「やってしまった…」
しとしとと降る雨を教室の窓から見上げて、溜め息をつく。寝坊した挙句、朝の時点では雨が降っていなかったからと玄関で乾かしていた折り畳み傘をカバンに入れるのを忘れて大学へと来てしまった。今日はゼミだけだから、終わったら帰れる。でも、教室から帰るにはどうしても外は通らなければならない。雨に濡れるのは免れられない。
梅雨の時期は憂鬱だ。髪は湿気で綺麗に整わないし、部屋も教室もじめじめとしている。早く梅雨明けしないかな。そして今降っている雨が授業が終わる時には止んでくれないかなと考えれば、教授の話は半分ぐらいしか身に入らなかった。
授業の終わりを示すチャイムが鳴っても、雨は降り止むことを知らず、寧ろ強くなっているように窓から見えるコンクリートは雨に強く打たれている。…帰りたくないな。このまま待っていたら雨は止むのだろうか。ずっと思考は巡ったまま。
「帰らないの?」
気がつけば、教室には声をかけてくれた彼と私だけ。彼とはあまり話したことはなかったのに、優しい眼差しで私を見てくる。
「雨、止まないかなって思って」
そう言うと彼はスマートフォンを取り出し、何かを調べ始める。
「うーん、今日は止まないって。…どうかしたの?」
「傘、忘れちゃって」
「それは帰りたくないかも」
同感しながら笑う彼の笑顔は素敵だ。目がくりくりとして世の中でいうイケメンという部類に入る。でも、同じゼミに所属しているのにこれがファーストコミュニケーション。ゼミの中のプレゼンテーションで同じチームになるとか、たまたま隣の席になるというシチュエーションを考えていた私。でも、授業のことではなく、傘の話が初めてになるなんて思いもしていなかった。
「寝坊しちゃって、玄関に傘はあったのに忘れちゃったんだよね。この時期なのに傘を持たないなんてバカみたい」
「そんな時だってあるよ」
彼はカバンの中に入っていた黒い折り畳み傘を取り出し、私に渡してくる。
「これ使って?」
「え、でもあなたが…」
「俺が雨に濡れるのはどうってことないよ。苗字さんが風邪を引くほうが俺は嫌かな。だから、使って?」
「…でも」
「はい、使って?」
無理矢理手に持たされた彼の傘と、触れる手。私は狼狽えてしまう。初めて触れる彼の優しさに胸の高鳴りを覚える。
「…明日、学校いる?」
「いるよ?」
「明日絶対返すから!…あの連絡先…」
「あぁ、そうだね」
連絡先を交換する。彼の名前は優しさで溢れる性格をそのまま表されている。
「明日、連絡するね。傘、お借りします。本当にありがとう」
「連絡、待ってるね」
この胸の高鳴りが恋だと知るのは梅雨が明ける頃。
今にも雨が降り出しそうな曇り空が朝から広がっている。最近は青空が広がる暑い日が多かったのに。天気は自由すぎる。晴れ晴れとしていると思えば、急に雨が降る。気分屋で自由で、俺にはないものを持っている。天気のように自由になれていたら、どんなに楽なのだろう。もうずっと何かに縛られるかのように生きてきた俺には羨ましく思う。
「くしゅんっ」
「風邪?ブランケット要る?」
「ありがとう。急に天気が変わるから身体がびっくりしちゃうよね」
一緒に出かける予定だったのに、天候は予定までも崩す。珍しく揃った休みの日だというのに、野外でのデートはお預けになった。昨日までは準備万端と意気込んでいた俺の勢いまでもをどこかへ連れて行った。
「また今度、行こうね」
「次、いつになるか分からないじゃん」
「拗ねないでよ、きっとすぐだよ」
「今日だって、久々に休みが揃ったのに」
「一緒にいれるだけで幸せなんだから。二人で映画でも観る?」
「…観る」
ひとつのブランケットを分け合い、ソファーに二人並んで座る。少しだけ寒かった身体に彼女のぬくもりを感じて、心までもをあたたかくさせる。さっきまで天気のせいで台無しになったデートのことは忘れられないけれど。
動画のサブスクリプションにログインして、あれやこれや観たい映画を話し合う。少し部屋を暗くして、再生ボタンを押せば、一気に映画の世界に入り込んでいく。
『Will you marry me?』
今日彼女に伝えたかったことだ。綺麗な星空の下で、用意しておいた指輪を差し出す。ベタだけど、それぐらいでいいんだとシュミレーションまでしていたんだ。
でも、その予行練習なんてどうでも良くなる。天気に左右される感情ではない。一緒に住み始めてからずっと考えていたことだ。
英字のエンドロールが流れる。不幸な人生から幸福へと変わっていくあたたかくも頑張ろうと思わせてくれる話はとても面白かった。
「面白かったね」
「うん」
「…どうかした?」
「本当は星空の下で言いたかったんだけど」
「うん?」
「天気じゃなくて、言いたいって思った時に言うべきだって気づいた。…ムードもなにもないけど言っていい?」
「…うん」
「俺と結婚してください」
天気の話なんてどうだっていいんだ。俺が話したいことはあなたとの未来の話。
はぁはぁと息が上がる。どこまで来たのだろう。暗闇の中をただ必死に逃げ続けるのに、終わりは見えない。この感覚と一生付き合っていかなかればならないのかもしれないと覚悟しても、毎回毎回この場面に遭遇すれば、尋常ではない汗を伴う。そして、生きてくれと願うと同時に目が覚める。
――これは夢だ。
そう理解していても、あの時の悍ましさを夢と共に思い出す。そして夢の中でぐにゃぐにゃとした得体の知れない人のような人でないものは俺を『人殺し』と言う。
お前らは俺の何を知っている。本当のことを知っているのか。そう問いただそうとしても、自責の念は口を開くことを許さない。だから目が覚めるまで、現実に戻るまで逃げることしかできない。…そう、俺はどこまでも弱い人間だ。
「何してるんですか!」
夢の中で彼女と出会ったのは初めてだった。目の前に光がさしたかのように彼女という存在が、俺を張りつめた緊張から解放される。もう大丈夫だと思う俺がいる。
忘れない。何度、夢の中で逃げている弱い俺がいても、それでも、忘れたくないあの日のことは。
差し伸べられた彼女の手を掴むと、大きな光が俺たちを包み込みやがては真っ白で何も見えないように世界は変わった。
「今日、夢の中にお前が出てきたんだ」
「そうなの?」
「名前が…、名前が助けてくれたんだ」
「いつも助けてもらってるから、夢の中であなたにお礼をしたのかな」
「…俺はなにも」
「そんなことない。出会ってくれてありがとう」
過去のこと、忘れはしない。けれど、前に進む。彼女と。
「ごめんね」
その言葉が聞きたいわけでも、なんでもない。じゃあ、私はどんな言葉をかけてもらったら目の前にいる彼を許せるのだろう。
「怒ってるよね…?」
私の顔色を窺いながらも、彼は申し訳なさそうな顔をしているのには変わりない。そんな顔が見たいわけじゃない。ただ、笑って過ごしたいのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
「ごめんね、が聞きたいんじゃないの…そうじゃなくて、私もよく分からなくて…なんて言ったらいいか…」
目頭が熱くなる。泣きたいわけじゃないのに。込み上げてくる涙に耐えられない。右目から意識せず流れる涙は、悲しいから?怒っているから?自分自身でも全然分からない。
仕事が終わったら食べようと思っていたプリンは、帰宅して冷蔵庫を開いたらなくなっていて、空の容器がゴミ箱の中にあった。私よりも早く帰っていた彼に聞けば、小腹が空いて冷蔵庫を開けたらプリンがあって食べてしまったと言った。その『聞く』時の声色は、いつもの私よりもトーンは落ちていたのも分かる。あると思っていたものがなくなっていた虚無感を彼にぶつけるかのように。でも、その声のトーンによって、落ち込ませる気もない愛する彼を元気がなくさせてしまった。帰宅した直後はおかえりといつもと変わらない笑顔だったのに。プリンを食べてしまったのは彼だけど、私は罪悪感を抱く。
だって、私は彼の笑顔に助けられてきたから。
「ねぇ、名前?」
「…なに?」
「名前のことだからさ、むじいこと悩んでるのかもしれない。そう考えさせちゃったのも、プリン食べちゃったのも全部含めてごめんねって言いたいんだ」
何が、言いたいんだろう。
「…だから、ね?俺、コンビニでプリン買ってくるから待ってて!」
「え?」
「ふたつ!2つプリンを買ってくるからさ、一緒に食べよ?」
彼は2つを示すようにピースした手を私に見せてくる。眉はまだ下がったままだけど、彼はこんな悩む私と一緒に前に進もうとしてくれる。
「うん、一緒に食べよう。…私もコンビニ行く」
「夜遅いから手、繋いで行こ」
帰ってきたら、一緒に向かい合ってプリンを食べてる姿が目に浮かぶ。その時、私たちは2人で笑いあっている。
こうして彼は、いつも私を笑顔にさせてくれる。いつどんな時でも。そんな彼が大好き。