思い出したいけれど、思い出せないことがある。
私には姉がいて、小さい頃から仲が良かった。姉はあたたかい陽気の日には庭にある木の下で私に本を読んでくれた。綺麗な長い髪がキラキラと光を反射しながら揺れて、穏やかに微笑むその姿に、幼い私は憧れていた。けれど、大人になってわかる。姉は、幼稚だった。大人になってからの私はそんな暇もなく、せかせかと日々をすごしている。あのころ、憧れに思っていた姉の穏やかさは、家族の裕福さに甘えていた証で、今はといえば不景気の中でそんな思い出も遠くに行ってしまった。姉が嫌いなわけではなく、むしろ、そんな不景気の中でも変わらず穏やかに過ごす姉の姿を見ていると、私はあの頃を思い出せるのだ。
ただ、本当に思い出したいことは思い出せない。
あの日、姉の膝で寝てしまった私が見た、不思議な夢。
【懐かしく思うこと】
私は、付き合っている人がいる。
男前でかっこよくて、でも愛情表現もしっかりしてる優しい人。愛しい人。大切にしたいと思っていた。けれど、その人は急にいなくなった。
どこに行ってしまったのか、見当もつかない。
あの人のいないこの部屋が、こんなに静かで寂しいだなんて。私の呼吸の音だけが響いて、反芻する。怖い。あの人を失うのがとても怖い。警察に頼るべきだろうけれど、もしかしたらふとした拍子に帰ってくるかも、という希望が捨てられない。ご家族にはまだ挨拶をしていないから、行方を知らないか聞くこともできない。
どうしたらいい?
物音ひとつない部屋に、夕陽が入り込む。部屋は朱く照らされて、その光を私も無抵抗に羽織る。赤い。顔を伏せて微かに見える外にカラスが飛んでいくのが見えた。
あの人もどこかに飛んでいってしまったのかな。
知らぬ人よ、聞いてくれ。
私には付き合っている人がいる。出会ってすぐに結婚を決めてしまえるほど良い女性で、結婚には踏み切れなかったものの同棲の話が出た。嬉しさのあまり、会社の同僚にその話をしたら、逆上された。同僚とは飲みにいったり、食事に行くことはあったが、二人きりの空間になることはなかったし、彼女が言っていることはちぐはぐだ。
私は、彼女から逃げる為に必死に逃げて、逃げた。逃げたはずだった。
それなのに、彼女は私の家に今いて、足元には愛する人が横たわっているのが見える。かろうじて肩が動いているのが見えて、生きていることに安心したが、彼女は勝手にカーテンを開けており、煌々と入る夕陽のせいで愛する人が本当に無事なのかが分からない。
彼女は私を見るとニタ、と笑って机から立ちあがった。
「やっぱり、帰ってきたね。」
【もう一つの物語】
部屋の電球が切れた。
一人暮らしを始めてから初めての事態であった。最初は停電か、とも思ったが、トイレもお風呂場も電気がつくし、違うなとすぐに判断がついた。現在、23時。明日も早いし、これから寝る判断もできる。これが実家であれば母に頼んで買い置きの電球をつけてもらえるが、現在一人暮らしでこの時間ではどうしようもない。
手探りでひとまず明かりのつけられる場所をつけて、足元に注意しながら壁伝いに歩いてベッドに潜る。寝るしかないのか。折角、日記を書いていたのに。頑張れば、携帯の明かりとか、今つけた明かりの中で続きを書くことはできるだろうけれど、やりたくない。ここ数年携帯に接する時間が長すぎるな、と思ってやっと最近減らせてきていたのに。数分前までどこもかしこも見えていた部屋が、今はわずかな明かりの中で見えるところと、目が慣れてきてぼんやりと見えるところだけ見えている状態になってしまった。急に真っ暗になるからと動揺してしまったが、そもそも寝るとしたらつけてきた電気は消さなければいけないじゃないか、と冷静なってきた頭で思う。
なんか、うまくいかないな。
嫌な事は続くとは言うけれど、今日はこれ以外にも片手で足りるくらいの嫌なことがあって、なんとなく鬱々とした気分を払うための日記だった為に、これはもう今日一日がアンラッキーだったと感じてしまう。そして、そんなことを考えているとベッドに入っても寝れるわけがない。
諦めて起き上がって、つけていたわずかな電気も消した。少しだけ慣れていた目が、また最初から慣れようとしている。またやっとの思いでベッドに潜ると、足元に携帯が当たった。変なところに置いていたらしい。手元にやると不可抗力で画面が開く。寝る前に携帯を見たくないのにな、と思い目を伏せようとしたが「スーパームーン」の文字が目に入った。今日は月が綺麗な日らしい。ベッド脇の一人暮らしだとあまり活躍しないカーテンを開くと、部屋がグーっと明るくなった。高いビルに囲まれた中でもその名通りの月が静かにそこにいて、私を照らしていた。描き途中だった日記が、カーテンを開けた勢いでめくれる。
まるで、私の嫌な事はここで切れるとでもいいたげに。
( おやすみなさい )
【暗がりの中で】
朝起きてから匂うカフェインの香りが好きだった。
彼女はコーヒーを飲むとお腹を崩してしまうと言って、朝起きると紅茶を淹れる。私は彼女の淹れたその香りで目覚めるのだ。私はといえば、小さい頃から朝はコーヒー、ミルクを入れて、砂糖は入れない。そういう習慣があって、起きてから彼女が使って残ったお湯を使って私はコーヒーを淹れる。そうやって二人で悠々と朝の時間を過ごすのが、好きだった。
いつの間にか、忙しさの中でそんな時間は過ぎて、職種の違う私と彼女はすれ違うようになった。私は土日祝休み、彼女はシフト制で接客業の為、私と休みが合うことは滅多にない。久しぶりに合ったとしても、忙しさの反動として休日はベットの中で過ごす事が多くなっていた。彼女の顔は少しずつ痩せこけた。そんな彼女を見るのが辛くて、でも心配で、自分の休日には作り置きを多く作ったり、彼女の誕生日やお祝い事の日には率先して彼女の笑顔のために走り回った。
けれど、彼女は壊れてしまった。
原因は、分からない。病院にも行ったがハッキリした診断はつかず、1ヶ月仕事から離れると言う結論に至った。彼女も私も納得はできないものの、それでも1ヶ月という猶予がもらえた事で少しだけ肩の荷が降りたような気持ちになれた。
今、彼女は紅茶もやめてしまった。代わりに、白湯を一杯飲むようになった。雑誌で白湯を飲むと体が起きる、と書いてあったらしい。この1ヶ月、彼女が飲むために沸かしたお湯で、私は朝紅茶を淹れ、ミルクを入れて飲むようになった。彼女のようにストレートで飲む習慣はまだないけれど、コーヒーとも違うその香りを嗅ぐ事で、あの頃の感情を思いだせる気がしたからだ。勿論、彼女を嫌いになってきているとか、そう言うことではなく。
あの頃、彼女と起きがけに話すくだらない話や、その日の予定、天気によって異なる外の音、鳥の鳴き声、そんな情景が香りから思い出せるような気がしたから。
「あなたがコーヒーをやめたのは、私のせい?」
ふと、白湯を飲む向かいの彼女から聞かれる。寝巻き姿で椅子に体育座りする彼女は、朝焼けを浴びながら私を真っ直ぐな目で見つめていた。私は、そんな質問をする彼女に微笑みながら言う。
「君がいたから、紅茶の良さを知れたし、人と過ごす時間の良さを知れたんだよ。今度は一生朝お味噌汁を作ってほしいといつ言おうか考えてたところさ。」
最初は理解が追いつかないようだったが、徐々に意味がわかった彼女が久しぶりに声を出して笑った。私は、そんな彼女の左手の薬指に触れながら、今度合うものを探しに行こうと伝えた。
【紅茶の香り】
「愛してる」
喧嘩をしても、お互いの仕事が忙しくても、言い合おうねと。そう、決めていたのに。
「なんか疲れちゃった。」
「束縛激しくない?仕事できないよそんなの。」
「職場には異性もいるしさ…連絡もそんな頻繁に取れないでしょ、常識考えてよ。」
テーブルの向かいに座る同居人が頭を抱えながら私にそう言う。どうして、だって、決めていたことじゃないか。
それを含めて、愛してくれるのではなかったのか。
責めるような私の口調に、同居人の目が揺れる。
「もう、愛はない。」
何も握っていない手に力が入る。
そうか、もう、終わりなのか。
【愛言葉】