待つのは美徳じゃないのよ。
いつまでも待てる女だけが美徳だと男がどんなに嘯いても。
待つのは、きっと戻ってきてくれると確信のある者だけに赦されることだから。
待つくらいなら会いに行けと、私思わざるを得ないのね。
待てと言われて戻ってくる奴のいたことか。
待っててねと言われても私、待てないからね。
その女は誰なの。
私に至ってはとにもかくにも思ったことを次から次へその通りに口に出す性分でして、ホントは何重にも紙を巻いて話すことを覚えねばとあたふたするわけだけれどもね。
ほらそーこーしてるうちに、またそげなことを性懲りも無く言ってもーたワケだわよ。ほんと何度嘆いたこったろうね。
彼は、静かに、ゆっくりと、語る。
あまりにゆっくりなので聞き取れず、何遍も同じところを聞き返す。
あ、の、ね。
私にとっては多弁な奴こそが正義で、言葉を持たない奴というのは心を持たないのと同義であった。
あ、の、ね。
彼は、静かに、ゆっくりと、語る。
あまりにゆっくりなので癪に触って、彼の言葉を私の強い言葉たちで遮る。
口下手な奴というのは、よからぬことを考えていると、自己弁護の言葉を繰り出そうと焦っていると、私は解釈する。
あ、の、ね。
私のための言葉でなければ、彼の言葉は意味を持たない。同じ国の言語を共にしているはずなのに、どうしてこうも埒が開かないのだろう。苛々を通り越してついに落胆する。
あ、の、ね。
それでもなお、
彼は、静かに、ゆっくりと、語る。
背丈に合わない言葉を手繰る私を諭すように。
あなたがかつて教えてくれたのだよ、と口の端を結んだまま持ち上げて。
伝えるということは、聴くことなのだと。
受け取ったよ、と返すことなのだと。
彼は、静かに、ゆっくりと、語る。
お題:伝えたい
だいぶ呑んだみたい。
西麻布のゴルフバーからなだれるように乗り込んだはずのタクシー。気がつくと黄褐色のランプが点滅する舗装路の隅で身を横たえていた。
どこで車を降りてしまったのか何も分からない。
ただ込み上げてくる吐き気と雨に濡れてぐちゃぐちゃの髪が重くてすぐには起き上がれそうにない--
「大丈夫かい」と中年親父の声が耳に入ったのに危機を覚えてギョッと息を止める。
自分が倒れているのがかつて寝ぐらにしていた通りだと気が付いたのは、それから3度目に声をかけられたあたりでだった。
意識のない私が視覚だけでここまで歩いてきたというの?
ちょっとしたつもりで始めてからだんだんハマっていって、でも一度立ち直って昼の仕事もして。
ようやくこの場所から這い出したのに、どうしてこうも中途半端になるのだろう。
うなだれながらまた顔を背けたその時、ハッとした。肩に下げていたロエベのバッグを引き上げようとする力が加わっている。
上体を起こしてバッグを引き戻す。見ると化粧の仕方もままならない幼稚な乞食がバッグを掴んで手繰り寄せようとしている。
私のバッグ! こんな雑巾乞食に!
体重をかけて更に引き返すと骨みたいなそいつは尻餅をついてマンぐりがえる。ノーブランドと思しき安物のスカートがめくれて血の滲んだ下着が見えた。
離してよ! アンタみたいな生きてるのも目障りな乞食なんかに! 苦労して手に入れたんだよ!
詰め物にしかなれねえ能無しのくせに!
乞食が舌を打ってずらかってゆく。
バッグの金具が当たって手首から血が噴き出して痛い。
一連のやり取りを見ていた「普通」の男連れの女がポケットティッシュを渡してくれた。
ねえあなたはその男の子どもを産めるの?
産めないのなら同じだよ。同じなんだよ。
男に費やしたことは同じじゃないか。
何が違うっていうんだよ。
濡れて重たい身体を起こして歩き出す。
私はもうここにはいないのに、こんなに悲しいのはなぜだろう。
お題:この場所で
あ、ヤった!
あの子、いまブレスレットをポケットにーー
けどあたしにはそんなンどうでもよくって。
どうせテキトーに辞めようと思ってた店のシナモンだからさ、捕まえて恨み買うくらいならどんどん盗んでくれて構わないワケ。近所に住んでたらこえーじゃん。
オツボネの神崎、今の見てなかったよね?
アイツは盗っ人にありったけの暴言吐き出して警察呼ぶ呼ばないだしてストレス発散してさ。そのあいだアタシたちだけ店に立たなきゃいけないから面倒なんだよね。
うちの店長しっかりしてねえからなぁ、こういう時てんで怒れないでやんの。
まあ神崎みたいなのも必要なんだろうけどね。
神崎の怒鳴る声がする。
そういえば神崎、こないだ義父が倒れてケッコー大変みたい。
それで前よりだいぶイラついてる。あたしたちもめちゃ怒鳴られてる。
こえーんだよなァ。
どいつもこいつも誰か悪いことすンの目を光らせてジッと待ってる。
悪いことしたヤツを叩きのめして楽しんでる。
自分が正しいと信じて疑わねえからさぁ。
こえーんだよこえーんだよ。
てめえン中の正義が、さァ。
お題:誰もがみんな
昔好きだった男が住んでいたけれど、ついに連れてきてもらえることのなかった北千住という街を、何年か経って初めて訪れた。
当時どんな気持ちがあって彼と自分とを天秤にかけたのか覚えていないけれど、彼がいなくなったことだけは何年経ってもずっと消えずに残っている。
ふと迷い込んだ北千住の歓楽街は寂れていたけれど、呼び込みの女たちはそれぞれに鮮やかな春の服を着ていた。
きっとこの街には四季などなく、何十通りもの春が気ままな風に乗って年中を巡っているのかもしれない。
桜の春があり、藤があり、つつじ、バラ、梅、たんぽぽ、etc...
今日はどの春風に煽られて男たちは束の間のハメを外すのだろう。
落ちこぼれた歓楽街の隙間にて、春の花のように揺れる女たちの並びは、素人が無骨に手作りした花束みたいだった。
私の居場所のないこの街に少しばかり後ろめたい気持ちを残して、居場所とも言い難い暮らしの街へと帰路に着く。
お題:花束