妻 「言葉はいらない、ただ…そばにいるだけで全て伝わるよ…とでも言うつもり? 冗談じゃないわ!あなたに私の何が分かっているって言うのよ?!」
夫 「ああ、分かるさ お前の考えていることなんて全て分かるさ だいたいお前はすぐ顔に出るからな、態度にも出るから分かり易いよ」
妻 「私がいつ顔や態度に出したと? それが出来ていればこんなに溜め込むことは無かったわ…」
夫 「何のことだよ…」
妻 「言葉がなくても伝わり合うのは普段から十分なコミュニケーションがある関係でこそなの 私達がいつそんな関係を築いたと?」
夫 「何言ってんだ、30年以上も一緒にいるんだぞ、そんなもの無くても分かり合ってるだろ」
妻 「どんなに長く一緒にいるからって言葉を端折っていい訳じゃない
考えや思いはきちんと伝え合わなければ何も伝わらないのよ! 自分の気持ちだって時には迷走してわからなくなるのに、他人の気持ちなんて尚更よ それを言わなくても分かるだろう、なんて思い上がりもいいところだわ」
夫 「今までそんなこと、一度も言わなかったじゃないか! 今更何だ!文句があるならその時に言えば良かったじゃないか!」
妻 「あら、あなた、私の気持ちなんて何でも分かるのでしょう?気がつかなかったの?」
夫 「そ、それは…」
妻 「あなたに期待があれば、あなたとの関係をきちんと築きたいと思っていたら、文句のひとつも言ったでしょうね でも、あなたには何を言っても無理、と諦めていたから何も言わなかったのよ
でも、良かったわ やっとあなたに思って来たことをぶちまけることが出来るわ
これを言うときは最後の時って、ずっと決めていたのよ」
夫 「さ、最後って何だ?」
妻 「あなた、あの彼女と一緒になりたいの?」
夫 「な、何のことだ?!」
妻 「私が何も気が付いていないとでも思っていたの?!」
夫 「………」
「いつ、いつから知ってた…?」
妻 「初めからよ あなたがあの女と始まった2年前からよ」
夫 「に、2年前から…? お前、だって、まったく……」
妻 「私が顔や態度にすぐ出るから分かり易いですって?! 私の考えていることは何でも分かるですって?!
笑っちゃうわ! 私の顔なんてまともに見たことも無いくせに
そういう横柄な、驕ったところが嫌でたまらなかったのよ!」
「いつ言おうか、いつ言おうかとずっとこの時を待っていたの
いつ私達の関係を終わらせるかをね」
夫 「終わらせるって… 俺と別れるってことか? そんなこと簡単に出来るわけないだろ」
妻 「そうね、簡単じゃ無かったわ
弁護士さんに相談して、財産の分与やら色々と細かいこと、それは大変だったわよ でもじっくりと時間はあったし、考えてみたら、この2年が私は1番充実していたかも知れないわ」
夫 「お前、お前、お前ってやつは…」
妻 「そう、その顔! その驚きに満ちた呆然とした馬鹿面 その顔を見るのを楽しみに頑張ってきたのよ
今まで私を散々見下して、ろくに相手にもして来なかったことへの仕返しよ!
私のことを何でも分かるはずのあなたがこんな大きな隠し事にも気が付かないなんて、大笑いよ
あ〜、清々したわ」
夫 「お前という女は、恐ろしいヤツだ…」
妻 「今頃わかったの?!」
「言葉はいらない、ただ…」なんて、軽々しく言うものではありません
皆様お気をつけくださいませ
『言葉はいらない、ただ…』
ピンポーン!
インターホン越しに確認しながら応答すると、「荷物のお届けです」と言う
荷物はほぼ置き配を頼んであるので、どこからかの贈り物だろうか…
玄関先に置いておいてくれるよう頼むと、依頼主から直接手渡すように言われているとの返事だ
最近はほとんど配達員の顔も見ることもないからその人がいつもの人なのかさえ分からず、置き配に頼っている危うさを感じながら渋々玄関へ出た
手渡されたのは薄い封筒が一枚
確かに受け取った
差し出し人に心当たりは無かったが、応募したことさえ忘れていた景品でも当たったのかしら…と、少し心を躍らせながら封を開けた
中にはメッセージが書かれたカードが一枚と、その中に大切そうに鳥の羽が一枚同封されていた
その羽は澄みきった青空を思わせる様な鮮やかなブルー
メッセージにはこう記されている
「あなたにこの青い鳥の羽をお届けします この羽を携えてパソコンかスマートホンをご覧下さい あなたに幸運がありますように」
狐につままれたような、魔法にかけられたような奇妙な気持ちだったが、こちらからアクセスしなければ大きな被害に遭うこともないだろうと、とにかく開けるだけ…とスマホを開くとすぐに真っ白な画面が立ち上がった
よく見ると、画面の一番うえにタイトルのようなものが書かれている
ここに何かを書けと?
目の前では、私に書くことを促すようにあの青い羽が優雅にゆらりゆらりと揺れている
それが、この世界への入口だった
『突然の君の訪問。』
なかなか衝撃的な映像を見た
周りの景色が斜線に見えるような先日の豪雨の中、身動きひとつせずひっそりと佇む一匹のシマウマ
恐らく動物園での出来事を誰かが捉えたものなのだろうが、その映像のシュールさに私も身動きひとつせず見入ってしまった
あまりの豪雨の急襲に、驚きすぎてただ呆然と立ちすくんでいたのか、
あるいは、その雨に自分のルーツを本能的に思い出しサバンナに思いを馳せていたのか…
とにかくその姿の物語るものが多すぎて、私は笑いと涙が溢れ出てしまった
この夏の暑さや豪雨は、動物さえも詩人にしてしまう?!
『雨に佇む』
「心の天気模様を記しておくのはどうでしょう?」
と医師に提案された
日々の心の有り様を日記に記録しておけ、ということらしかった
自分の心の有り様を具さに記しておけるくらいなら、私はここへは来ていないだろうと心の中で呟きながら視線を一度も上げることなく頷いた
心からの笑いが出たら、微笑むことが出来たら◯をつけていこう…
まずはそこから始めた
来る日も来る日も日記は日付のみが淋しく記されたのみ
めくってもめくっても続くその空白が、更に私の心から笑みを奪っていく気配だけがそこにあった
日記帳が最後のページに辿り着いた時、日付を書き改めてその日記帳を再び使い続ける方法もあったけれど、それはそれで残しておくことに私には意味がある気がした
そこには何も書かなかった、何も書けなかったというその時の私の心模様を空白が物語ってくれている気がしたからだ
私がその時間を確かに生きていたという証でもある
日記帳が5冊目を迎える頃、初めての◯がひとつ付いた
翌日もまたひとつ付いた
その頃には自分の気持を言葉におきかえることの恐怖は薄れていたけれど、あえて言葉は書き沿えず、◯だけを残した
その頃から少しずつ、忘れていた心が感情を取り戻し始めた
◯の数は日毎に増えた
5冊のノート最後の日、ノートをパラパラ捲ると◯が嬉しそうに踊っていた
毎日書いていた◯が無意識に少しずつずれていたのだろう
私の心が描いたパラパラ漫画だった
そんな苦しい時間があったこと
まったく何も書かれていない4冊の日記帳
この存在が私の孤独の闘いを雄弁に語ってくれている気がする
『私の日記帳』
こういうことになることは初めから分かっていたはずだった…
その人は未知留の働く事務所の経営者であり、名前の知れた才能ある建築デザイナーであった
公の場だけでなく個人宅のオファーも請負うため、その順番を待つ客の数は何年分にも上っている
そんな彼が、家で待つ人のいる身であり、守るべき者を抱えている立場であることを知った時には、すでに未知留の心には彼が棲みついていた
彼の才能に憧れ、惚れ込み、彼の力に少しでもなるのならと、どんな小さな仕事でも誰もがやりたがらないような面倒な仕事でも、未知留は嬉々として精神誠意その仕事に向き合い彼に尽くした
そんな未知留の献身が功を奏したかは分からなかったが、彼は次々にコンペで優れた実績を積み重ねた
そんな彼とは対象的に、未知留自身は特に秀でた才能があった訳では無かったが、彼の成功がもはや自分の成功でもあるかのようにそれを喜び、ひたすら献身を重ねることに生き甲斐を感じた
そんな未知留の陰の力に彼が気付かない訳もなく、未知留のひたむきさと見返りを求めない純粋さに次第に彼も心を寄せていった
二人の絆が深まる中で彼はこんなことを良く口にするようになった
「今の僕の成功があるのは君の力が大きいんだ 君の細やかな気配りやサポートが無かったら、危うく足を掬われそうな事もどれだけあったことか もう君無しでは僕の仕事は成り立たないよ」
この言葉が欲しい為に尽くしてきたわけでは無かったけれど、これまでの日々が決して無駄ではなかったこと、未知留の献身が彼の成功の一端を担っていることにこの上ない喜びを感じた
と同時に、彼にとっても未知留の存在が最愛であるとの確信を心の真ん中に座らせた
彼の妻に対して嫉妬の感情を抱いたことは一度も無かった
実際、仕事人間の彼は仕事場に居る時間の方が圧倒的に長かったし、その間の彼の一挙手一投足を妻は知らない
そのことが未知留の優越感を何より強くした
そして「彼の成功は私のお陰」という思いはすべての不安ををなぎ倒した
仕事人間の彼だったが、家族の為の休日は死守していた
未知留もそんな彼をリスペクトした
彼の妻の座を奪いたいとか、彼が家族と過ごす休日を恨めしく思うことはなかったが、彼の心はすべて自分のものにしたいという激情は常に未知留の心を波立たせた
次の日曜日は未知留の誕生日だった
今までは平日のことばかりだったので、仕事帰りに食事を共にし特別な部屋で特別な時間を楽しむことが恒例になっていた
今年の誕生日は祝えない…と諦めていた
「次の日曜日は誕生日だよね 仕事ということにしてあるから、大丈夫だよ ちゃんとお祝いしよう」
と思ってもみない彼からの誘いに未知留は有頂天になった
自分の為に家族に嘘をついてまで時間を作ろうとする気持ちが嬉しかった
いつもより丁寧に化粧をし、一番美しく見せてくれるとお気に入りのワンピースのファスナーをあげようとした時、突然携帯が鳴った
「ごめん、子供が熱出した これから病院だ 悪いな」
と、一方的に話して切れた
きっと、電話がし辛い状況でわざわざかけてくれたのだろう
でも、まったく感情の入らない機械的な声とそのフレーズ
怪しまれ無いために、あえてだろう…
と自分に懸命に言い聞かせた
相手は家庭がある身
こんなことは当たり前じゃないか…
仕方ないことじゃないか…
でも…
でも…
言葉には言い表せないような感情と、今まで抑えつけていた嫉妬や羨みやドロドロと心の奥底に渦巻いていて潜んでいたものが一気に吹き出した
こんなやるせない気持ちになるなんて…
こんな気持ちにならないように、蓋をしていたはずなのに…
こんな気持ちと闘い続けるほど「彼の愛」には価値があるのか…
そもそも、彼は私を愛しているの?
彼の仕事に無くてはならないとは言われているけれど、彼の人生に無くてはならないとは言われてはいないのでは…?
「私がそれを一方的にはき違えていただけなの…?」
未知留は幾度となく愛を告げている
でも、彼の口からは「愛」という言葉を聞いたことは一度も無かったことをもう、認めざるを得ない
彼にとっては、未知留は成功に必要な人であるだけ…だということを
こんなやるせない気持ちの誕生日を恐らく一生忘れることはないだろう
着かけていたワンピースの艶やかさが恨めしかった
『やるせない気持ち』