フィロ

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まだ5月というのに日差しは夏そのものだ

「そう言えば、5月が一番紫外線が強いのよね」
と響子は慌てて日除けのサンバイザーを被った
まだ朝の早い時間だったが、洗濯物を干す額にはうっすらと汗も滲み始めた

そんな日でも響子は半袖を着ない
物心ついた時から半袖の服を持たなかった


響子の左腕には肘から手首にかけて、長いこと共に生きてきた自分でさえ目を背けたくなるような醜いケロイドがあった

それは響子が幼い頃に、母親の不注意で負った火傷の痕だった


響子の母親は子供には全く興味の無い人間だった
どんな時も自分が最優先、友人との長電話に興じたり、テレビに夢中になっている間に響子が怪我を負うことは日常茶飯事だった

だから、虐待を疑われたことも一度や二度では無かった


そんな母親の態度が、体に負った数々の傷よりも深く鮮明に響子の心に傷みを刻み続けた


そんな響子が半袖を身に付けないのは当然のことにも思われたが、醜い腕を晒したくないという思い以上に、頑なに半袖を着ないことで自分の負った体と心の傷の深さを母親に見せつけ続ける思いの方が圧倒的だった



そんな母がこの春先、呆気なく世を去った
その傷についての謝罪や母としての思いはついに一度も聞くことはないままで…


ところが不思議なことに、長年響子の心に執拗に付きまとっていた母への怨念に近いような憎しみは、母の体の存在の喪失とともに潮が退くように消えていた

母もまた私に負わせていた傷の数々に苦しんでいたのではなかったのか、とその時初めて気がついた
だからこそ、あえてその話には触れず、むしろ触れることが出来なかったのではなかったのかと

今までは憎しみのあまり母の気持ちなど考えようともしなかった…




この夏はほぼ半世紀ぶりに半袖の洋服を買おう

そして、その姿で母の墓参りに行こうと響子は初夏のような日差しを感じながら、久しぶりに爽やかな風が心に吹いていることを感じた







『半袖』



5/28/2024, 11:11:01 PM