと夜空を見上げながら思うのなら、僕が一緒に願ってあげよう。
みんなの願い事を一つ一つ大切に読み上げて、心からその成就を願おう。僕の願いは、最後で構わない。
――せめて年に二回くらいは、君と逢えますように。
ひどく空しい恋をしている。と、時折思う。
見上げた空は、面白味のない灰色をしていた。
【遥か遠くの空に恋して】
空を見上げ、君のことを考える。僕が愛の言葉を伝えても、返事もくれない君のことを。
「君は太陽より明るくて、虹よりも繊細で、ううん……」
君が思わず無視できなくなるような口説き文句を考える。思い浮かんだ言葉を空にぶつけてみる。傍目からは、空に告白してる人みたいに映っているのだろうか。
「とにかく、愛しているよ。気が向いたら、お返事ちょうだい」
無意味な呼びかけだとわかっている。君は僕が何を言おうと、返事なんて寄越さない。
……だって、空の上まで僕の言葉は届かないから。遥か天の国と地上を繋ぐ言葉なんて、どこにもありはしないのだから。
「……雨」
これが、君の答えかい?
そう信じるより他に、空の先への無謀な恋を肯定する方法がわからなかった。
「貝殻に耳を当てると波の音が聞こえるって、よく言うよね」
君はそう笑って、僕の耳にぴとりと貝殻を当てた。ざあと耳の中で海が広がる。
【波音に耳を澄ませてみて】
「……騙されないよ」
僕はにやりと笑った。
「これは波の音じゃなくて、自分の血流が貝の中で反響してるだけ」
「ぐぬ……」
少し悔しそうにした君が
「ほ、本当にそうかな? もっとよく耳を澄ませてみなよ。ちゃんと波の音だから」
「冷静に考えて、貝殻から音が出るわけないじゃないか」
と呆れながらも、真剣な様子の君に根負けして目を閉じ、耳に意識を集中する。どおどおと何かが流れるような音はやっぱり僕の体の音が増幅されているだけで、波の音なんてデマ、誰が最初に流したんだろうと思う。
「好きだよ」
「!?」
「……聞こえた? 波の音」
「君さあ……」
波の音が激しくなった気がして、慌てて耳から貝殻を離す。最初に貝殻から波音が聞こえると言い出した人も、もしかしたら本当に耳を澄ませてほしかったのは、貝殻に対してでも波音に対してでもなかったのかもしれない。
「へえ、クリスタルの石言葉は『純粋』『無垢』『完全』か」
君が、僕があげたクリスタルの箱に付いてきた説明書きを読みながらそう呟いた。
【不純不完全クリスタル】
「『純粋』で『無垢』であることが、『完全』であるための条件なのかな」
「うーん……」
君の言葉に、どうだろうと首を捻る。そもそも、宝石にも花言葉みたいな概念があることを今初めて知った。それに……。
「それだと、純粋さを失った瞬間に完全ではなくなるってことにならない?」
「違うの? 純粋無垢って完全のパーツだと思ってた」
「えー」
あまりピンとこない。僕個人が純粋さをさして重視していないせいだろうか。
「……私は、私が純粋で――完全でいられないことに、かなり負い目を感じているよ」
「うーん……」
君の手からクリスタルの説明書を取り上げて、頭の中で説明を構築しながら少しずつ喋る。
「僕が君に買ったのは、クラッククリスタルってものでね」
説明書の該当の部分を示しながら、続ける。
「ほら、クリスタルの内部のここ、割れてるでしょ」
「うん」
「これは人工的にわざと付けられたもので、光が当たると……ほら」
鏡のようになったクラックの断面が、電灯の明かりを強く跳ね返す。
「綺麗……」
「でしょ?」
うっとり目を細める君に、僕は微笑みかける。
「だから、傷ついて完全じゃなくなっても、きっと大丈夫だよ」
励ましたつもりなのだが、君はなぜか難しい顔をしている。
「……でも、傷があったら、そこから割れやすいんじゃない?」
「うぐ……」
さすが君、いいところに気がつく。実際、この傷の部分からクリスタルが割れてしまったという話はそれなりに聞く。
どう返答したものかと言葉を詰まらせる僕に、君はくすくすと楽しそうな笑い声を浴びせてきた。子供のような純粋なものではなく、傷つきながらもここまで生きてきた大人の笑い方。
「だから、割れないように、大事にしてよね!」
畳に仰向けに寝転がる。ふわりと立ち上る藺草の匂いに、ああ、夏が来たと思った。
【夏の匂いは青空まで染み込んで】
「おーい、おきてるー?」
鍵のかかっていない玄関の扉を開ける音。母の実家、ド田舎、夏休みにだけ会える君。麦わら帽子。隙間なく編まれた植物の、ぎゅっとした匂い。
「ほら、虫取り行くよ!」
「めっちゃ家の中入ってくるじゃん」
腕を掴まれる。肌の白い君が全身に塗っている、日焼け止めの匂い。
「え、見て、めっちゃおっきいクワガタいる! やったー!」
「ちょ、近い……」
テンション高く僕の肩に手を掛ける、君の汗の匂い。
――祖父母が相次いで亡くなり、あの場所に行く機会がなくなってからも、ずっと忘れられない夏。きっと、あちこちにビーズのように散りばめられた夏の匂いが、きらきらと輝くせいだ。
一度だけ、大人になってから一人であの場所に訪れて、知った。君は、お見合いで知り合ったどこかの家のなんとかって人に嫁いだんだって。
夏の影を振り切るように、あの日々を彩る匂いから距離を取る。住んでるアパートの床は全部フローリングだし、冷房の効いた室内で生活することがほとんどだから、麦わら帽子も日焼け止めもいらない。君の体から発される匂いなんて、もはや僕には縁遠いものだ。
――それでも、どうしてもあの日々を忘れられないのは、きっとこの突き抜けるような青空の匂いのせいだ。