“入道雲”
ジリジリと肌を焦がす強い日差し、抜けるような青い空、日差しを反射してキラキラと輝く青い海、そして空と海の境界線を縁取る綿飴みたいな入道雲。
これぞ夏、これを夏と言わずして何を夏と言うのかといわんばかり風景をゆっくり楽しむ余裕もなく、俺は坂道を自転車に乗って登っていた。
こめかみをつぅっと汗が伝ってTシャツに落ちる。ちらりと目で追った自分の胸元の少し下、腰辺りには白くて細い腕がしっかりと回されていてカッと頭が熱くなる感じがした。どうしてこんなにもドキドキするんだろう。もしも両手が空いていたら、今すぐにでも胸を押さえてしゃがみ込むくらいの気持ちだがそうもいかない。代わりにと両手でハンドルを強く握りしめた。
真夏日が続く様になってからも何度も自転車で登ってきた坂だというのに、今日はどうしてか熱くて熱くて仕方がない。人を一人後ろに乗せるだけでこうも違うということなのか、それとも後ろに乗っているのが彼女だからなのだろうか。今までの17年間で一度も二人乗りだなんて青春らしいことをしたことのない俺にはわからない。ただ、この熱や動悸が彼女に伝わっていなければいいなあと祈りながら足に力を込めてペダルを踏み込んだ。
踏み込んだ勢いで少し姿勢が傾いたことに驚いたのか俺の腰に回した腕に力が入って、それと同時彼女の柔らかい身体が俺の背中にぎゅうと押し付けられた感覚がした。人の身体ってこんなにも柔らかかったっけ、と頭に浮かんだ疑問を首を振って振り払う。それ以上考えてはいけない。
「大丈夫?疲れた?降りようか?」
「いや、大丈夫。もうちょっとだから」
「……そう?」
心配そうに声をかけてきた彼女の足にはストラップの切れたパンプスがぶらぶらとひっかかっている。ストラップが切れたパンプスで無理に坂を歩いた彼女の足には痛々しい靴ずれも出来ていて思わず声をかけてしまったのが始まりだった。時折図書館で見かけてはいつか声をかけてみたいなと密かに想いを寄せていた一目惚れの相手と、まさかまともに話をする前に自転車の二人乗りなんていうあまりにも青春じみたことをしてしまうなんて。
暑くて仕方がないはずなのに、目的地がドンドン近づいてくるのがひどく寂しく感じた。もっともっとずっと彼女と一緒にいられたら良いのに。この道が永遠に続いたら良いのに。青春の熱にやられた頭でそんなことを思いながら俺はまたペダルを踏み込んだ。
“夏”
生ぬるい風に乗って、吹奏楽部の楽器の音とグラウンドを走る運動部の掛け声が聴こえてくる。完全に集中力を欠いた俺は指でシャーペンを回しながら、解答を悩んでいるふりをしてそっと向かいに座る男の顔を眺めることにした。
透き通る様な白い肌、スッと通った外人みたいに高い鼻、長いまつげに縁取られた切れ長の目、さらりと流れる少しだけ伸びた髪。見ているだけで涼しくなる様な見た目の彼はその実ありえないほどに沸点が低い激情家だが、今は課題に集中しているせいか静かにしている。
静かにしてればなあ、なんて彼をよく知る人間なら誰しもが一度は口にしてしまう言葉が頭の隅を過ぎった。
静かにしていれば、確かに彼はとても綺麗な男だった。クラスメイトの女子たちがグラウンドにいる彼を見ながらヒソヒソと話していたとおり、目の保養というやつなのだろう。激情家な一面ばかりを目撃してきたからか静かな彼は少し物足りなさもあったが、目の保養と思えばもう少しだけみていたいという欲も出てくる。なんだか急に喉が乾いてきて、ゴクリと喉を鳴らしたと同時に、彼が顔を上げた。
「さっきからジロジロと人を見やがって、なんのつもりだよ」
目一杯に怒ってますという顔をして睨みあげてくる彼はもう完全に激情家の顔になっていて、良くわからないけれど酷くホッとした。
「なんでもないよ、良くこの暑い中集中が続くなって見てただけさ」
「お前の集中力がないだけだろ」
フンッとバカにした様に鼻を鳴らした彼はそのまま机に置きっぱなしにしていたペットボトルを手に取った。ペットボトルについた水滴が彼の白い腕を伝って落ちていく。流れる水滴を目で追っていた時にチラッと見えたYシャツの下の二の腕の白さがやけに目について、また喉がゴクリと鳴った。その意味を考えたくなくて目を逸した先には夏の抜けるような青空が見えた。
夏だから、暑いから。ただ、喉が乾いただけだから。
ちょっと飲み物買ってくるわと教室を出る俺の背中に向かって俺のも頼むわと言う彼の声が聞こえた。
“ここではないどこか”
一限なんか、入れるもんじゃない。
通勤ラッシュのピークタイムの電車の中で、俺はなんとか窓際を死守してため息をついた。
大学に入学してから早三日。今日が初めての一限がある日だが、すでにもう一限は全て捨ててしまおうかという気分になっている。ため息でじゃっかん曇ってしまった窓から外を眺めていると、隣のホームに電車が到着した。
鈍い銀色の車体に水色のラインが入ったその電車とは暫く並走するはずだ。思いの外近くをその電車が通るものだから、お互いの発車のタイミングによっては向かいに立ってる人とずっと目が合ってしまうんだろうかなんて考えているうちに向かいの電車はゆっくりと止まった。
向かいの電車が止まったと同時に今度はこちらの発車アナウンスが流れたので、向かいの人と目が合い続けて気まずくなることは避けられそうだ。駆け込みで乗り込んでくる人に押されて更に窓に張り付きながらもそこだけは少しほっとした。
「発車いたします。お掴まりください」
無機質な音声と共に扉が閉まり、電車がゆっくりと加速していく。他に見るものもなくただ窓の外を見ていた俺の目に一人の女の子の姿が映って、思わず声をあげてしまった。すぐにその姿は見えなくなっていったがその一瞬に彼女も俺を見て目を見開く様子が見えた。
見開いた気の強そうな猫目と、それを縁取る長いまつげと彼女の動揺を現すかのように揺れた横髪が、反射した太陽の光でやけにキラキラしている様な気がした。
あの目を、あのまつげをあの髪を、俺は知っていた。
18年の人生の中で彼女に会った覚えはない。他人に興味はないが、あんなに綺麗な顔を忘れられるわけがない。あの目と目が会った瞬間に18年間の人生とは別の記憶が蘇ってきたみたいだった。
ここではないどこか違う世界で、きっと俺と彼女は出会っているはずだ。
ゆっくりと減速していく車内で俺は拳を握りしめた。たしか、彼女が乗っている電車もこの駅に停まるはずだ。
大学の友人へ一限は休むとだけメッセージを送りながら人の波に乗って開いたドアから駅に降りた。きっと彼女もこの駅に降りたはずだ、という不思議な確信があった。
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転生した話
段落をつけてみました
“君と最後に会った日”
その日のことを僕は全然覚えていない。
覚えているのは、いつもだったら握り返してくれたはずの白くて細い、タコだらけの指が力なくすり抜けていったことと、指と同じ白くて細い背中が気だるそうに見慣れた制服を纏っていく様子と、それからいつだって僕の背中を押してくれた凛とした声が告げたさよならの言葉だけ。
それから僕はどうやって一日を過ごしたのか全然覚えてない。気づいたら一日経って、二日経って半年経って、そろそろ一年が経つ。
今日も僕の一日はけたたましい目覚ましの音から始まる。
どれだけ朝が弱くても、前みたいに起こしてくれる人はいないから。とびっきり煩い目覚まし時計を作ってもらった。
目覚まし時計を止めて、夜中(よるじゅう)つけっぱなしの電気を消して狭いシングルベッドから抜け出す。
真っ暗闇は、まだ苦手だ。
前も後ろもわからなくなって狼狽する俺を優しく宥めてくれた白い指先はもういない。だから電気を付けていないともう眠れないのだ。
顔を洗って、栄養補助食品とコーヒーのペットボトルを持ってきてパソコンを起動させる。
人付き合いが得意じゃない僕は昔から数少ない友人のツテで、在宅でできるプログラミングなんかをして生計を立てている。最近は友人を介さないところからも依頼が来るようになったので、毎朝のメールチェックは欠かせないのだ。
幸い今日は仕事関係の新着はなかった様でホッと胸を撫で下ろす。メールとはいえ他人とのやりとりは疲れる。
嫌なことを言われても、理不尽な依頼をされても、隣でバカバカしいと一蹴してくれる彼女がいないとメールを開くことすら億劫になる。
さて、新しい仕事がないとなると何をしようか。返事待ちをしていたものを勝手に進めてしまうか。コーヒーを片手に適当にメールボックスを弄っていると、プライベートのアカウントにメールが届いた。
送り主は、今はあんまり関わりたくない親友だった。
体調崩してないか、大丈夫か?とまるで母親の様なメッセージと共に、大事な話があるから近々家に行っても良いかという一文が目に入って眼の前が真っ暗になるみたいだった。
大事な話なんて、この歳になればイレギュラーさえなければ一つしかないじゃないか。
彼に最後に会った日がフラッシュバックする。
心配そうに僕を覗き込む彼はいつもどおりの彼で、片手に僕がお願いしていた目覚まし時計を持っていた。
朝日が登ってから何時間も経っているのに家中の電気を付けたままソファで丸まっている見るからに寝不足の僕はとてもじゃないが、正気には見えなかっただろう。
酷く心配をして身の回りのことを色々と手伝ってくれようとした彼を何とか丸め込み玄関の外まで連れて行くと、そこには見慣れた車が停まっていた。
彼の背中を押すように出てきたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
見慣れた車から、見慣れた細い身体が出てきて聞き慣れた声で僕じゃない男の、目の前の男の名前を呼んだ。
名前を呼ばれた目の前の男は当然の様に親しげに彼女の名前を呼んで手を振っていた。
本当はわかっていた。
さっきまでとは打って変わってあっさりと帰ろうとする幼馴染と、僕の方をチラッとみて久しぶり、体調気をつけなよと呆れたような口調で言う彼女が想いあっていたことを。
それでももしかしたら、なんて思っていた自分の浅ましさを嫌というほど思い知らされた。
じゃあね、と何とか言葉を絞り出して見送った彼女の背中が、あの日の背中を上塗りしていく。
次に家に来る時には、きっとあのタコだらけの細い指に彼とお揃いの指輪をしてくるんだろう。
あの凛とした、僕の背中を押してくれる声で僕を崖から突き落とすのだろう。
会いたくない。そう思う気持ちとは裏腹に指はカタカタと文字を打ち込んでいく。わかった、部屋を片付けなきゃいけないから早めに教えてね。
エンターキーを押す音がやけに明るく部屋に響いた。
“日常”
残業でクタクタになった体を引きずってやっと辿り着いた我が家は、玄関にだけポツンと明かりが付いているだけでシーンとしていた。
玄関に転がる子ども用のサンダルを踏みつけてしまわないよう最後の気力を振り絞って足元に注意を向ける。この子ども用のサンダルを踏みつけると大変なことになるのを、つい先日身をもって体験したのでなんとか今日は大惨事にならずにすんだことにホッと胸を撫で下ろす。
廊下を進むとだんだんと夕飯の良い匂いがしてきて、足がどんどん軽くなる様な気がした。
手探りでスイッチを押しリビングの明かりをつけると、四人がけのテーブルのうえに一人ぶんのカトラリーとメッセージカードが置いてあった。
『お疲れ様。キッチンにご飯あるから温めて食べてね』
生真面目な彼女らしい角ばった綺麗な文字と、それを囲うように書かれたクレヨンの落書きが疲れ切った体に沁み渡る。
上着をイスにかけて、ネクタイを少し緩めて用意されていた夕飯を温める。
トマトがたっぷり、ゴロゴロ入ったハヤシライスは彼女の得意料理で俺の大好物だ。
一週間頑張ったご褒美というところだろうか。
無性に彼女の姿が見たくなって、火が弱火になっていることを確認し寝室に向かうとベッドの上で川の字になってスヤスヤ眠る三人の姿があった。
お揃いの幸せそうな寝顔に、自然と頬が緩む。
俺もお揃いの顔をしているんだろうか。
なんて幸せな日常だろう、と自分の幸せを噛み締めたところで突然景色が入れ替わった。
「……っ夢!?」
ガバッと身体を起こすと、そこは見慣れた自室のベッドの上だった。俺は結婚どころかまだ高校も卒業してなくて、子どもなんかいるわけもなくマイホームを買う資金だってないただのガキだった。
何より、あの結婚相手は…………。
痛いくらいに早鐘をうつ心臓を落ち着かせようと深呼吸をしながら、ベッド脇に飾ってある写真立てを眺める。
その写真立てには、俺と夢にみた結婚相手によく似た男がお互いに拳を振り上げながら睨み合っている写真が入っていた。
「……いや、アイツとはないだろ」
仮にアイツが女だとして絶対にあり得ない。
絶対に絶対にあり得ない。
やけに鮮明な夢の中の日常が頭をかすめて俺は慌ててかぶりを振った。瞬きする度にアイツの……いやアイツによく似た夢の中の彼女の幸せそうな寝顔がちらついて、どんどん動悸が激しくなっていく様だった。
……あり得ない、よな。