“あじさい”
あじさいだぁとはしゃいだ声がして、ふと我に返る。
派手な色のレインコートを着た子供が、派手な色の傘を振り回していた。その横には子供の背丈ほどのあじさいが色とりどりに咲いている。
子供の親らしい女性が、ほら濡れちゃうでしょう!と言葉強めに子供の手を引いていく。
地球は急に雨が降り出すから困る。
頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れになりながらも急ぐ気にはなれず俺はぼんやりと歩き続けた。
地球から遥か離れた宇宙にも人類が移り始めてどれくらい経ったのだろうか。少なくとも俺の生きている親戚に地球育ちはいなかった。それくらいは昔の話だ。
俺の生まれ育った惑星は空から太陽から大地まで全てが人工で生み出されており、その全ての天気は完全にコントロールされていた。
あじさいの色でさえ、人間のコントロール下だ。
宇宙に住んでいた頃のことを思い出す。
俺が生まれ育った惑星にも、地球から持ち出したあじさいがあった。色は地球ほどカラフルじゃない。土も人工的に盛られたものだから、酸性とアルカリ性の濃度が均一に保たれすぎてあじさいの色もほとんど同じだった。
雨の帰り道、成り行きで相合い傘をするはめになった隣のクラスの女の子が興味津々にあじさいを眺める横顔が、あまりにも綺麗で全身が心臓になったみたいにドキドキしながら俺はあじさいを見る彼女を見ていた。
彼女が何と言ったのかは覚えていないが、何かを聞かれた俺はドキドキしている自分をどうにか隠そうと、聞かれてもいないことまでベラベラ蘊蓄を語り倒してしまったことだけは覚えている。
ああ、喋りすぎた。気持ち悪いと思われただろうなあと落ち込む俺の横で彼女は小首を傾げて相変わらずあじさいを見つめていた。
「そっか。チキュウのあじさいはもっとカラフルなんだ」
「……うん」
「いいなあ。見てみたいなあ」
「……うん」
「ね、じゃあ一緒に見に行こうね!」
「……えっ!?」
ねえ、約束!と差し出された小さな小指に空いている方の小指を絡ませた。
あの約束は、果たせないままだ。
カラフルなはずのあじさいも、俺一人だけじゃくすんで見える。
“好き嫌い”
アイツのことは嫌いだ。大嫌いだ。
顔を合わせれば小言の応酬、口喧嘩にあっちが勝てば憎たらしい笑みを浮かべて腹が立つしこちらが勝てば次は手が出てくるような子供みたいなやつだ。
見た目は触れたらヒビが入りそうだと思うくらいに繊細で薄っぺらなのに、驚くほどガサツでぶっきらぼうで短気で。とにかく俺が苦手な人間像を外見から内面まで全て詰め合わせた様な男だ。
なんでそんなやつと部屋が隣なんだと頭を抱えたこともあったが、アイツは俺の顔さえ見えなければ部屋で癇癪を起こすこともなく案外上手くいっていた。
怒りっぽいわりに怒りが長続きしないヤツなのだろう。
いつまでもネチネチウジウジと一人反省会を繰り返しては自己嫌悪に陥る俺からすると、その一点だけは心の底から羨ましい。
でも嫌いなものは嫌いだ。
そんな嫌いなやつの部屋の真ん中で俺はどうしたら良いかわからずに突っ立っている。
……なぜ。
「何突っ立ってるんだ?座れよ」
「……あ、ああ……?」
立ち尽くしている俺を不思議そうに見上げてくる隣人の手にはなぜか鍋。ホカホカと湯気がたっていて、食欲をそそるいい匂いがする。
……なぜ鍋?
ちゃんと用意されていた鍋敷きの上に、ガサツらしく中の汁が跳ねるほどの勢いで鍋を置いたアイツがキッチンに戻っていく。
何か手伝うべきか?と思ったが、さきほど早く座れと怒られたばかりだしなあと座りなおす。
彼の部屋は思いの外シンプルに纏まっていた。
明度の低い寒色系で揃えられた家具や小物たち、壁一面どころか窓際まで歩けなくなるほど積み上がった書籍と紙の束。シンプルだけど、やっぱりガサツだ。
彼はいったい何の仕事をしているんだろうか。ぱっと見る限り俺の専門分野とはかすりもしない様でさっぱりわからない。
大学の教授とかだろうか。
キッチンからは彼の楽しそうな鼻唄が聞こえてくる。
こんなにご機嫌な彼の姿は初めてだ。
大嫌いなヤツなのに。大嫌いで仕方がないはずなのに。
やっぱり彼の鼻唄だけは好きだなあ。
鼻唄が止んで、湯気越しに彼が顔を出した。
目が合うとちょっとだけ眉間にシワが寄るものの、やっぱり機嫌が良いようで、酒とグラスを二つ手に持って俺の向かいの席に座った。
「酒、飲めるよな?」
「……あぁ。ありがとう」
いただきます。と二人手を合わせて鍋をつつく。
顔を合わせれば喧嘩ばかりの嫌いなやつだけど、やつの歌と一緒に食べる鍋は悪くない。と思う。
“街”
着の身着のままたどり着いた見知らぬ街は、いつの間にか慣れ親しんだ故郷になっていた。
生まれ育った街を逃げるように飛び出してきた俺たちはまともに身分を証明することもできず大した金もなく、明らかに異様な"訳あり者"だっただろうに。この街の人たちは何も気づかないふりをして訳ありの余所者二人を受け入れてくれた。
あの頃は何もかもに必死で、気づけなかったけれど色々な場所に街の人たちの優しさが散りばめられている。
今さっき通り過ぎた小さなホテルは、この街にたどり着いてすぐに泊まったホテルだ。今思えば、終電の時間に駆け込んできた荷物の一つも持っていないなんて見るからに怪しげな俺たちにも何も言わずに部屋を用意してくれた。久々の柔らかいベッドに寝過ごしかけた俺たちの部屋にわざわざサービスにない軽食を持ってきてくれたうえ、行く宛がないならしばらく居ても良いと笑って言ってくれた時は安堵やら嬉しさやらで涙が出た。
そこからまずは金を稼がなければと奮い立った俺たちに声をかけてくれたのが、あの角にあるケーキ屋さんのご主人だった。人手が足りなくて猫の手も借りたいんだと笑う彼に肩を抱かれて彼女と向かった店先でまずは味を覚えて欲しいと食べさせてもらったケーキの味を、俺は一生忘れないと思う。
せっかちで細かな作業に手こずる彼女と、それから客とのコミュニケーションが取れない俺を眺めてゲラゲラ笑いながら励ましてくれた。
結局彼女の方はなんとかレジ係になれたが、俺はまともに使えなくて経理だとか事務の仕事をすることになった。
ケーキ屋さんの向かいにある不動産屋さんは、俺たちにアパートの一室を貸してくれた。保証人も緊急連絡先もないまともな職歴もない俺たちに本当に格安で家具付きの部屋を用意してくれた。保証人には私がなりますから安心してくださいと仏頂面で言われた時は少し怖かったが今となってはそれが寡黙な彼の精一杯の優しさだったのだと、同じ口下手として親近感を覚える。
不動産屋さんの先を右に曲がったところにあるスーパーで働くおばさんたちには特に可愛がれて、例えば自炊の仕方だとか節約の仕方だとかを教わり、娘息子のお下がりだといって服なんかも譲ってくれた。
せっかく可愛いんだからもっと可愛くしなきゃだめよ!と彼女の身だしなみにも気を使ってくれて俺と彼女にとっては母親の様な存在だ。
その、ずっと先にある大きな病院には体調を崩した彼女を何度か診てもらった。つい一年前にもお世話になった。
俺はあれから就活をして、今は半リモートで街の外にある会社でソフトエンジニアの職についていた。半リモートとはいえ暫く泊まり込みをするようなこともあって、今日はその泊まり込みからの二日ぶりの帰宅途中だ。
駅についたとたんに、帰ってきたと思える幸せをしみじみと噛み締めながら家への道を急いだ。
早く彼女に会いたくて仕方ない。
ケーキ屋さんで、買ってきたケーキが崩れない様にスーパーの前でおばさんたちにもらってきた色々な彼女へのプレゼントが落ちないように、気にしながらも自然と小走りになっていく。
アパートへの最後の角を曲がると、すぐに『おとおさん!』と舌っ足らずな声がした。
「おかあさん!おとおさんきたあ!」
「お父さんお荷物いっぱい持ってるみたいだから、少し手伝ってあげて」
アパートの前にある公園で遊びながら待っていてくれたらしい愛娘が駆け寄ってくる。その少し後ろで小さな生まれたばかりの赤ちゃんを抱えた彼女に本当によく似ている。
勢いよく飛びついてきた我が子を、なんとか荷物を犠牲にすることなく受け止めてからケーキを手渡す。
「ケーキが入ってるから大事に持ってね」
「ケーキ!はやくたべたい!」
ケーキケーキとはしゃぐ姿に、中のケーキが心配になる。
彼女も多分同じことを思ったのだろう、少し眉をハの字に下げている。腕の中の赤ちゃんも、すでにやっぱり彼女に似ている気がする。
「……おかえり」
「ただいま」
彼女の丸い頬にただいまのキスを送る。
少し前なら恥ずかしがってビンタをお見舞いされていただろうが、最近は人がいなければこうして受け入れてくれるようになった。そういう些細な変化を感じられることが、今はすごく幸せで、この街にたどり着けた幸運をしみじみと噛み締めた。
“やりたいこと”
前期の期末テストが終わった。
去年までであればテストが終わった開放感とこれから始まる長期休暇への期待感で盛り上がっていただろうが、高校三年生の夏休みとなるとそうもいかなくなる。
進学校といわれるこの学校では、ほとんどの生徒が大学進学のための受験勉強にこの長い休暇を費やすことになるのだ。
クラスメイトのほとんどが受験勉強漬けの毎日への覚悟を決めた様な顔つきをしている。
対して一足先に指定校推薦がほとんど決まってしまっている私にとっては、どちらかというと今終わった期末テストの方が重要だった。それが問題なく終わったことで、今までにないくらいの開放感をひっそりと味わっていた。
最後の夏休み、何をして過ごそうか。
せっかくだから博物館に通うのもいいな、一人暮らしになるだろうから部屋を片付け始めた方が良いんだろうか。
のんびりと荷物を纏めていると、聞き慣れた声に名前を呼ばれる。声の方を向けば、思った通りの長身が思った通りのヘラヘラした笑みを浮かべながらこちらに手を振っているのが見えた。
「おつかれ、テストどうだったよ」
「……悪くはなかったと思う。そっちは?」
「あー……、まあそこそこかな」
周囲の男子生徒よりも頭一つでかい男は、女子の中でもそれなりに背が高いはずの私でも近づくと見上げなければならなくて首がしんどい。それでもできる限り近くにいたいと思ってしまっていることを、どうか彼にはバレていませんようにと願ってしまう。
「そこそこって、それで大丈夫なわけ?」
相変わらずヘラヘラと笑っている彼は、誰もが名前を知ってるような難関大学の医学関係の学部を狙っていたはずだ。
思わず詰め寄るものの、彼はそれを予想していたかの様に軽くいなして私のカバンを自分の肩にかけた。
いつもいつもそうやってスマートな身のこなしで私を勘違いさせる酷い男だ。
「まあ大丈夫っしょ。この間A判定だったし」
それよりさ、と彼がぐっと顔を寄せてきて心臓が跳ねる。
その距離感は、いけない。勘違いして跳ね上がる心拍数を先程のテストで解けなかった問題を思い出して鎮めていると彼は顔を寄せたまま、海行かね?とウインクをしてきた。
やけにサマになっている顔にむかついて、思い切り頭突きをおみまいしてやった。
「いっっってー!!!」
「自業自得だ!バカッ!」
周りの生徒がチラチラとこちらを見てくるが構っている様な心の余裕はなかった。やつが仰け反って額を押さえているうちに平常心を取り戻さなければいけない。バレないように何度も何度も深呼吸をする。
「受験を控えているのに、のんきに海に行ってる暇ないでしょ!」
「お前はどうせ指定校で受かるだろ」
「あんたの話だって!」
「俺はもうA判定だし、ちょっとやりたいことがあんだよ」
額を押さえていた指の隙間からこちらを覗く目にやけに真剣な色が浮かんでいて、それすらキュンと心を動かしてしまうのだからずるい男だ。どうせ海に行って海の男みたいに肌を焼きたいだとか可愛いお姉さんに声をかけたいだとかそんなところだろうに、悔しい。私ばっかり好きで悔しい。
「やりたいことって何」
「それはまだナイショ」
「……なっ」
手にした靴を強めに投げ落とすと、片方の靴が裏返ってしまった。直そうとしゃがみ込む前に、さっと彼が手を伸ばしてきて直してしまう。そういうところだ。
「受験終わったらもう俺らバラバラになるじゃん?その前にさ、海付き合ってよ」
俺らバラバラじゃん、という彼の言葉が重たくのしかかる。
高校を卒業したら、いやそれどころかきっと彼の受験勉強がもっと本格的に始まったら、もう今までみたいには会えないんだ。
気がつけば私は小さく頷いていた。
“朝日の温もり”
眩しくなって目が覚めた。
やっと地獄にでも着いたかと身体を起こすと、そこは見覚えのない小さなボロい一室だった。開けっ放しのカーテンに、燦々と室内まで入り込む太陽の光。
地獄の癖に随分と穏やかな風景だな。
地獄というよりは天国と言われた方がまだそれっぽいけれど、天国にしても庶民的すぎる。
ここが煉獄だとでもいうのだろうか。ここで自分が今までに手をかけてきた人たちへの贖罪をしろとでも言うのだろうか。
そこまでぼんやりと考えたところで人の寝息が聞こえてきて急に思考がクリアになった。視線を下げれば、そこには思い描いていた通りの人物が眠る姿があった。
ここは天国でも地獄でも煉獄でもない。
俺たちの生まれ育った土地からずっとずっと離れた、名前も知らない寂びれた街のホテルの一室だ。
昨日、俺と彼女は死んだ。
戦争中は英雄だった俺たちは、平和な世界では生きていけないだろうと、それならばいっそ二人きりで死んでしまおうと思い立ち、コンビニで適当に買った最後の晩餐と、お互いを殺すための銃を一つずつ握りしめ三日月の僅かな光を頼りに、二人のお気に入りの場所へ向かった。
そこは海が一望できる崖の上だった。
まだ時間はあるからと、座って話をしているうちに段々とお互いの口数が減っていく。
死ぬのが怖いわけじゃない。ただもう彼女に会えなくなることが死ぬほどつらい。そう思ってその身体を抱き寄せようとした時、彼女が銃の形にした手を俺の額に当ててドン!と囁いた。
何なんだ?と訳がわからないまま彼女の目を見ると彼女はいつの間にか泣いていて、顎を伝って落ちていく涙がやけにキラキラと輝いているように見えた。
「……どこか、誰も私達を知らないところへ行こう。私とお前は今ここで死んだ。そういうことにしてさ、どこか遠くへ行こう」
俺の額に当てていた手を、今度は自分のこめかみに当てた彼女が、片方の口角をキュッとあげて言った。
目からはずっと涙が流れたままなのに、彼女は勝ち誇った様に笑っていて、俺の大好きな彼女の笑顔に涙腺が弛む。
俺も多分彼女とおんなじくらいに泣きながら、彼女を抱きしめた。
俺たちは今日、ここで死んだのだ。
それっぽい跡を遺して、俺たちは人目を盗むように生まれ育ったこの土地から逃げ出した。そのままずっと赴くままに移動し続けて、ようやくこのホテルにたどり着いたのだった。
時刻は午前8時。疲れ果てて寝落ちしたわりに早く目が覚めてしまったみたいだった。
起こそうかどうしようかと少し悩みながら髪を梳いていると眉間にギュッと力が入ってから彼女の目がゆっくりと開く。
俺を見るなり彼女が笑って抱きついてくるものだからバランスを崩し、慌てて彼女を押し潰さないようにとベッドに横たわると彼女が耳元に口を寄せてきた。
「……好き」
「えっ!?」
寝起きだからか掠れてはいたが、聞き間違うはずがない。
思わず顔を覗き込んだら思いの外その顔が真っ赤になっていて、つられて俺も熱くなってしまった。
朝日の温もりと、腕の中の彼女の熱と自分の熱とで身体も心も温まっていく。
「俺も好きだよ」
「……知ってる」
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世界の終わりに君との続き
推敲誤字脱字チェックなどはそのうち……