“街”
着の身着のままたどり着いた見知らぬ街は、いつの間にか慣れ親しんだ故郷になっていた。
生まれ育った街を逃げるように飛び出してきた俺たちはまともに身分を証明することもできず大した金もなく、明らかに異様な"訳あり者"だっただろうに。この街の人たちは何も気づかないふりをして訳ありの余所者二人を受け入れてくれた。
あの頃は何もかもに必死で、気づけなかったけれど色々な場所に街の人たちの優しさが散りばめられている。
今さっき通り過ぎた小さなホテルは、この街にたどり着いてすぐに泊まったホテルだ。今思えば、終電の時間に駆け込んできた荷物の一つも持っていないなんて見るからに怪しげな俺たちにも何も言わずに部屋を用意してくれた。久々の柔らかいベッドに寝過ごしかけた俺たちの部屋にわざわざサービスにない軽食を持ってきてくれたうえ、行く宛がないならしばらく居ても良いと笑って言ってくれた時は安堵やら嬉しさやらで涙が出た。
そこからまずは金を稼がなければと奮い立った俺たちに声をかけてくれたのが、あの角にあるケーキ屋さんのご主人だった。人手が足りなくて猫の手も借りたいんだと笑う彼に肩を抱かれて彼女と向かった店先でまずは味を覚えて欲しいと食べさせてもらったケーキの味を、俺は一生忘れないと思う。
せっかちで細かな作業に手こずる彼女と、それから客とのコミュニケーションが取れない俺を眺めてゲラゲラ笑いながら励ましてくれた。
結局彼女の方はなんとかレジ係になれたが、俺はまともに使えなくて経理だとか事務の仕事をすることになった。
ケーキ屋さんの向かいにある不動産屋さんは、俺たちにアパートの一室を貸してくれた。保証人も緊急連絡先もないまともな職歴もない俺たちに本当に格安で家具付きの部屋を用意してくれた。保証人には私がなりますから安心してくださいと仏頂面で言われた時は少し怖かったが今となってはそれが寡黙な彼の精一杯の優しさだったのだと、同じ口下手として親近感を覚える。
不動産屋さんの先を右に曲がったところにあるスーパーで働くおばさんたちには特に可愛がれて、例えば自炊の仕方だとか節約の仕方だとかを教わり、娘息子のお下がりだといって服なんかも譲ってくれた。
せっかく可愛いんだからもっと可愛くしなきゃだめよ!と彼女の身だしなみにも気を使ってくれて俺と彼女にとっては母親の様な存在だ。
その、ずっと先にある大きな病院には体調を崩した彼女を何度か診てもらった。つい一年前にもお世話になった。
俺はあれから就活をして、今は半リモートで街の外にある会社でソフトエンジニアの職についていた。半リモートとはいえ暫く泊まり込みをするようなこともあって、今日はその泊まり込みからの二日ぶりの帰宅途中だ。
駅についたとたんに、帰ってきたと思える幸せをしみじみと噛み締めながら家への道を急いだ。
早く彼女に会いたくて仕方ない。
ケーキ屋さんで、買ってきたケーキが崩れない様にスーパーの前でおばさんたちにもらってきた色々な彼女へのプレゼントが落ちないように、気にしながらも自然と小走りになっていく。
アパートへの最後の角を曲がると、すぐに『おとおさん!』と舌っ足らずな声がした。
「おかあさん!おとおさんきたあ!」
「お父さんお荷物いっぱい持ってるみたいだから、少し手伝ってあげて」
アパートの前にある公園で遊びながら待っていてくれたらしい愛娘が駆け寄ってくる。その少し後ろで小さな生まれたばかりの赤ちゃんを抱えた彼女に本当によく似ている。
勢いよく飛びついてきた我が子を、なんとか荷物を犠牲にすることなく受け止めてからケーキを手渡す。
「ケーキが入ってるから大事に持ってね」
「ケーキ!はやくたべたい!」
ケーキケーキとはしゃぐ姿に、中のケーキが心配になる。
彼女も多分同じことを思ったのだろう、少し眉をハの字に下げている。腕の中の赤ちゃんも、すでにやっぱり彼女に似ている気がする。
「……おかえり」
「ただいま」
彼女の丸い頬にただいまのキスを送る。
少し前なら恥ずかしがってビンタをお見舞いされていただろうが、最近は人がいなければこうして受け入れてくれるようになった。そういう些細な変化を感じられることが、今はすごく幸せで、この街にたどり着けた幸運をしみじみと噛み締めた。
6/11/2024, 4:35:56 PM