NoName

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7/23/2025, 2:14:46 AM

教室に生温い風が吹き込む。半透明のカーテンが舞って、少しの間私の視界を覆った。手持ち無沙汰になった気がして耳を澄ませば、日常が聞こえてくる。
板書の音、教師の話す声、外から聞こえる暑さに喘ぐ声、生き物達が必死で謳歌する声。その全てが紛れもなく私の全てだった。
だから、夢現な私は、この世界をこのまま閉じ込めたくなった。微妙に生きづらくて繊細な、今しかない幸福を享受し続けたかった。そんな事出来ないと分かっているけれど、思考は変わらなかった。
ふと、強い風が吹き付けた。教科書の頁がぱらぱらと捲れていく。それが、現実に覚める合図。
そこには、少しだけ枕を濡らした私が一人だけ。大人というのは、こんなにも冷たい涙が流れるものだったのか。けれど、あの時止めたかったものなんて絶対に止められなくて。大人にも子供にもなり切れない私は、また、あの日常に焦がれてしまうのだろう。

題:またいつか

7/20/2025, 11:06:28 AM

「げーっ。将来の夢、だってよ。」

未来は、そう、俺の隣に座ってるヤツがそう言った。

「お前、未来って名前なのに将来の夢書くの嫌なのか?」

「それ、よく言われるけどゼッテーかんけぇない。」

まあ親が付けた名前ってだけだしな。あくまで俺達からしたら、ラベリング以上の価値はない。一人で完結してると、真っ白い作文用紙が嫌でも目に付く。
将来の夢、か。適当に書いたって良いけど、それは癪に障る。真面目に書くのも面倒くさすぎる。停滞した思考を堂々巡りさせていると、未来はまた話しかけてきた。

「おれさー、未来って書くけど、読みは「みく」なんだぜ。親は、カッケー。ロックだぜー。って言うけどさー」

酷く渋い顔をしながら言葉を濁す未来は、頭を抱えてブツブツと呻いている。

「いやさー、みくって女っぽい名前じゃんか。親がどんな想いをして付けたかよりもさー、今あるイジられによる羞恥っつーの?それのが余っ程苦痛だろって思うんよ。だって今ってリアルタイムで来るくせに予測できんし。マジ未来とか考えられるかっての。」

言いたいことだけ言って未来は作文用紙に殴り書きしていく。今が大事な未来は、先の事を考える気がないのだろう。適当に書いているのが分かる。それに触発されてか、俺も筆が進んでいく。鉛筆の走る音と、布擦れ、そして微かな風が感じられる。
これが未来の言う今なのだろう。だが俺にとっては、心地よくて眩しくて今が一番幸福だ。

題:今を生きる

7/6/2025, 10:13:27 AM

「点呼ー」

酷く間延びした、それでいて通る声が響く。太陽の光も一切届かず、人工的な光しか見えないここは、冷たく苦しい。点呼と言われる度、ここからは出られないのだと言われているようで悔しい。

「13番」

それが僕の名前。番号だけでラベリングされた僕たちは、人間という種族としか見られていない。牢獄のように、酷く陰湿な空気がここを包んで精神状態も悪い。僕の隣のヤツはいつの間にか気が狂って、誰かに連れて行かれた。飼い殺される前に出たい。もう一度空が見たい。太陽に手をかざすと血潮が透けて、寒そうに見えてとても温かい青色。自由じゃなくてもいいから見たい。

「作業始め。」

機械的な動作で作業は始まる。曰く、戦争が地上で起こっているらしい。それ故に、僕たちは閉じ込められ管理される。命の保証はされても自由ではないのだ。毎日同じ時間に起き、作業をし寝る。それがこの世界だった。はやく、はやく地上に行きたい。戦争に駆り出されたっていい。ただ、あの青を見れずに死ぬのは惜しい。最後の瞬間にあの青が見たい。それだけの為に生きている。

お題:空恋

5/6/2025, 3:22:49 AM

そよそよと、心地よい春風が頬を撫でる。心地よい季節のはずなのに、僕は汗だくで自転車を漕ぐ。ハンドルは、強く掴まないと今にも滑りそうだ。酷く古ぼけている自転車は、力を込める度ギイギイと音を立てて軋む。片道3時間、それは過酷で楽しみな道のりだった。
もう少しだと、自分を鼓舞しながら進むと、こじんまりとした郵便局が視界に入る。
「お!今日も来たんか、偉いなぁ。」
気付いたのは、あちらも同じようで少しだけ手を振り上げてくる。同じように振り上げれば、こちらに寄ってきてくれる。
「手紙は?」
急かすように、僕が声を上げると局員は一つの手紙を見せつける。
「ついに来たぞ。返信。」
その言葉で僕は、天に舞いあがれそうだ。ひったくるように、手紙を貰うと違和感があった。
「おっちゃん、これいつの?」
僕の自転車と同じくらい古ぼけた手紙。それは、まるで遥か昔の手紙のようだ。
視線で訴えると、局員は困った顔をして言葉を紡いだ。
「お前のお母さんな、この手紙書いた後亡くなったと…」
「それ、いつ?」
「お前が二通目の手紙出した後だと。」
一気に有頂天だった気分は急降下した。
それでも、僕は手紙を開いた。これだけは読まないといけないから。
『お母さんな、もう駄目かもしれん。あんたの手紙嬉しかったよ。でも、それ以上にお前が心配だよ。あそこまで行くのはかなり大変だろう?だからね、気にしなくてもいい。あんたが健やかにしてりゃいいのよ。元気でいてね。』
母らしく、短く僕思いの文章。それが何より恐ろしい。もう母はいない。それだけが僕の中に残ってしまった。
「お前の手紙、お母さんと一緒に埋められたと。ここらへんにゃ、医者もおらんからごめんなあ。」
「おっちゃんが謝ることない。それに、この手紙を開けばお母さんはいるから。それだけでいいよ。」
もう会えない、話せないけど。この手紙があればそれでいい。母との唯一の繋がりがあればそれで。
いつか、また会える日まで僕は手放さないから。

題:手紙を開くと

11/27/2024, 10:33:42 AM

胃がチクチクと痛む。それと同時に形容し難い吐き気が襲ってくる。寝る前の恒例行事となった格闘は、静かに僕を蝕んでいる。知人は誰しもが病院に行けという。けれど、これは僕の気性であって、病気の様な理不尽ではない。そう説明すると、決まって苦い顔をされる。今回も同じだと思っていた。けれど

「なんかそれって愛情みたいだね。」

君はそう言い伏せた。愛情。そんな曖昧なと思ったけれど、見方によっては似ているかもしれない。恋や愛は痛みを伴うと、そう聞いたことがある。如何せん、僕がそれを感じたことがないのが、悔やまれるが。

「愛情というのは、どうすれば知れるんだろうか。」

誰もが羨む程の、長い長い人生の中、僕が感じるものの中に愛情だとか恋慕だとかは無かった。きっと僕が鈍すぎたのだろう。

「ん〜、君の長い人生でそれを知る機会が無いなら、難しいかもね。けれど、何かのきっかけがあれば知れるよ。」

きっかけ。その事象を待つには、長すぎる気がした。もしかしたら一生を経てなお、分からないかもしれない。

「難しいものだな。」

人間というのは、様々な事を短い人生で考え行動するという。長い寿命を食い潰せない僕は、選択の先延ばしばかりしている。

「なんてったって、人間だもの。私たちだって分からないさ。愛情がどこからどこまでなのか。」

人間にも分からない曖昧なもの。それが愛情だという。解き明かすことさえできないそれは、神の所業とでもいうのだろうか。

「そういうものなのか。」

「そういうものさ。」

そよ風が窓からふきぬける。少しだけ彼女の髪が揺れる。陽の光に透けてしまいそうな彼女は、とても儚く綺麗な気がした。

題:愛情

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