【冬になったら】
もう季節は秋になった。肌寒い時間が増えて、落ち葉も道に散るようになった。
私は、ー私たちは、いつの間にか大人になった。
「久しぶり」
「久しぶりだね、元気?」
急に中学時代の同級生から「先生と結婚が決まったからみんなにお祝いしてほしい」と連絡が来た。先生というのは教育実習で来ていた人で、大学に上がってから運命的な出会いをして、付き合うことになり結婚となったそうだ。特別親しかったわけではないが、他の元クラスメイト達も少なからず来るカジュアルな場にするから参加者の数を集めたいと言われると断りにくい。
その日は中学校から近い居酒屋さんでみんなでお祝いすることになっていた。みんなといっても結局集まったのは半数ほどで、小規模の同窓会のような形になってしまったが、本人は満足そうにしている。誰でもいいから、自分たちのしあわせの形を見て欲しかったのかもしれない。
途中抜け出して、タバコを空にふかしていると、扉が開いた。ひょい、と顔を出したそれに、軽く声をかける。
「…何年振り?」
「えー…わかんね、結構だった気がする。」
あの頃、野球坊主で真っ黒に焼けてグランドを走り回っていた影などないくらい整った髪をした彼が、タバコ片手に隣に腰をかけた。
「なんか、すごいよね。みんなもある程度来てるし。」
「いや、ただ単に呑みたいってやつもいるだろうよ。知り合いのお店だから金額少し安くしてもらえるってアイツ言ってたぞ。」
「そうなんだ。だから来たの?」
「俺?あー…まあそうかもな。お前は?」
「私は…なんでだろうね。タイミングかな。」
一口すって、吐く。夜はもう白い息が出るようになった。下を向いて、以前のようにミニスカートは履けなくなったな、とちょっと考えてしまう。
「昔さ、一緒に海行ったよな。覚えてる?」
「あったねーそんなこと。私が押したら海に落ちちゃったやつでしょ?あの後めっちゃ怒られてたよね。」
「ほんとーにあの日の母ちゃん怖かったよ。まじであの後土下座したんだからな。」
「あはは、若気の至りでしょ。」
お互いにタバコをふかしながら笑い合う。昔は仲が良かった。それはお互いの認識だと思う。高校に上がってから違うところになって、連絡も取らなくなって、それから…。
「どう?結婚生活は。」
「いやー嫁さんが昔の母ちゃんみたいな人でさ、めちゃくちゃ怖いんだ。まあ、俺のせいなんだけど。」
そう、ー彼は、大学の時に付き合った彼女と結婚したとSNSで見た。可愛い子だった。割と若い段階での結婚だったから友人との間でも話によく上がった。
結婚式には呼ばれなかったし、行くつもりもなかった。
「…でも、別れるんだ。今年中に。」
「えっ、なんで!?…とか聞いちゃダメだよね…ごめん!」
「俺が子供作れない体質らしくてさ、嫁さん子供好きだからどうしても自分の子供がほしいって。俺の責任だし、ある程度慰謝料みたいなものも渡して別れるつもり。」
重たい話してごめんな、と続けて言いながら下を向いてタバコを咥えた。何かを言おうと思ったが、何も言えそうになくて私は口をつぐんだ。
「いいんだ。今日はさ、みんなの顔が見たくて。」
「…そっか。それ、みんなにはまだ言えないよね。」
「まあ、別れたら流石に報告するよ。ただ、なんとなくお前にはさ、言いやすくて。」
何か、期待をされているのだろうか。フォローも何もできるわけじゃないし、女としての魅力も対してない私が、彼に何かしてあげられるわけでも、してあげたいわけでもないが、そういう話を聞くと同情はしてしまう。しかし、この同情心は彼のプライドを余計傷つけるだけだ。
「それもまあ…タイミングなのかもね。色々。」
「ざっくりいうとそうなのかもな。嫁さんも仕事から一歩引き始めてたから余計に家庭に夢を持ってたみたいだったし。」
「なんで私に話したの?」
「えー…いや、実はさ、俺お前のこと好きだったとかではないんだけど…あの夏のことずっと忘れられなくてさ。楽しかったんだと思うんだ。野球ばっかだった俺を、試合に負けてべそかいてた俺を、あの日近所だからって理由だけで海に連れ出してくれただろ?
感謝してるんだ、今でもすごく。
だから、お礼が言いたくて。」
ありがとう、と続けられて、あの夏の少年が重なる。あの日、あの夏の暑さが一瞬だけ脳に蘇る。塩の匂いのする、あの時間を。
「私は、」
「俺、九州に行くんだ。だから顔見てお礼言いたかったっていうのもあった。打算で友達のお祝いしてずるいけどさ。」
私の言葉を遮って、彼が立ち上がる。タバコはもうほとんどなくて、灰皿に押し付けて火を消したけれど、それもほぼいらないくらいだった。私は話の途中で吸えなくなって半分ほどまだ残っているタバコを片手に、彼を見上げた。コートがかすかな風でひらひらと靡いている。
「私も、忘れないよ。元気でね。」
好きだったなんて、私に言わせない顔で彼は笑ってた。
【秋風】
図書館が好きだった。
いろいろな本が置いてあって、何時間でもそこにいられた。
図鑑も、専門書もさまざまな種類の本が綺麗に並べられ、そこにいるひとはみな、自分の時間を持っているように感じられた。
「何を読んでいるの?」
「…今日は、鳥の本。」
「あなた、昨日も一昨日も来てたわよね。
昨日は動物の図鑑で、一昨日は短編集を読んでいた、違う?」
急に大きな体のお姉さんが話しかけてきて、びっくりした。
大事な本の時間を邪魔されたのが嫌だったけど、それより読んでいた本を全て当てられたことに驚いた。
「なんで知ってるの?」
「おばさんね、あそこで受付してるの。あなたがいろんな本を読んでいるの、ずっと見ていたわ。」
「……」
「本が好きなの?」
「図書館が好きなんだ。ここならゆっくり過ごせる。」
「違う場所だとゆっくり過ごせない?」
核心をつくような質問をされて、唾を飲んだ。
「…ぼくは、足も早くないし、成績も良くないから」
「そうなの?おばさんには分からないわ。」
「ぼくが学校にいると、みんな嫌なんだって。
家にいると、みんな悲しい顔をするから…ここが…」
口淀むのを遮られるようにおばさんはまっすぐな目で見つめてくる。
「そうなのね…。あなたにとってのみんなは、あなたの良いところをなーんにも知らないのね。」
「いいところ?」
「例えば、この鳥はね、飛べないけど海を泳げるの。後、この鳥はダンスができるのよ?派手だからすぐ天敵に見つかっちゃうけど。」
「そうなんだ。」
「私にはね、君はとっても綺麗な羽根があるように見えるの。まだ小さいから、君にも、他の人にも見えないんだけれどね。」
ニコニコと笑みを浮かべながら背中を軽くトン、と叩いて、「ここにあるのよ」と続ける。
「本を読む時とても姿勢が良いところ、図書館に入る時ゆっくり歩いて音が鳴らないようにしているところ、本のページを折らずに丁寧にめくって読むところ。ほら、私が知ってるだけでこんなに綺麗な羽根がたっくさん。」
「……そんなことでいいの?」
「そんなこと?粗末に扱う人も多いのよ。その点、あなたは優れているし、私はあなたのその羽根は”まだ”飛べない翼に見えるの。」
「まだ?」
「そう。まだ飛べないだけで、あなたはいつかどの鳥よりも大空を飛べる立派な鳥になれる…例えだけれどね。」
実際、飛ぶわけじゃないわ。人間だもの。とお姉さんは続けて笑っていった。そして僕の手を取って、カウンターのそばの椅子に寄せてくれた。
覚えていますか?
今でも私は飛べませんが、あなたのおかげでこの翼で大事な人を守れるくらいには大きくて立派な鳥になりましたよ。
【飛べない翼】
ヒリヒリと痛みを感じた気がしたくらい、あの人が焼きついている。決していい思い出では無いのに。消えてはくれない。動揺を隠すように右手で左腕を掴み、力を込めた。
「恋愛ですか〜。もう懲り懲りって感じですね。」
表情もきっとうまくできていない。逃げるように別の話題を振って、その場ではことなきを得た。けれど、ふと思い出しては辛くなる。時間が解決してくれるとは言うが、人間の頭というのはそう簡単にできていない。匂い、音、見覚えのある全てでかさぶたになって治りかけていたそれを掻きむしってしまう。
「…早く、忘れたい。」
逃げるように入った給湯室の壁にもたれかかるように膝からしゃがみ込んだ。視界がグラグラしている、気がする。早く、早くここから逃げ出したい。
【脳裏】
ページをめくって、ページをめくって、それから、本を閉じた。五年間書き残されていたそれは、殴り書きの日もあれば、習字の先生が書いたのではないかと思えるほど丁寧な字の日もあった。その日の彼女の気持ちや、表情が嫌でも想像できてしまう。そもそも、嫌なら読まなければいい話なのだ。こんなもの。
「今更、あなたの気持ちがわかっても救ってあげられないのに。」
日記、と書かれたそれを忌々しく睨みながら、冷めた緑茶を飲み干した。ハンガーにかけられた今の私の胸のように真っ黒な服に袖を通していく。
彼女は今日、箱の中で私と間反対の和服を身に纏い、笑っているのだろう。
【意味がないこと】