昨年末に夢を見た。
どんな夢だったか思い出すとちょっと笑ってしまうが、 家の中で失くした家族のマイナンバーカードを両親と必死になって探す、というもので。
現実にもひょっとしたら起こるかもしれない辺り、身に迫る感じが何とも可笑しい夢だ。
けれども、とにかくその時は大真面目で。
心当たりのところから始まり、寝室に和室、客間を順々にごそごそと探して回ったものだ。
しかしながらカードは見付からず。
粗方探し尽くし、それじゃあ次はどこを探そうか、と皆で頭を捻ったときだ。
「あっちの方にあるんじゃないの~?」
いつの間にか家捜しに加わった祖母が前を横切って行った。
腕を背中に回して組んで腰を曲げ、杖も使わずにスタスタと。
初夏に大腿骨を折る骨折をして、「車椅子になるかもしれない」とまで言われたのが嘘のよう。
こんなに元気に歩けるようになって良か――。
「――おばあちゃん?」
はっとして呼び止めた。
客間を出て廊下へ、そして台所へ向かって歩いていく後ろ姿を追いかけ手を伸ばす。
あと少しで腕が掴める。
――そこで夢は唐突に終わったのだ。
祖母は昨年の夏に亡くなった。
通夜に葬式、四十九日とあれよあれよという間に時は過ぎ。
年も明けて今は三月だから、あれからもう半年以上も経ったのか。
ひい、ふう、みいと改めて月日を数え、時の流れの早さに驚かされる。
それだけの時が経っても尚、未だに気持ちの整理がつかないところがある。
亡くなる前一ヶ月の出来事を思い返すと、今でも心がざわつくからだ。
「しゃべり、たいこと、ある、のに。はな、せん」
最期の一ヶ月は会話もままならず、お見舞いへ出向いたとき、絞り出すようにしてたどたどしく紡がれた祖母の言葉が忘れられない。
骨折して入院した際に持病も悪化し、そのまま最期まで住み慣れた我が家へ帰ってくることはなかったのが悔やまれる。
祖母が亡くなった朝方も、夢を見た。
ふわふわと、夢か現か。
浅い眠りの中、風になびく草原の中に祖母が居り、病んでしまう前のふっくらとした顔つきで、にっこり微笑んで立っているだけ。
こちらから話しかける間もなく夢は静かに終わり、近くに聞こえる、慌ただしく発進する車のエンジン音で目が覚めた。
遠ざかる音と入れ替わりに母がやって来て、早く起きるよう私を急かした。
先んじて父が家を出たから、私も後を追うように、と。
それが、祖母、危篤の知らせだった。
まるで最期のお別れに会いに来てくれたかのようで。
そんな不思議な夢に、病院から帰ってきた後は零れた涙が止まらなかった。
年末の夢のときも、ひょっとして、あの時のように会いに来てくれたのだろうか。
そうだとしたら、夢とはいえ、久しぶりに一言でも声が聞けたのが嬉しい。
また会いに来てくれるだろうか。
次があるなら、今度は会話を繋ぎたい。
夢から醒める前に、少しでも長くお喋りをしようね。おばあちゃん。
(2024/03/20 title:013 夢が醒める前に)
――げげっ。
業務中、足元をささっと横切ったものに手が止まった。
天井から降りてきたのだろう。小振りな蜘蛛が床を素早く移動して行く。慌ただしく皆が行き交う隙間を縫って、踏まれもせずに何と器用な奴か。
「わ!」
「ぎゃっ蜘蛛!」
遅れて他のスタッフも小さな侵入者に気付き、立ち止まっては自然と蜘蛛のための道が開いていく。
しかしながら、事はそう上手く運ばない。
皆の期待を裏切って、蜘蛛は来た道を帰って来てしまったのだ。一向に部屋から出ていく気配がない。これは困ったぞ。
「ど、どうしよう。追い出さないと~」
「誰が? 俺、虫は無理だよ?」
「俺だってムリムリ! 店長パス!」
「はっ? え、え~」
「あ。蜘蛛って潰しちゃダメなんすよ。縁起が悪いとか聞いたことある」
「えっ。じゃあどうすんの?」
「塵取りで掬い上げてみる?」
「そんなんダッシュで外走らなきゃ俺に移って来ちゃうじゃん!」
ちょろちょろと床を行き来する蜘蛛を前に男性スタッフ三人が相談し始めるが、その会話は何とも頼りない。
――あ~もう。仕方がないな。
私だって虫は嫌いで苦手だけれど、このままでは埒が明かない。
代わりの勇者を名乗り出る者もいないようなので、私は観念して引き出しからガムテープを持ち出した。
ビーッとテープを大きく千切り、戦闘態勢に入る。
「はい、ちょっとごめんよ~」
未だに譲り合う怖がり三人を押し退けてしゃがみこむと、その麓で蜘蛛は相変わらずちょこまかと動き回っていた。
ごめんね。無闇な殺生はしたくないのだけれど、ここに迷い込んでしまったのが君の運の尽きだよ。
心の中で小さく謝る。
そうして奴の動きが止まった一瞬の隙を狙い、上から素早くガムテープを押し付けて逃げ道を塞いだ。
「あ!」
「えっ潰しちゃったの!」
上から私の動向を恐る恐る見守っていた男たちから非難の声が上がる。
おいおい。人にやらせておいてそれはないでしょ。
蜘蛛と彼らには悪いけれど、テープの上から念押しで指を往復させ、確実に仕留める。
剥がしたテープの余白で床に残った残骸も回収。ミッションコンプリートだ。
粘着面はなるべく見ないようにして丸めたテープをぽいとゴミ箱へ投げ入れれば、遠巻きにしていた女の子たちから小さな歓声が上がった。
「はい、おしまい。仕事に戻りましょ」
「……」
罰が悪そうに顔を見合わせて、三人はすごすごと持ち場へ戻って行った。
苦手なものは仕方がない。けれども、もう少しマシな対処をしてくれないか。
やれやれとため息を吐き、私も仕事を再開した。
因みに、この虫の撃退方法。
動きの遅い虫にはなかなか有効なので、宜しければ皆様もお試しください。
健闘を祈る!
(2024/03/16 title:012 怖がり)
朝起きて支度をして。
食事を済ませたらすぐ出勤。
夕方まで業務をこなして帰路に着き。
夜ご飯とお風呂を済ませて、余暇の時間を過ごした後に眠りに就く。
慌ただしくも、それでいて穏やかな日々の繰り返しだ。
その一方で、当たり前の日常を崩され、辛い思いをされている方たちがいる。
日本は能登地方。
海外ならばウクライナ然り、ガザ地区然り。
彼の地で起こっている出来事を忘れぬよう、毎日のニュースに目を通すよう心がけているが、日本では考えられない暴力の惨状に触れる度、心が痛む。
現地に赴き活動されている方たちの志の強さには頭が下がる思いだ。
自分の事で手一杯。度胸も余裕もない私には、せめて募金や義援金で援助するくらいしか出来ないが。
少しでも早く事態が終結し、人々が安心して暮らせる日々が訪れるのを祈っている。
(2024/03/11 title:011 平穏な日常)
すっかり帰りが遅くなってしまった。
人手が足りない上に店舗の仕事も増えるばかり。仕事終わりにどこのお店にも立ち寄れない日が続くのは、一日の終わりに癒しもなくてちょっと寂しい。
お総菜や休みの日に使う食材を物色するのが帰り道の楽しみなのだが、明日は早く帰れるだろうか。
最寄駅までの道すがら、空を見上げる。
今の季節だと、ちょうど正面にオリオン座などの分かりやすい星座も見えたりするはずだが、今日はさっぱり分からない。
ただ黒一色の空。曇っているのだろうか。
月すら見当たらないので、電車が来るまでの時間ポチポチと調べてみた。
どうやら新月も近いようで、夜空が暗いのはそのせいもあるようだ。
「つまらないな~」
電車を降りて、街を歩く。
深夜近く、お店も閉じて人通りもまばら。
月明かりもない中、ただ家へ帰る。
家族が待っているとはいえ、こんな遅い時間に帰るのはやっぱり寂しい。
明日こそ。明日こそは早く帰るぞ。
夕方からミーティングがあるのは承知しているが、それでも可能な限り早く帰りたい。
お総菜を買って、夜道の中 星空か、月の満ち欠けを楽しむくらいの余裕が欲しい。
漸く少しだけ顔を出した細い月に、淡い期待を込めて家の扉を開けた。
「ただいま」
「おかえり~。遅いわね~」
取り敢えず今はご飯かな。
そしてお休み。また明日。
(2024/03/07 title:010 月夜)
美術館の特別展。
満を持しての劇場版公開。
再燃した休日のお菓子作り。
休みの日に入れたい楽しいスケジュールが目白押しだ。
それなのに、どうして本社は空気を読まないのか。
資格更新のキャンペーンが何故今なのだ。
面倒臭いことこの上ない、が。
受講はフリーとは云え、肩書きもある分、ペーペーの頃のように無視できないのが憎らしい。
観念して、試験の資料を机に広げる。
決めた。今日の休日は一日自宅で過ごそう。
観たいドラマもあるけれど、取り敢えず娯楽は後回し。
気は乗らないが、先に試験勉強に打ち込むとしよう。
重い腰を上げ、久しぶりにノートパソコンの電源をオンにした。
『更新プログラムがあります。アップデートを開始しますか』
――おう。流石は私の相棒だ。
ご主人の嫌々を読み取って、折角のやる気をへし折ってくるとは天晴れだ。
もう遊んでしまえってことかしら。
溜め息を吐いて、自棄になった思考を引き戻す。
アップデートを先送りしたところで、きっと作業途中に同じ警告はまた出てくる。
勉強が乗ってきたところを邪魔されるより、今から更新してしまう方が得策か。
指先でカーソルを操り、イエスを選んでアップデートを始めさせた。
案の定、更新ペースはゆっくりで、しばらくパソコンは使えそうもない。
仕方がない。更新が終わるまで外に出るか。
そういえば、通院のタイミングも近付いていた。
来週にしようとも思っていたが、もう今日行ってしまおう。
ついでに買い物にも足を延ばして、美味しいものを勉強のお供に買って来よう。
その頃にはきっとアップデートも終わっている。と、信じたい。
ちらりとリビングを振り返る。
ちゃんと。ちゃんと帰ってくるから。嘘じゃないよ。
だから、午後には使えるようになっていますように。
私の念が通じてか、返事のようにパソコンが唸る。
優秀な相棒を拝んで、家を出た。
(2024/02/27 title:009 現実逃避)