“後悔”
家に帰ると、リビングにあるローテーブルに突っ伏して眠る同居人の姿があった。
傍らには色違いで買った彼女のお気に入りのマグカップと、仕事用に使っているラップトップが置いてあり仕事中につい眠くなってしまったのだろう。
締切の近い仕事はなかったはずだ。むしろ、つい先日締切ぎりぎりに仕事を終わらせていて今は余裕があると言っていた気がするから、無理に起こさなくてもいいだろう。
時刻は午後9時を回るところだ。
無人のキッチンには明かりがついており、後は温め直すだけの状態で食事が用意されている。
手早く着替えて、彼女が作ってくれたご飯を温めながらさていつ彼女を起こそうかと悩む。
ラップトップの画面がまだ生きているということは寝落ちてからそんなに時間が経ってないということで、もう少し寝かせてあげるべきなのか、それともしっかり寝てしまう前に起こすべきなのか。
なんて平和な悩みだろうか。
思わず口元が緩んでしまう。
数年前の自分に教えてあげたいものだ。
あの時のお前の行動は、間違っていなかったぞ、と。
後悔なんて少しもする必要なかったぞ、と。
彼女とは高校の時に付き合い始め、大学進学を期にどんどんと会う機会が減り気づけば自然消滅していた。
半年前に既読スルーした彼女からの次はいつ会える?というメッセージを眺めてはずっと後悔していた。
返事を一日考えて二日考えて、日が経つうちに返事がしづらくなった。
いつもは一日返事をしないだけで催促の電話をしてくる彼女がその時ばかりは電話どころかメッセージも送ってこなかったということは、まあそういうことなのだろう。
きっともう僕なんか忘れて僕よりずっと良い人と上手くやっているんだろう、なんて想像したらその日に限って何故か無性にモヤモヤした。
僕だって、つい昨日他の学部の女の子に連絡先を聞かれたんだぞ。と想像上の彼女に張り合っているうちになんだか気持ちが大きくなってついそのまま彼女に当てつけるようにメッセージを送っていた。
『昨日はありがとう。明日の午後とかどう?』
どうせ読んではもらえないだろう。ブロックされてるかもしれない。性格の悪い男と思われるかもしれない。
やっぱり消そうとした瞬間、既読がついて僕は人生で一番の後悔をした。
奈落に真っ逆さまに堕ちていく様な気持ちで冷や汗が吹き出た。
『明日の午後ね。そっちに行くから"昨日"とやらの話を聞かせてね』
絵文字もスタンプも、何もない一言に奈落の底のもっと奥までめり込んだ気分だった。
後悔してもしきれないとその時は本当に自の浅はかさを呪ったが、結局のところあの浅はかさな一つのメッセージからまた彼女と会うことができて、就職と同時に同棲にまでこぎ着けた。
あの瞬間ほど後悔することはもうないだろうと思う。
でも、あの瞬間ほど後からやっておいて良かったと思うこともないだろう。
電子レンジの音がして、ちょうど彼女が目を覚ました様だ。
「ただいま」
「……おかえり」
5/15/2024, 2:18:03 PM