“真夜中”
友人に頼まれていたラジオの修理をするのに夢中になっていた俺は、ふと何かが聴こえてきたような気がして頭をあげた。
スマートフォンの画面をみれば時刻は深夜2時をまわっていた。こんな時間になんだよと少し隣人の騒音トラブルなんかを思い浮かべてげんなりしたが、よくよく耳を澄ませばそんなに不快な音ではない。
喋り声というよりは歌声だ。
ベランダの窓に耳をつけるとやはり隣の部屋のやつがベランダに出て鼻歌を歌っているようだった。
音楽には詳しくない俺にはその歌がなんなのかはわからないし、鼻歌の主とはどうにも馬が合わず顔を合わせば小言の応酬、酷い時にはお互い手や足が出るというくらいの犬猿の仲だというのにどうしてか俺はずっとその鼻歌を聞くために窓に耳を押し付けたまま動けなくなっていた。
繊細そうな見た目からは想像もつかないがなり声でとんでもない罵詈雑言をまき散らす彼からは、想像もつかない、いや寧ろ180度回ってその繊細そうな見た目通りの透き通る様な音色で、ゆったりとした歌を奏でていた。
悔しいことに完全に聴き惚れてしまった。
ベランダの間の仕切りのせいで彼がどんな姿でどんな表情でいたのかはわからないけれど、それで良かった。
きっと俺に聴かれているとわかったら彼はすぐに元の罵詈雑言発信マシーンになっていただろうから。
歌声を聴いているうちにだんだんと眠気が襲ってきて、名残惜しいがベッドへ潜り込む。
なんだかすごく、よく眠れる気がした。
“愛があれば何でもできる?”
愛するが故になんでもしてしまった人の背中をずっと真後ろで見てきた。
そして俺にはその人の血が流れている。
俺は誰も愛さないし、愛してはいけないと記憶の中の父親の歪んだ横顔を思い出しては強く戒めてきたというのに。
気づけば俺の隣には彼女がいた。
こんな俺の何が良いのか、世話焼きな彼女を疎ましく思っていたはずなのにうっかり彼女を愛してしまった。
愛してしまえば、次は彼女を失うことが怖くなってきっと俺は彼女がいなくなったら父親のようになんでもしてしまうだろう。
彼女がいなくなった世界で世界を呪い周りを傷つける自分の姿を夢にみて、全身冷や汗をかきながら飛び起きる夜は少なくない。
どうか俺を置いていなくならないで。と隣で眠る彼女を腕に閉じ込めると、眠っていたはずの彼女はゆるりと瞼を持ち上げて俺の頭をぶっきらぼうに撫で回した。
情けない顔するな、私がいなくなるときはちゃんとお前も連れて行くから。
寝ぼけて舌っ足らずだけどしっかりと俺の目をみて告げた彼女は、またうつらうつらと夢の世界へ戻ってしまう。
愛があれば何でもできる。
でも愛しているから、何もできない。
“後悔”
家に帰ると、リビングにあるローテーブルに突っ伏して眠る同居人の姿があった。
傍らには色違いで買った彼女のお気に入りのマグカップと、仕事用に使っているラップトップが置いてあり仕事中につい眠くなってしまったのだろう。
締切の近い仕事はなかったはずだ。むしろ、つい先日締切ぎりぎりに仕事を終わらせていて今は余裕があると言っていた気がするから、無理に起こさなくてもいいだろう。
時刻は午後9時を回るところだ。
無人のキッチンには明かりがついており、後は温め直すだけの状態で食事が用意されている。
手早く着替えて、彼女が作ってくれたご飯を温めながらさていつ彼女を起こそうかと悩む。
ラップトップの画面がまだ生きているということは寝落ちてからそんなに時間が経ってないということで、もう少し寝かせてあげるべきなのか、それともしっかり寝てしまう前に起こすべきなのか。
なんて平和な悩みだろうか。
思わず口元が緩んでしまう。
数年前の自分に教えてあげたいものだ。
あの時のお前の行動は、間違っていなかったぞ、と。
後悔なんて少しもする必要なかったぞ、と。
彼女とは高校の時に付き合い始め、大学進学を期にどんどんと会う機会が減り気づけば自然消滅していた。
半年前に既読スルーした彼女からの次はいつ会える?というメッセージを眺めてはずっと後悔していた。
返事を一日考えて二日考えて、日が経つうちに返事がしづらくなった。
いつもは一日返事をしないだけで催促の電話をしてくる彼女がその時ばかりは電話どころかメッセージも送ってこなかったということは、まあそういうことなのだろう。
きっともう僕なんか忘れて僕よりずっと良い人と上手くやっているんだろう、なんて想像したらその日に限って何故か無性にモヤモヤした。
僕だって、つい昨日他の学部の女の子に連絡先を聞かれたんだぞ。と想像上の彼女に張り合っているうちになんだか気持ちが大きくなってついそのまま彼女に当てつけるようにメッセージを送っていた。
『昨日はありがとう。明日の午後とかどう?』
どうせ読んではもらえないだろう。ブロックされてるかもしれない。性格の悪い男と思われるかもしれない。
やっぱり消そうとした瞬間、既読がついて僕は人生で一番の後悔をした。
奈落に真っ逆さまに堕ちていく様な気持ちで冷や汗が吹き出た。
『明日の午後ね。そっちに行くから"昨日"とやらの話を聞かせてね』
絵文字もスタンプも、何もない一言に奈落の底のもっと奥までめり込んだ気分だった。
後悔してもしきれないとその時は本当に自の浅はかさを呪ったが、結局のところあの浅はかさな一つのメッセージからまた彼女と会うことができて、就職と同時に同棲にまでこぎ着けた。
あの瞬間ほど後悔することはもうないだろうと思う。
でも、あの瞬間ほど後からやっておいて良かったと思うこともないだろう。
電子レンジの音がして、ちょうど彼女が目を覚ました様だ。
「ただいま」
「……おかえり」
“風に身をまかせ”
生まれた時から決まっていたはずの将来を自らの手で破り捨て、親のすぐ後ろを追いかける様に敷かれたレールを壊してたどり着いた先は無限に広がる宇宙の果てだった。
私は、前も後ろもない途方もない無重力下で、身体を動かす気力もなくぼんやり揺蕩っている。
通信機を使えばもしかしたら誰かに助けを呼べるのかもしれないが、なんとなくもうここで誰にも知られないままに消えてしまいたい気分だった。
酸素ボンベの残りも少ない。
もちろん食料もない。
遠くの方で等間隔にならぶ光が見えた。
もしかしたらあれは生まれ育った星の光だろうか。
頑張れば、あの星までたどり着けるのだろうか。
でも。
頑張ってあの光の中に戻ったとして、私の居場所なんてどこにもない。頑張って頑張ってたどり着いた先がこんなに真っ暗な宇宙の果てだというのに、これ以上頑張ったとしてあんな光に満ちた幸せを掴めるわけがない。
はあとため息がでる。
良いなあなんて思わず口から溢れそうになった瞬間、弱音をかき消す様に暴風がふいた。
そして音のないはずの宇宙の果てに、彼の声が響いた。
私が聴きたくて聴きたくて仕方のなかった声。あの遠くに瞬く光の中にいるはずの人の声だった。
敷かれたレールの上でも胸を張って走る、ずっと憧れてきた人。臆病で意気地なしで、決められた将来に納得できず燻っていた私の背中をぶっきらぼうな言葉で押してくれた、不器用で優しい人。
涙が溢れてグズグズの視界に映る彼は、いつもみたいに不機嫌そうに眉間にシワを寄せて、いつもみたいにバカみたいな大声で私の名前を呼んだ。
暴風みたいに駆け寄ってきて、暴風みたいに私の心をかき乱してきて、自分は言いたいことだけいって澄ました顔をしている、嵐の様なという言葉がこれ程似合う人もいないだろう。
真っ暗で上も下もない宇宙の果てだったというのに、彼が手を握りしめてくれるだけで不思議と光に溢れ地面に足がつき自分の目指す幸せな未来の形が見えた。
暴風に身をまかせてみるのも悪くない。
そう思えた。
子供のままで
子供のままでいられたら、どれだけ良かったか。
卒業式の写真を捨てられず、かといって飾ることもできず、あの子が愛読していたからという理由で読みもしないのに買った分厚い本の間に挟んだままもう10年が経ってしまった。
本に挟まれたまま、引き出しのずっと奥にしまい込まれていたその写真はほとんど劣化することもなくあの頃の俺たちの一瞬を映し出している。
少しむすりとしているあの子のことがずっと好きだったのに。
俺はどうしてもあの子のご機嫌を損ねることばかりで、挨拶すらまともにできないままだった。
今思えば、竹を割ったような性格の彼女のことだから、目があえば少し喧嘩腰だったとしても言葉を交わしそして卒業の日には不機嫌な顔をしながらも同じ写真に映ってくれるということは心底俺を嫌っていたわけじゃないのだとわかるが、当時の俺はまだまだ子供だった。
ただただひっそりと彼女に恋をしていた子供だったものだから、俺を見るたびに機嫌を悪くする彼女を見てはひどく傷ついたものだ。
それでも嫌いになんてなれなくて、告白できる勇気もなくて、気づけば腐れ縁なんて言われて結婚式の友人代表スピーチに指名されてしまうくらいの気のおけない友人枠に収まってしまっていた。
鏡の前に映る俺は、あの写真に映る子供の俺よりずっと背が伸びた。少しだけ丈の足りない制服から身体にぴったりあう少しお高いスーツを着た大人の俺は写真と同じどうしようもなく困った顔をしている。
あの頃の俺は、自分がもっと大人なら彼女のご機嫌を損ねない様なスマートな振る舞いができるだろうと夢を見ていたものだが、どうせ告白できないのならいっそ子供まま隣にいれたらいいのにと思ってしまう。
ずっと子供のままずっとこの写真の中に入られたら、ずっとあの子の横顔を隣で眺めていられるのに。