今日のテーマは『寂しさ』ということで。
これについては以前から思うところがあって、どうも『寂しさ』というものは人々から忌避されているようで。
例えば『寂しさ』に続く言葉として「〜を埋める」「〜に耐える」「〜を紛らわす」「〜に苛まれる」「〜を振り払う」なんて言葉が続くわけです。
これらはどれもこれも『寂しさ』を“ないものとして扱う”あるいは“なくそうと努める“そのような印象を抱きます。
他にも『寂しさ』に続く言葉は多々あると思いますが、概ね上記のようなニュアンスの言葉が続くことでしょう。
さて。
『寂しさ』に苦悩している人たちというのは、どうも『寂しさ』というものに囚われているように感じます。
執着と表現しても差し支えないでしょう。
自分の中に確かに存在する『寂しさ』というものを「どうにかなくしてやろう」「なくせないならないものとして扱おう」という仕草は、皮肉なことにより『寂しさ』を際立たせているのではないか、と。そう思うわけです。
以前の投稿でも書きましたが、きっと本質的に人は孤独なのだと私は思っています。だから『寂しさ』を切り離すことはおそらく無理なのだと思います、多分。
だから『寂しさ』に対してできることといえば、あるがままにする。「あー、私は今、寂しい気持ちなんだ」と、ただただ己の中にその存在があることを認めてみる。存在することが自然なことなのだと認める。それが『寂しさ』に囚われない、執着しない方法なのではないかと、私は思っています。
とはいえ、それができれば苦労はないし、執着するのも人間らしくて、それはそれで...。
はてさて30分と...10分が経過していました。
筆のノリもイマイチなので、今日のテーマはこれにて。
今日のテーマは『冬は一緒に』ということで。
唐突ですが、あれは確か2017年4月11日。
自宅への帰路の途中「てとてと...」なんてオノマトペが聞こえるような足取りで、私の家まで子猫がついてきました。
拾い上げるか迷った末に「のたれ死なれても、保健所に連絡するのも後味が悪い。この命の責任を背負ってみよう」と思って拾い上げた記憶があります。
子猫にはヘブライ語で「安息」という意味を持つ「ノア」と名付けました。我ながらセンスがいいですね。
実際、ノアはその名の通り、私に安息を与えてくれる存在として、今も一緒に暮らしています。
夏は暑いですから、ノアは一緒に寝てくれません。
ただ、『冬は一緒に』寝てくれます。現金な奴ですね。
私が布団に入ると、時間差でやってきて、私がひょいと布団を上げるとモゾモゾと入ってくれる。大抵は脇か股の間にスポッと入り込んで、そこで丸くなる。
猫は暖かい、体温的な話ではなくて。
なんというのか、多幸感でどこかくすぐったい気持ちになって、心がやんわりと暖まるような、そんな暖かさがある。
「冬は人肌が恋しくなる」なんてフレーズもありますが、私は猫肌が恋しくなるわけです。
はい、過去に思いを馳せていたら30分が経過しました。
最後に精神分析の創始者フロイトの名言を書き残して、このテーマは終えたいと思います。
「猫と過ごす時間は決して無駄にならない」
by Sigmund Freud
今日のテーマは『とりとめもない話』ということで。
いつも書いていることは『とりとめもない話』です。
ただ筆が乗るままに、思考が巡るままに、大体30分という制限の中で、なんとなく書いたものでして。
本当にくだらない、どうでもいいことを書いているわけですが、この「くだらない」というのが人生には必要なのだと、私は思っているわけです。
辞書を引いたわけではないので私の感覚的な話になりますが、おそらく「くだらない」の対義語は「意義ある」だとか「価値のある」だとか、そのあたりの単語でしょう。
これもまた私の感覚ではあるのですが、価値あるものとか意義あるものって、つまらないんですよね、ぶっちゃけ。
娯楽と呼ばれるものは突き詰めれば「くだらない」ものですし、友人知人との雑談(とりとめもない話)もまた『くだらない』ものなんです、おそらくは。
ただ、そういった「くだらない」とされるものを、価値がないとか意義がないと切り捨てる人生は味気ないもの何ではないか、と。そういった「くだらない」ものに価値や意義を見出すことが必要なのではないか、と。そう思うわけです。
30分というのはあっという間です、このような『とりとめもない話』を考えているときは特に。
今日のテーマはこのあたりで終えたいと思います、はい。
今日のテーマは『風邪』ということで。
唐突ながら「喰う寝るふたり住むふたり」という男女の同棲生活を描いた漫画がありまして。
その漫画のエピソードに普段は気丈な彼女が風邪を引く回ががありまして。最初はフラフラながらも大丈夫だといっていた彼女ですが、体温計で熱を測り『風邪』だとわかると、弱気になり甘えん坊になる...という描写がされていました。
「病は気から」という言葉もありますが、病が気に影響を及ぼすことも往々にしてあるんだな、なんて思いながら読んでいたと記憶しています。
この表現が適切かどうかは分かりませんが、うつは『心の風邪』なんて表現されることもあります。
身近に抑うつ的な人が多々いましたが、彼ら彼女らを見ていると、うつ状態というのはまさに「病は気から」「病は気に」の負のエンドレスループのようなものだな、と。
そんなふうに思ったものです。
書き始めて30分も経っていませんが、パッと思いつくのはこれぐらいでしょうか。
というわけで、今日のテーマはこれくらいで。
今日のテーマは『雪を待つ』ということで。
小さい頃は子どもらしく、雪が降れば非日常的な景色にはしゃいで、雪が溶けたらまた雪が降らないかなと思う子どもだったように思います。
ただ、大人になるにつれて「バイク使えない...」「通勤(通学)めんどくさい...」「雪が降るほど寒いのか...」と雪を待つことはめっきりなくなってしまったな、と。
しかしながら、子どもと関わる機会が多い職業ゆえに、雪が降った日の子どもたちのはしゃぐ姿を見ると「また降ってくれないかな」と雪を待つ自分もいるようで。
我ながら現金なものですね、まったくもって。
しかしそれでいいのだと、それが人間というもので、人間の特権なのだと、私は思っているわけです。
一見相容れない感情や情緒、想いといったものが、自分の中に同時に存在することを許容できない人もいます。それは「Aという感情や情緒、想いを抱いたならば、Bというそれらを抱いてはならない」というある種の思い込み、あるいは精神的な潔癖さが働いているからなのでしょう。多分。
矛盾した感情や情緒、想いを抱いたときに「これもまた一興、人間らしくていいじゃないか」なんて思えると、見えてくる世界が変わってくるかもしれません。きっと。
後半は『雪を待つ』というテーマから外れてしまいました。思考が拡散し過ぎてしまう、いやはやわたしの悪い癖です。
書き始めて30分が経ちましたので、このテーマはこのあたりでお開きとさせていただきます。