今日のお題は『イルミネーション』ということで。
このアプリを始めて数日、こんなテーマもあるんだなというのが率直な感想です、はい。
何を書けばよいのやら、10分経過した時点でまだ三行しか書いていない。いやはや恐ろしい。
このような状態に陥ったら自身の過去の経験というものが書くヒントをくれたりします。そして私の過去の経験をサルベージした結果「イルミネーションを見ることを目的に、1人でイルミネーションを眺めに行ったことのある人はどれくらいいるのだろうか」ということが思い浮かんできました。
1人で街中のイルミネーションを見かけた経験はあるかもしれませんが、それは偶然通りかかったところで目にしたイルミネーションなわけです。大々的にライトアップされたイルミネーションをわざわざ1人で眺めに行く人はあまりいないのではないか、と。
あまりいないのではと書きつつ、実のところ私はそのような経験があったりします。地元で有名なイルミネーションがライトアップされる施設に、真冬に、一人で。
その感想は語りません。あまり意味がないので。
ただ、まだ経験されていない人は「誰かと一緒に見に行くイルミネーションとの対比」のために、やってみてもいいのではと思うわけです。きっと、誰かと一緒に見に行くイルミネーション体験の、良い隠し味になるでしょうから(おそらく、多分、ひとによりけり...)。
布団でぽちぽちし始めて30分が経過しました。
このテーマはこんな感じで終了です。
今日のテーマは『愛を注いで』ということで。
職業病とやらでしょうね。このテーマで思いつくのは「親子関係」や「愛着」ぐらいなので、そのことについて書いてみようかなと思います。
愛着障害というものがあるわけですが、これは虐待やネグレクトなど両親の養育態度が悪かったからなるものだと、そう思われがちです。
ただ、それは非常に狭義なものといいますか、正しくは「子どもから親へ向けた何かしらの発信」とそれに対する「親の応答」の「噛み合わなさ」という部分にあるのだと、私は思っているわけです。
もう少しわかりやすく表現するならば「子どもが期待していた応答」と「実際の親の応答」、それらに「差異がある」場合に引き起こされると言えるかもしれません。
『愛を注ぐ』というのは、親子関係にとどまらず「夫と妻」「彼氏と彼女」など大半は二者関係の中で営まれるものだと思います。端的にいえば「自分と相手」です。
ただ、自分は『愛を注いで』いたつもりでも、相手は『愛を注いで』もらったと思っていない、そういうことが二者関係の中では往々にしてあるのです、残念なことに。
結局これらが起こってしまうのは、相手が期待している自分の応答(アクション)と実際に自分がした応答に差異があるからだなのだと、そう思うわけです。
自己満足で愛を注ぐのではなく、相手が求めた愛を注ぐことが、大切なのではないないか、と。
是非ともこれから『愛を注いで』いく方には留意していただけたらと、思ったり思わなかったり...。
かれこれ30分が経ちました。
今日のテーマはこれにて終了です。
今日のテーマは『心と心』ということで。
このテーマを見て思ったことは、このテーマの副題はおそらく「繋がり」というものなのだろう、と。
心を「分かち合う」
心を「寄せ合う」
心を「重ねる」
心が「触れ合う」
パッと思いつく限りでも『心と心』、その「繋がり」を表す表現というのはこれだけあり、心から始まる表現にこだわらなければ、もっと多くの「心の繋がり」を表す表現があるわけです。
きっと調べてみれば自分が思っていたよりも、心の繋がりを表す表現が多くあると思いますが、それはきっと、本質的に人は孤独で、だからこそ他者との繋がり、「心と心の繋がり」を渇望しているからなのでないか、と。
私も渇望しています、人間ですから。
ただ、「心と心の繋がり」による孤独感の低減は、おそらく「鎮痛薬」のようなもので、「人はみな孤独である」という本質は変わらないのだろうと、そう思います。
そろそろこの文章を書き始めて30分が経ちました。
最後に一言、私は『心と心』の繋がりを渇望しつつ、求めることをやめてしまいました、残念なことに。これは非常に残念なことで、すごく拡大解釈すれば人間性を一部失ったとも言えます。
だから、もしこの文章を読んだあなたが『心と心』の繋がりを渇望しているのであれば、求め続けていただけるといいのかな、と。そんな風に思います。
はい、ぜんぜん一言ではなかったですね。
このあたりでこのテーマは終えたいと思います、はい。
今日ののテーマは『何でもないフリ』ということで。
これについては以前から思っていることがありまして。
というのも『何でもないフリ』というものを自覚している人たちの『何でもないフリ』というのは、側から見ていると『何でもないフリ』になっていないのではないか、と。
特に自分の心中を察せられたくないときの『何でもないフリ』というものは、側から見ていて「あぁ、これは何でもないフリなのだろう」と思ってしまうのです。
大変申し訳ないことに。
本人たちは至って真面目に何でもないふりをしているのでしょうが、そういった場面の『何でもないフリ』というのは、何でもなさげな感じが盛られているようで。
この「何でもなさげな感じが盛られている」というのは、おそらく「いつも通りの自分をイメージして振る舞った自分」だからなのだろうと、なんとなく私は解釈しています。
心理学の用語で「反動形成」なる用語がありますが、おそらくその一種なんだろうと、そう思っています。
「だからなんなの?」というような内容を書き始めて30分ほどが経ちました。
このテーマはこれくらいで終わります。はい。
今日のテーマは『仲間』ということで。
私が『仲間』という単語を見て思い浮かべることは、ありきたりですが「仲間とは何か」ということで。
例えば「友達は仲間なのか」「会社で一緒に働く人は仲間なのか」「家族は仲間なのか」とか、そういった具合のことを思い浮かべるわけです。
『仲間』という単語が特定の関係性の名称なのはわかっているのですが、どういった関係性を指すのかということについては、ぼんやりとしか思い浮かべることができないのです。
思考ををぼんやりとさせ、これまでの私の交友関係で仲間に該当する関係性があったか思い浮かべてみると、一つだけ「仲間だったのではないか」と思う関係性があります。
私は不登校だったのですが、そのときに出会った私と同じく不登校という背景を持った人たちは、少なくとも当時は「仲間」と思っていたように思うのです。
ただ、過去形で書いている通り、現在も彼らに対して仲間意識があるかといえば、不思議なことにありません。
それは私が不登校という過去を清算して生きているからかもしれませんが、そのことはおいていきましょう。
この文章を書き始めてはや30分。
辞書を引くという野暮なことをせず、私なりに仲間とは何かをまとめてみると「アイデンティティに影響するような共通の背景を持ち、情緒的な交流のある関係性を指す名称」ぐらいになるのではないかな、と。
はい、こんなものかと思います。
これにてこのテーマは終えたいと思います。