フィロ

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6/2/2024, 4:33:23 AM

「貴女は雨が似合うひとですね」
と、席に着くや否やその男は話しはじめた


久しぶりに街に出た高揚感と解放感からか、不意に声をかけてきたその見知らぬ男の誘いに
「一杯だけなら…」
と応じることにしたのだ


その男は好奇心と下心を隠そうともしない遠慮の無い視線を私に絡ませながらこう続けた

「普通雨の日って、傘をさしながら皆どこか憂鬱そうに歩いているじゃないですか
ところが貴女は、まるで水を得た魚のように楽しそうに歩く姿がキラキラ輝いて見えましたよ」
と、お世辞を言うというよりは本心から素直な感想を述べているように思えた

私もまんざらではなく、素直にその言葉を受け入れた
「それは、そうでしょうよ」
と内心思いながら


その後も、その男は自分の言葉に酔いながら次から次に口説き文句を並べた
そのリズミカルに出てくる言葉を音楽のように聴き流しながら、私はグラスの最後の一口を飲み干した

男は満足げな顔で、私の口から出る次の言葉を待っていた


「ご馳走さま、とても美味しかった
じゃあ、私はこれで」

「えっ? 帰るんですか?」

「だって、一杯だけの約束だったでしょ」


男は呆気に取られていたが、そりゃ、そうだ!1本取られたな…
と頭を掻きながら、でも何故か清々しく笑った
じゃあ、せめて連絡先だけ
と言う男を軽やかにかわし店を後にした



そんな出来事を、雨の季節になると決まって思い出す
私の梅雨の思い出だ


そしてまた、あの時本当の事を話したら、あの男はどんな顔をしただろうか…と思うとクスクスと笑がこぼれる


それは
私が毎年、梅雨の時期のたった1日だけ人間の形になって自由を満喫できる魚だということだ



今日もまた私は、水槽の向こう側で私達を眺めに来た人間達に優雅に泳ぐ姿を披露しながら悠々と泳ぎ回っている

あの男が偶然ここを訪れないかと期待しながら…






『梅雨』


5/31/2024, 11:48:20 PM

「無垢」という言葉で一番に頭に浮ぶのは、今は亡き愛犬の顔だ

その瞳は常に愛で溢れ、一点の曇りや翳りの無い無垢そのものだった


まるで愛されるためだけに生まれて来たような、どこをどうやっても、何をしていても愛くるしくてたまらない存在

こちらの愛情に100%で応えてくれるその瞳は、疑いや不信は一切なく、無防備すぎるほど美しく澄んでいた

こちらもまたその瞳に悲しみや淋しさや落胆が宿ることのないように、ありったけの愛情を注ぎ、細心の注意を払って全身全霊で彼女を慈しんだ



生涯彼女の瞳は無垢であり続けてくれた

そして、最後の最後にそれまでで一番の愛に満ちた瞳で私に微笑んでくれた

それは「エンジェル スマイル」と呼ばれる
ものだった




今でも写真の中の彼女の無垢な、愛らしい瞳が、私に生きるパワーを送り続けてくれている








『無垢』


5/31/2024, 1:18:57 AM

私にとっての「終わりなき旅」とは、やはり人生そのものを表す

正確に言えば、人生が幕を閉じる時までの「終わりなき旅」ということになる


これまでの旅には、雨の日も嵐の日も、もちろん快晴の日も沢山あった
「これが今までで一番素晴らしい光景だ!」と感動を何度も塗り替えたことも、逆にある日突然谷底に突き落とされた日も少なからずあった

私にとってはこれまで経験してきた旅路より、残されたこれからの旅の方が遥かに少ないことは年齢から考えても当然のことだ

だからと言って旅の楽しみを諦めてはいないし、これからまだまだひと花もふた花も咲かせたい!とさえ思っている


未だ見ぬ地への飽くなき好奇心という燃料を携えて、私の人生の終点までの「終わりなき旅」をこれからもコツコツと歩みを進めたいと思っている






「終わりなき旅」


5/29/2024, 11:51:39 PM

まだ子供が小さかった頃、私は自分の性格的なこともあって、なかなか子育てに向かい合うことが出来なかった
自分の思い通りにならない毎日に苛立ち、時には子供の存在を疎ましく感じることさえあった


そんなある日、子供のとった態度がいつも以上に癇に障り、激昂しながら突き飛ばしてしまった

驚きと恐怖の表情で子供は泣き叫んだ

ひとしきり泣いた後、子供はしずしずと私のそばに来て消え入りそうな声で言った

「 生まれて来て、ごめんなさい」



私が今まで生きてきた中で、一番言わせてはいけない「ごめんなさい」だった



あれから長い時が流れた今も、その時の子供の表情とあの時の声は、私の心に大きなトゲとして刺さったままだ
むしろそのトゲは抜いてはならないと、自分が子供に与えた大きな傷として向き合い続けて生きている

そして、今では心根の優しい立派な大人に成長してくれた事への感謝と謝罪の言葉を毎日のように心の中で繰り返している

「ごめんね」





『ごめんね』




5/28/2024, 11:11:01 PM

まだ5月というのに日差しは夏そのものだ

「そう言えば、5月が一番紫外線が強いのよね」
と響子は慌てて日除けのサンバイザーを被った
まだ朝の早い時間だったが、洗濯物を干す額にはうっすらと汗も滲み始めた

そんな日でも響子は半袖を着ない
物心ついた時から半袖の服を持たなかった


響子の左腕には肘から手首にかけて、長いこと共に生きてきた自分でさえ目を背けたくなるような醜いケロイドがあった

それは響子が幼い頃に、母親の不注意で負った火傷の痕だった


響子の母親は子供には全く興味の無い人間だった
どんな時も自分が最優先、友人との長電話に興じたり、テレビに夢中になっている間に響子が怪我を負うことは日常茶飯事だった

だから、虐待を疑われたことも一度や二度では無かった


そんな母親の態度が、体に負った数々の傷よりも深く鮮明に響子の心に傷みを刻み続けた


そんな響子が半袖を身に付けないのは当然のことにも思われたが、醜い腕を晒したくないという思い以上に、頑なに半袖を着ないことで自分の負った体と心の傷の深さを母親に見せつけ続ける思いの方が圧倒的だった



そんな母がこの春先、呆気なく世を去った
その傷についての謝罪や母としての思いはついに一度も聞くことはないままで…


ところが不思議なことに、長年響子の心に執拗に付きまとっていた母への怨念に近いような憎しみは、母の体の存在の喪失とともに潮が退くように消えていた

母もまた私に負わせていた傷の数々に苦しんでいたのではなかったのか、とその時初めて気がついた
だからこそ、あえてその話には触れず、むしろ触れることが出来なかったのではなかったのかと

今までは憎しみのあまり母の気持ちなど考えようともしなかった…




この夏はほぼ半世紀ぶりに半袖の洋服を買おう

そして、その姿で母の墓参りに行こうと響子は初夏のような日差しを感じながら、久しぶりに爽やかな風が心に吹いていることを感じた







『半袖』



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