噴き出す黒い煙がガスホルダーを掠めて、風に溶けていった。
湿気たタバコに火を灯し、鉄の骨の残響が深く沈み込む夜を、当てもなく彷徨っている。
コンクリートを踏みつけるたび、冷たい振動が全身を伝う。
タバコは、いい。
吸い込めば吸い込むほど、なんだか胸の奥に熱が滾る気がする。
肺に溜めこみ、漏れ出るようにして、そっと吐きだした。
もしかしたら、こんな気分でいられるのも、あの人が好んだこのタバコのおかげかもしれないな。
街灯が落とす影を追いかけては追い越し、また追いかけては追い越し。
そんなことを繰り返しているうちに、光も影もない場所にたどり着いた。
ぼんやりと空を見上げ、煙を夜へと返す―
タバコの先端が夜の一点を小さく滲ませている。
やがて、まぶたが静かに落ちるように
消えていった。
―冷えた光が油膜をなぞり、鈍く揺らめいていた。
窓の向こうで首をもたげた街灯が斜めに光を落としていた。
その光の裏に、秋雨の溜息が静かに沈んでいく。
濡れた路面が赤、黒、黃、白、緑緑緑を反射して滲みながら揺れる。
片隅にある埃かぶったビニール傘は、外気を欲しているかのようだ。
部屋にひっくり返った酒瓶の数だけ、うたかたの夢を浮かべてきた。
射しては消え、射しては消え、ついぞ世界は霧を湛えた。
…おれはそれらすべてを飲み込む。
光も雨も、酒も霧も――漏れなく、身体の至るところから次々と漏れ出していく。
すべてを飲み込み、
波一つ立たない水の中で、ただ祈りを捧げている。
コンッコンッ
おや、誰か来たようだ、扉がなっておる。
こんな時間におれを訪ねてくるとは、いい度胸していやがるじゃないか。
どれ、いっちょ、どなりちらかしにでも…
コンコンコンッ
…いや、待て。
今は、a.m 4:00。
へべれけに酔い狂ったこのおれに、用のある奴などおるわけがないだろう。
毎日遅くまで飲むとはいえ、騒音をたててまで周りに迷惑かけるのんべぇは、おれはでぇきらいなんだ。いつもしっぽりとやってるおれに、さすがにクレームなんてねぇだろ。
コンコンッコンコンッ
あ…?でも、よく考えると、おれ、今来たやつを、これからどなりちらかしにいこうとして…
よくねぇよくねぇ!こんな時間に…それはまったく、おれのポリシーに反する行動だ。ほんと、それだけはよくねぇってこった。
ここは、スマートに対応するのが紳士ってもんよ。大人の常識…おれにだって、多少の教養はある。
コンコンコンコンコンコンコン
息を整え、おれは扉を開けた。
「おらぁっ!!貴様こんな時間になぁぁんの用があって、こんなとこまできてんだよぉー?!!ここいらの酒全部ぶちまけてやろうか、おぉうら!?」
「もう、お店閉めますよ。何時間もトイレにいて、何してんですか。」――
――気づけばおれは全力の土下座を決めていた。
おでこが極限まで擦り減る程、その場に平伏し謝り散らかした。
その後はちょっぴり多めの金を支払い、
颯爽と(店主からは逃げるように見えたかもしれんが、誰が言おうと決してそんなつもりはないのである。品性漂うイケオジのような、そんなスマートさや風格のイメージをもって)店を後にした。
嗚呼、朝混じりの夜風がなんだか心地良い。
誰か、おれに慰めの一杯でも恵んでくれやしないだろうか。
苛立ちに先んじて、おれは得も知れぬ不安に襲われていた。
おれがまくし立てたであろう言葉の端々がじめじめとした薄暗闇にボトボトと落石していく。
寸刻前の光景がパチ、パチ、と視界の片隅で小さく弾けながら、ねっちょりとしたミックスソフトの境目が溶け出してぬらぬらと互いを侵食していくように、風景はねじまいていく。
あら。
と気づけば、おれのからだもいつの間にやらそれに巻き込まれているようだった。
指先で風呂の温度でも確かめるような気楽さで遊んでいたのに、どうやらもう後には引けないらしい。
あ、あ、ぁ、あ、あ゛あ!
音や光や重力が、勝手気ままにとびまわる。
ルールや約束事が意気揚々と世界から逸脱していく。
砂埃が寒い。星が喉を搔く。天ぷらの窓。虹。虻。
もーういいかい?だーまだよん
貴方は、どこにいるのだろう。
毎日のように、顔をだしては
酒瓶を手に、おれはここから
宇宙へと旅、飛び立っている。
花畑と聞いて真っ先に思い浮かべたのは、祖母の家の庭先にあった色彩豊かな花壇であった。
やんちゃしてたちんちくりんのガキの時代に、毎年のように訪れていた祖母の家がおれは大好きだった。
花のことはなーんにも知らないはなったれのおれだったけれども(なんなら今も全然知らんしはなったれてもいるかもしれない…)、隅々まで手の行き届いた、品性を感じさせるような花壇であったことはなんとなくだが憶えている。
当時のおれたちは色とりどりに並べられた花たちと背比べをしたり、花びらに顔を寄せてはその数を一枚ずつ数えたり、蜜の匂いに誘われてやってきた虫たちと戯れきゃっきゃと無邪気に声をあげては大人たちを心配させたりと、そんなことをしながら退屈とは程遠い日々を毎年のように過ごしていた。
庭先の一画に作られた六畳一間程度の、花畑と呼ぶにはなんともスケールの小さいものではあったけれども、花畑という2文字の言葉を目にすると、時折在りし日の無垢なる記憶が、ひらひらと胸の内に舞い戻ってくるように感ぜられる……
……こうして度々、頭の中の端々に極彩色の花を咲かせながら、浸るや溺れるノスタルジィ。おれは懲りずに、酒を飲む。今日も今日とて、浴びるように、酒を飲む。
「花畑」