こういうことになることは初めから分かっていたはずだった…
その人は未知留の働く事務所の経営者であり、名前の知れた才能ある建築デザイナーであった
公の場だけでなく個人宅のオファーも請負うため、その順番を待つ客の数は何年分にも上っている
そんな彼が、家で待つ人のいる身であり、守るべき者を抱えている立場であることを知った時には、すでに未知留の心には彼が棲みついていた
彼の才能に憧れ、惚れ込み、彼の力に少しでもなるのならと、どんな小さな仕事でも誰もがやりたがらないような面倒な仕事でも、未知留は嬉々として精神誠意その仕事に向き合い彼に尽くした
そんな未知留の献身が功を奏したかは分からなかったが、彼は次々にコンペで優れた実績を積み重ねた
そんな彼とは対象的に、未知留自身は特に秀でた才能があった訳では無かったが、彼の成功がもはや自分の成功でもあるかのようにそれを喜び、ひたすら献身を重ねることに生き甲斐を感じた
そんな未知留の陰の力に彼が気付かない訳もなく、未知留のひたむきさと見返りを求めない純粋さに次第に彼も心を寄せていった
二人の絆が深まる中で彼はこんなことを良く口にするようになった
「今の僕の成功があるのは君の力が大きいんだ 君の細やかな気配りやサポートが無かったら、危うく足を掬われそうな事もどれだけあったことか もう君無しでは僕の仕事は成り立たないよ」
この言葉が欲しい為に尽くしてきたわけでは無かったけれど、これまでの日々が決して無駄ではなかったこと、未知留の献身が彼の成功の一端を担っていることにこの上ない喜びを感じた
と同時に、彼にとっても未知留の存在が最愛であるとの確信を心の真ん中に座らせた
彼の妻に対して嫉妬の感情を抱いたことは一度も無かった
実際、仕事人間の彼は仕事場に居る時間の方が圧倒的に長かったし、その間の彼の一挙手一投足を妻は知らない
そのことが未知留の優越感を何より強くした
そして「彼の成功は私のお陰」という思いはすべての不安ををなぎ倒した
仕事人間の彼だったが、家族の為の休日は死守していた
未知留もそんな彼をリスペクトした
彼の妻の座を奪いたいとか、彼が家族と過ごす休日を恨めしく思うことはなかったが、彼の心はすべて自分のものにしたいという激情は常に未知留の心を波立たせた
次の日曜日は未知留の誕生日だった
今までは平日のことばかりだったので、仕事帰りに食事を共にし特別な部屋で特別な時間を楽しむことが恒例になっていた
今年の誕生日は祝えない…と諦めていた
「次の日曜日は誕生日だよね 仕事ということにしてあるから、大丈夫だよ ちゃんとお祝いしよう」
と思ってもみない彼からの誘いに未知留は有頂天になった
自分の為に家族に嘘をついてまで時間を作ろうとする気持ちが嬉しかった
いつもより丁寧に化粧をし、一番美しく見せてくれるとお気に入りのワンピースのファスナーをあげようとした時、突然携帯が鳴った
「ごめん、子供が熱出した これから病院だ 悪いな」
と、一方的に話して切れた
きっと、電話がし辛い状況でわざわざかけてくれたのだろう
でも、まったく感情の入らない機械的な声とそのフレーズ
怪しまれ無いために、あえてだろう…
と自分に懸命に言い聞かせた
相手は家庭がある身
こんなことは当たり前じゃないか…
仕方ないことじゃないか…
でも…
でも…
言葉には言い表せないような感情と、今まで抑えつけていた嫉妬や羨みやドロドロと心の奥底に渦巻いていて潜んでいたものが一気に吹き出した
こんなやるせない気持ちになるなんて…
こんな気持ちにならないように、蓋をしていたはずなのに…
こんな気持ちと闘い続けるほど「彼の愛」には価値があるのか…
そもそも、彼は私を愛しているの?
彼の仕事に無くてはならないとは言われているけれど、彼の人生に無くてはならないとは言われてはいないのでは…?
「私がそれを一方的にはき違えていただけなの…?」
未知留は幾度となく愛を告げている
でも、彼の口からは「愛」という言葉を聞いたことは一度も無かったことをもう、認めざるを得ない
彼にとっては、未知留は成功に必要な人であるだけ…だということを
こんなやるせない気持ちの誕生日を恐らく一生忘れることはないだろう
着かけていたワンピースの艶やかさが恨めしかった
『やるせない気持ち』
8/26/2024, 1:35:37 AM