今日のテーマは『寂しさ』ということで。
これについては以前から思うところがあって、どうも『寂しさ』というものは人々から忌避されているようで。
例えば『寂しさ』に続く言葉として「〜を埋める」「〜に耐える」「〜を紛らわす」「〜に苛まれる」「〜を振り払う」なんて言葉が続くわけです。
これらはどれもこれも『寂しさ』を“ないものとして扱う”あるいは“なくそうと努める“そのような印象を抱きます。
他にも『寂しさ』に続く言葉は多々あると思いますが、概ね上記のようなニュアンスの言葉が続くことでしょう。
さて。
『寂しさ』に苦悩している人たちというのは、どうも『寂しさ』というものに囚われているように感じます。
執着と表現しても差し支えないでしょう。
自分の中に確かに存在する『寂しさ』というものを「どうにかなくしてやろう」「なくせないならないものとして扱おう」という仕草は、皮肉なことにより『寂しさ』を際立たせているのではないか、と。そう思うわけです。
以前の投稿でも書きましたが、きっと本質的に人は孤独なのだと私は思っています。だから『寂しさ』を切り離すことはおそらく無理なのだと思います、多分。
だから『寂しさ』に対してできることといえば、あるがままにする。「あー、私は今、寂しい気持ちなんだ」と、ただただ己の中にその存在があることを認めてみる。存在することが自然なことなのだと認める。それが『寂しさ』に囚われない、執着しない方法なのではないかと、私は思っています。
とはいえ、それができれば苦労はないし、執着するのも人間らしくて、それはそれで...。
はてさて30分と...10分が経過していました。
筆のノリもイマイチなので、今日のテーマはこれにて。
12/19/2024, 11:52:29 AM