「どう? 私おすすめの映画だったんだけど」
「うーん、僕には合わなかったなあ」
「合わなかったかあ」
【保証書無しのまだ見ぬ世界へ!】
「今度は別ジャンルの映画に連れていくよ。君に見せたい映画、まだたくさんあるから」
「うん、楽しみにしてる」
「……私が言うのもなんだけど、よく付いてきてくれるよね。あんまり映画の趣味合わないじゃん、私たち」
「そうだね、勝率三割くらい」
「本当によく付いてきてくれるね!?」
「君こそよく誘う気になるよね。僕、全然気遣ったりできないのに」
「だからだよ」
「よくわかんないなあ」
「わかんないかあ」
「ちなみにさあ」
「ん?」
「映画に付き合う代わりに、今度僕の行きたいところにも付き合ってほしいんだけど」
「もちろんだよ、どこ?」
「市役所」
「……」
「結婚って僕もしたことないから、君みたいに『おすすめだよ』とは言ってあげられないんだけど」
「いいよ、合わなかったら素直にそう言うから。そしたら、『合わなかったかあ』って笑い飛ばしてよ」
「……よく付いてきてくれるね」
「君こそ、よく誘う気になったね。こういうときに涙を流して喜ぶような女じゃないのに」
「だからだよ」
「よくわかんないなあ」
「わかんないかあ」
ねえ、知ってる? 人は人の存在を、声から忘れていくんだって。
……じゃあ、君が死んで一ヶ月が経った今、君の声を覚えているのはもう僕だけかもしれないね。
【最後の声を鮮烈に】
そっとカーテンを開けると、外は既に夜だった。少し風があるのか、木の枝がゆらゆら揺れている。たまには窓くらい開けた方がいいのかなあ、と不意に思う。もう何日連続で外の空気に触れていないだろう。
ベッドから降りる。半端に中身の残ったポテチの袋を踏んづけてしまって、それなりに不快だ。台所までごみを足で掻き分けて進み、コップに水を注いで飲んだ。使い終わったコップはタコ部屋のような状態のシンクに無理やりねじ込む。
最愛の君がいなくなってから、気づけばこの部屋は僕が住んでいるのかゴミが住んでいるのかわからないような状態になってしまった。
君からもらった最後の声を、必死で思い返す。それによってトラウマがぶり返し、さらに部屋が荒れることになるとしても。僕が忘れるわけにはいかない。この世から、君の声を覚えている人がいなくなってしまう。それだけは駄目だ。
目を閉じて、君が僕にくれた最後の声を思い起こす。僕にとって、それが一番取り出しやすい、君の声に関する記憶だ。
『嫌っ、殺さないでっ……!』
「……忘れられるわけ、ないか」
再確認する。あんな、生涯解けることのない呪いじみた声、忘れたいと願ったって忘れるはずもない。君の首を絞めた手の感覚を忘れても、きっとこれだけは忘れない。
全ては、僕が君の声を覚えているこの世でただ一人の存在になるため。君の最期の声を独り占めするため。
そのために、「計画通り」心を病んだんだから。
生きている君が僕なんか気にも留めなかったのと同じくらい当たり前に起こる、忘却という自然の摂理に抗うため。そのために僕は、今日もゴミ山に埋もれる。
幼稚園児の頃、僕は君の旦那さんになりたかった。
【子供の頃の夢なんて、きっと】
小学生の頃、僕は宇宙飛行士になりたかった。君にかっこいいと思われる宇宙飛行士になりたかった。
中学生の頃、僕は公務員になりたかった。周りの人と自分自身を安心させられる社会人になりたかった。
高校生の頃、将来とか夢とかどうでもいいから、とにかく今君の彼氏になりたかった。未来も将来も全部ここで途切れていいと思うほどの、強い願いだった。
大学生の頃、僕は君と同じお墓に入りたかった。揺りかごからは難しくても、墓場までの旅路を共に歩んでいきたかった。
……そして社会人になった今、僕は君の旦那さんになりたい。君のせいで、僕の心は体は小さいくせに夢ばかり大きいような、あの幼き日々に戻されてしまった。
――あっという間に墓場までの旅路を終えてしまった、君のせいで。
ねえ、初恋が叶わないと言われるように、無謀な子供が思い描くような夢なんて、きっと叶わないね。
「世界一大好きだよ、どこにも行かないでね」
世界一大好きな君からの願いを、無碍にできるわけないじゃないか。
【どこにも行かないで待っている】
「ねえっ、本当にどこにも行かないでよね」
「行かないってば」
「そう……? 本当に? 隙を見て逃げようとか思ってない?」
「思わないよ」
そもそも、逃げられないし。足枷くらい外してくれないかなあ。僕は逃げないからさ。
「私、仕事行ってくるけど、本当の本当に絶対絶対逃げないでね!」
「うん、行ってらっしゃい」
子供が使うような言葉の繰り返しで必死に僕を繋ぎ止めようとする姿が愛おしい。君を不安がらせてしまうのは、本意ではないけれど。
がちゃり、と部屋の鍵を外から閉める音が無機質に響いた。
■
「どこにも行かないでね、絶対だよ」
「分かってるって」
僕の足が枷から解放された。それは君が不安から解放されたことの証左なので、とても嬉しい。
「買い物行ってくるけど、買ってきてほしいものある?」
「お肉とじゃがいも。今日は君の肉じゃがが食べたい」
「じゃあ、玉ねぎも買ってこないとだ」
なんて日常会話を交わしてくれる程度には、僕に心を許してくれている。相変わらず鍵は二本持ち歩いているので、部屋の鍵はかけるつもりなのだろうが。
「行ってきます、逃げちゃダメだよ~」
「逃げないよ、行ってらっしゃい」
がちゃり、と部屋の鍵を外から閉める音が柔らかく響いた。
■
「どこにも行かないよね、君は」
「もちろん。今日はいつ頃帰るの?」
「ちょっと友達と会うだけだから、夜には戻るよ」
「晩ごはん作っておこうか?」
「うん、お願い」
君が僕の部屋に鍵をかけずに外出するようになってだいぶ経つ。鍵のかかっていない扉は見た目以上に軽くて、こんなに頼りないものだったのかと未だに新鮮に驚く。
「友達、どんな人なの?」
「どんなって言われると、説明が難しいなあ……。もう出かけたいから、この話後でいい?」
「うん、ごめんね引き止めて」
僕が自由を得るのに比例して、君の秘密が増えていくような気がする。僕は今更どこにも行けないのに、君は僕の知らない誰かに会いに行くのだ。
「行ってらっしゃい」
「ああうん、行ってきます」
がちゃり、と扉を閉める音が無機質に響いた。
■
「お願い、どこにも行かないでね」
「久々に聞いたかも、そのフレーズ」
今更僕が逃げ出すことを恐れる君ではないと思っていたが。何か不安にさせるような行動や言動をとってしまっていただろうか。
不安になるほどの執着が君に残っていたことに、僕は深く、深く安堵していた。
「……信じてるよ。君は私の約束、絶対守ってくれるもんね」
「当然さ」
何にも縛られない足で立ち上がり、扉の前まで行く。本当は玄関まで見送りたいけれど、君に「行かないで」と言われたから、僕は絶対にこの部屋から出ない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
―――
――
―
そうして、それが最後の会話になった。僕はまだ、この部屋で待っている。君の帰りを待っている。君の言い付けを守って、どこにも行かずに。
がちゃり、君が閉め忘れた扉を閉める音が虚しく響いた。
「花占い、ってあるじゃない?」
地面にしゃがみ込んで、こちらを見もせずに君は言う。
「あれでしょ。君は僕のことが好き、嫌い、好き、嫌い……ってやつ」
「そう」
【好き、嫌い、嫌い、嫌い……?】
「でもさあ」
つん、と足元に咲いた花を指先でつついて、君は続ける。
「あれ、おかしいよね」
「おかしいって、何が?」
「好き、嫌い、好き、嫌いって、交互に繰り返していくじゃん。でも、好きと嫌いって、そんなに何度も往復するような感情じゃないと思うんだ」
君が、足元の花を摘み取って、その小さな花びらに手をかける。
「好きの次が嫌いは、分かる。でも普通、一回嫌いになったら、その先はずっと、嫌い、嫌い、嫌い……」
はらはらと、残基が減るみたいに花びらが散らされていく。
「それじゃあ、占いにならないじゃん。最初から結末が決まっているなら」
ふわ、と風が吹いた。ちぎり取ったばかりの花びらが君の手をすり抜け、髪に絡んだ。
「あ……」
「はは、似合ってる」
笑いながら君に近づき、髪についた花びらに手を触れる。それを抜き取るとき、ふと思い付いて
「好き」
と、言ってみた。花占いに使う花の花弁が、全部一枚だったらいいのに。一度心変わりしたら取り返せないと言うなら、好きから変わらなければいいのに。
「そうね、結末は、決まってる。何もしなければ続いていくだけの感情も、きっかけ一つで裏返るから」
ねえ、花占いって普通、好きから始まるでしょ? と君は続ける。花びらは残り一枚。
「好きから始まる感情は、優しく髪を触られるだけで元のところに戻る呪いよ」
最後の花弁が地面へ落ちる。「好き」の言葉がそれに重なる。