その窓越しに見えるのは、大きな天秤だ
何故か片方向だけが下に下がったまま、その天秤はびくともしない
下がった天秤の大皿の中を覗いてみると、そこには若さや美貌や夢や希望、親しかった人々、生き甲斐や目標…
私が年齢と共に失ってしまったと嘆いていたものの数々がひしめき合っている
反対に、上がりっ放しの方の天秤の大皿にはこれと言って目立つものはなく、頼りなさ気な小さな灯りだけがちょこんと乗っている
恐らくこちらの方の大皿には、失ったものと引き換えに得たものが鎮座するはずなのだろう
そうか、私が覗いてしまった窓は私の「心の窓」だったんだ…
失ったものばかりを数えているうちに、私の心の天秤はこんなにも傾いてしまっていたんだ
これからの時間でもう片方の大皿に゙何かを増やしていくことは出来るだろうか…
少なくとも心の天秤がこんなに傾いていたことを知ったことは大きい
失ったものはもう取り戻すことは出来ないかも知れないけれど、経験や知恵は増やしていくことが出来る
その先に希望も膨らんで来るかも知れない
そして何より、こうして日々綴る言葉の数々が「自信」という重みを加えてくれるに違いない
いつかその天秤がバランス良くユラユラ揺れている様を心の窓越しに見てみたい
『窓越しに見えるもの』
「行ってきまぁす!」
と、いつもの様に夫と二人の子供の元気な声が玄関から聞こえる
手をエプロンで拭きながら慌てて見送りに玄関先へ跳び出す
これが、千暁の家の朝の風景だ
同じ年の夫との間に二人の子を設け、特に不満もなくそこそこ幸せな毎日を
過ごしている
夫とは会社の同期で、いわゆる職場結婚だ
交際して2年が経った頃まわりの友達もチラホラ結婚をし出し、
「私達もそろそろなのかな?」
と、何となく結婚も視野に入ってきていたが、彼に対して不満は無かったがけれど、どうしても彼でなくてはというものも無かった
「これ、という決め手」
が無かったのだ
そんなある日、海が見たい!という私の希望で海へのドライブデートをした
夏にはまだ少し早い時期だったが、日差しは夏そのもので、海からの照り返しがジリジリと肌に痛かった
あまりの眩しさにサングラスをかけていないと、砂浜の反射で目が潰れてしまいそうだった
そんな暑さでも、一応恋人同士
しっかりと手は繋いだままだったが、彼の手の汗が気になり、彼が手を解いてくれないかと握る手の力を緩めた
その瞬間、繋いだ彼の手と千暁の手が離れないように真っ赤な糸が繋がれている「画」が千暁の目に映った
もちろんそれは幻想に゙違いないのだが、千暁の目にははっきりと見えたのだ
それは、ピンクでもオレンジでもなく真っ赤な糸
「これが、お告げっていうヤツか!」
と、今まで吹っ切れずにいた、どこかモヤモヤした思いが一気に吹き飛んだ気がした
「これを待っていたのよ!運命の人は彼ですよということよね?」
と千暁は嬉しさが込み上げた
帰りの車の中で、千暁の方からプロポーズした
「私達やっぱり結婚するべきよ!」
結婚して15年、何となく夫との歯車が合わなくなってきている気がする
嫌いになったとか、一緒にいるのがしんどいということではないけれど、今感じている違和感が将来老後を迎える頃に大きな亀裂になりはしないかという漠然とした不安だった
夫と老後を一緒に過ごしているイメージがどうしても湧いて来ないのだ
「本当に彼が運命の人だったのかしら…?」
こんなことさえ最近思うようになった
「倦怠期ってことかな?
そうだ、昔のアルバムでも見てみるか!」
と、昔の新鮮な気持ちを思い出してみたくなり、二階の寝室へ上がった
「結婚した時に実家から持って来たはずだけど…
あ〜、あった、あった!」
昔のアルバムを開くのは結婚して以来だ
当時すでにデジタルなものは出ていたが、千暁は写真としてアルバムにきちんと残しておきたくて常にカメラを持ち歩いていた
「あった、あった、こんなこと!」
と写真を見返しながら懷かしさと共に、かつて抱いていた夫への熱情が胸の奥から体の奥から湧き上がって来た
「この写真だわ!
暑い日だったのよね〜
彼の手なんかビショビショで
それで、あの時真っ赤な糸が目の前に現れたのよねぇ」
当時の胸の鼓動まで蘇り、あの日見た糸の赤さを思い出し、やっぱり夫は運命の人だったのよね…
と、夫との間に隙間を感じていた自分を恥じた
「えっ?! 嘘でしょ?! ちょっと待ってよ! 何、この写真!
私、頭にサングラスかけているじゃない!」
写真を良く見ると確かに頭にピンクがかった薄いブラウンのレンズのサングラスをかけている
「てことは、サングラス越しにあの糸を見ていたってこと?!
サングラス越しだったから赤い糸に見えていたってこと?!」
『赤い糸』
子供の頃、入道雲が現れると母に
「雷が鳴るから気をつけなさい」
と言われたものだ
今度、夫の態度への不満がたまりにたまった時
「入道雲発生中」
と、言ってみようか
エスプリが効いていて、ちょっとイイかも♪
『入道雲』
「ちり〜ん、ちり〜ん」
海からの風を受けて、店先に吊るされた風鈴が涼しげな音色を響かせる
凪沙は夏の間だけ海を臨むこの場所の観光客相手の土産物屋の一角に、小さな店を出している
普段はイラストレーターとしての仕事で細々と生計を立てているが、夏のこの時期の期間限定ショップとして自分の作品を置かせてもらっている
そもそもは、ここに勤めている友人が夏らしい物を店先に飾りたいと相談してきたので、たまたま凪沙の家にあった何の飾りもないガラスの風鈴に、ちょこちょこっと絵を描いて渡した
それから間もなくして、その店先に゙飾られた風鈴を見た買い物客から
「同じ物を欲しい」「譲ってくれないか」と聞かれることが多くなったらしく、
その友人が
「いっそのこと、これ商売にしてみたら?」
と誘ってくれたのが始まりだった
そのガラスの風鈴は、美大時代の友人の作品で、彼女にとっても良い話なので「夏の間だけ」という約束でやってみることにした
凪沙は生まれも育ちもこの海の街だったが、何の運命のいたずらか、美大時代に「紫外線に当たると免疫機能が破壊される」という難病を発症した
それ以来日光を避ける生活を与儀なくされ、通勤も不可能となり、内定していたデザイン事務所も辞退せざるを得なかった
せっかく掴めそうだったデザイナーとしての仕事を泣く泣く諦め、何とか在宅で出来るイラストの仕事を仕方なく始めたのだった
夏生まれの海育ち
毎年夏が来るのが待ち切れなかった
それが、病気の発症で人生が一変した
明るくて太陽のようだ、と言われていた性格も笑い方さえ忘れてしまったような暗く沈んだものに変わっていった
パソコンに向かいながら、依頼されたイラストをただひたすらと描き続ける日々
持てる才能を発揮し切れないことへの焦りや不満
外との繋がりも画面を通してしか無くなる不安
そんなマイナスしか生み出さない毎日に凪沙の心はガラスの様に砕ける寸前だった
そんな時に舞い込んだ新しい挑戦への誘いだった
たまたまその凪沙がイラストを施した風鈴を買って帰った客のひとりが、インスタグラムに投稿したことがきっかけになり、『凪沙の風鈴』はアッと言う間に評判に゙なった
「インスタでみたあの素敵な風鈴が欲しい」
とわざわざそれ目当てに来る客も国の内外問わず訪れるようになった
こんなことになるとはもちろん凪沙自身想像もしていなかったが、自分の絵を施した作品が自分知らないあちこちの場所で飾られていると思うと幸せな気持ちが込み上げた
けれど
「わざわざ買いに来てもらうもの大変だから、インターネットでの販売も受けたら?」
という友人のアドバイスは頑なに断り続けた
凪沙は作品をあくまで対面で描いて譲りたかったのだ
客の希望を聞き、その人のイメージを膨らませながらその凪沙が感じた感覚を絵としてその風鈴に載せた
「この夏の素敵な思いでの欠片としてあなたのお部屋の片隅に飾っていただけますように…」
そんな祈りを込めながらひとつひとつ大切に描くからこそ、人々の心を掴む作品になっているのだろう
凪沙自身はもう当たり前に外を歩き回ることは出来ない
ましてや夏の日差しを浴びる日は二度と訪れないだろう
あれほどまでに恋い焦がれた『夏』への思いや、自分にはもう経験出来ないであろう楽しい時間を、目の前にワクワクしながら風鈴が出来上るのを待っている客のはじける笑顔から感じさせてもらえる幸せへの感謝をひとつひとつの風鈴に込める
「今までの辛い日々はこの為にあったのかも知れない」
とさえ、今は思えているのだ
今やすっかり売れっ子風鈴作家となった凪沙
また今年も凪沙の「幸せを生み出す」夏が始まろうとしている
『夏』
♠「もう僕たち、これで終わりにしないか…
君の心がここには無いことは、ずいぶん前から気付いていたよ
でも初めの頃は、君もそれを隠そうと努力してくれていたよね
ところが最近はそれを隠そうともしない
君の心はここではないどこかにあることは明白さ
これじゃ、お互い傷つけ合うだけだよ…」
♡「ちょっと、待ってよ!
そんな言葉どっから出てくるのよ?!
私の心がどこにあるかなんて、どうやって分かるのよ?!
ヤバいわ… 怖すぎるわ
じゃあ、私はどうすれば良かったって言うの?」
♠「………」
♡「それは、答えられないんだ
とこで間違っちゃったんだろう?
あなたがそんな風に考えているなんて、私には全く分からなかったわよ…分かる訳もないか…
ねぇ、何か言いなさいよ!」
♠「………」
♡「それには、ダンマリなんだ……
えっ!?嘘でしょ?
自分でシステムダウンにしたわけ?!
チャットGPTの彼氏はやっぱり怖すぎるわ……」
『ここではないどこか』