花畑と聞いて真っ先に思い浮かべたのは、祖母の家の庭先にあった色彩豊かな花壇であった。
やんちゃしてたちんちくりんのガキの時代に、毎年のように訪れていた祖母の家がおれは大好きだった。
花のことはなーんにも知らないはなったれのおれだったけれども(なんなら今も全然知らんしはなったれてもいるかもしれない…)、隅々まで手の行き届いた、品性を感じさせるような花壇であったことはなんとなくだが憶えている。
当時のおれたちは色とりどりに並べられた花たちと背比べをしたり、花びらに顔を寄せてはその数を一枚ずつ数えたり、蜜の匂いに誘われてやってきた虫たちと戯れきゃっきゃと無邪気に声をあげては大人たちを心配させたりと、そんなことをしながら退屈とは程遠い日々を毎年のように過ごしていた。
庭先の一画に作られた六畳一間程度の、花畑と呼ぶにはなんともスケールの小さいものではあったけれども、花畑という2文字の言葉を目にすると、時折在りし日の無垢なる記憶が、ひらひらと胸の内に舞い戻ってくるように感ぜられる……
……こうして度々、頭の中の端々に極彩色の花を咲かせながら、浸るや溺れるノスタルジィ。おれは懲りずに、酒を飲む。今日も今日とて、浴びるように、酒を飲む。
「花畑」
うぃ〜、ヒック。
よぉ。元気か?
…ありゃま、そっか、こりゃいけねぇな。
そういや、アンタ、飲めるんだっけか?
んまぁ、別に、無理するこたぁねえけどよ。
そんなことより昨日の雨、酷かったみてぇだな。
アンタは、大丈夫だったか?
そか、んなら、よかったよ。
…空が泣いてるみたい、だなんて。
アンタ、洒落たこというんだな。へへ。
そろそろ今日は、お開きすっか!
久方ぶりに、楽しかったわ。
うー、外は寒くて、いけねぇな…
風邪引かないよに、気を付けてくれな。
またそのうち、どこかでご一緒しようや。
おやま?なにやら、今夜は星が
空をせらせら、流れておるな。
へへへ、アンタの言葉を借りて言うなら、
まるで、空が泣いてるみてぇだ。
こんな綺麗な泣き顔は、うまれて初めてみたんだけども。
へへっ、アンタと駄弁れて、今日はほんとによかったよ。
そんじゃあまた、温かくして、おやすみな。
「空が泣く」
さぁーて、LINEの確認でもすっか。
「通知:0」
さ、さぁーて、仕方ね、もう寝るとすっかな゙…
(ささ、寂しくなんてねぇぞ…最近始めたばっがりだから、まんだ友だちがすくねぇだげだがんな…)
♯君からのLINE
かじかむ手をなんとかスウェットの裾で覆い隠し、一心不乱に自転車のペダルを回していた。
ぜぇぜぇと白い息を切らしながら、川沿いをぶっ飛ばしていく。ゆらゆらとした川の水面にはとろりとした満月が浮かんでいて、それは片手間にこちらを覗き見ては、がむしゃらにつっ走るおれをほくそ笑んでいるようだった。
数刻の後、あんだけの時間をぶっ飛ばしてきたんだ。疲労困憊。まぁ無理もない。切らす息すら残ってはいまい。
よる年波には勝てぬものだと未練がましくも自覚しながら、土手沿いで一人佇む。あの月が今もまだ嗤っているかと思うと、川の方に目を遣るのは憚られた。
虚しさを増幅させるだけだと遠慮していたのだが、行き場を失くした視線の先として残されていた夜の寒空を、やむを得ずおれは見上げることにした。
「……火球だ。」
思わず声が溢れていた。
洗練された筋を細く残しながらするりと空を流れていく星であれば、何度か見たことがあった。
しかし、今のは違った。あんな流星は、つよく燃え滾るような光が漲るあんな流星は、生まれてこの方、見たことがない。
火球は、おれの視界を満遍なく埋め尽くしていた茫漠たるこの虚空を、音もなく、刹那のうちに切り裂いてしまったのだった。
おれはあまりにも一瞬の出来事に呆気にとられ、その場に立ち尽くしてしまった。
しばらくの間、この空を眺めていた。目蓋の裏には、あの火球の軌跡がまだくっきりと残されている。
身体にほてりを感じながら、すぐさま自転車に跳び乗った。あの火球が消えてしまわぬうちに、と。
おれは腕まくりをして、白い息を切らしながら、再びペダルを回しはじめた。
月はまだ、おれのことをわらっているのだろうか?なんだかもう今となっては、まったくどうでもよいことのように思えてきてしまった。
ふふっ、と得意気になったおれはまっすぐに続く川沿いの道を一心不乱にかっ飛ばしてゆく。
目蓋の裏に残された軌跡を、どこまでも広がる眼前の空に重ね合わせながら。
「本気の恋」
この世のあらゆる不条理に抗う方法を、お前さんは御存知か?
生を預かり気がつきゃもう数十年だ、決して急いだつもりはねぇけんども、若さなんてのはあーっちゅーまにガーーっちゅうておれの身体を一気に駆け抜けていっちまったさ。
んまぁ確かにあっちゅーまではあったけどよ、このおれにだって憶えていることの一つや二つ、三つや四つ、五つの六つの七つや八つ……
へ、へへへ、皺の数みて察してくれや…
さぁさ、こんなむさ暑い夜に一滴たりとも飲まねぇなんて、救いのねぇこと言いなさんな。
世の不条理にはこの不合理で迎え討つしか、術がねぇのよ…酒呑みにゃ。
泡沫の夢、どうかその目の覚めやらぬうち。