わたくし、毎月七日の午後七時にのみ人の姿になれる人魚なのでございます。
――と店を訪れた老婦人が言うものだから、私は思わず手元のコーヒー豆をぶちまけてしまいそうになった。
「へ、へえ、人魚。そりゃまた……シンデレラのような話ですね」
「異国の美女に例えていただけるなんて光栄です」
にこりと婦人は微笑む。私は動揺を押し隠して、「カフェラテです」と注文の品をテーブルの上へと置く。
「この喫茶店は海からいつも見えるので、いつか立ち寄ってみたいと思っておりましたの。でも、閉店時間がいつもお早いでしょう? このままではいつまで経ってもあなたとお会いできないから、思い切ってお電話してみた次第です」
「午後七時に来たいから店開けとけと言われるのは初めてでしたよ」
「ふふ、わたくし、あなたに初めての経験をさせてしまったのね」
とても上品に微笑みながら老婦人は白いカップへと口をつけた。どこからどう見てもただの人間にしか見えない。だがそれが、私の興味をさらに引き立てた。
人魚を名乗る老婦人。彼女が電話をしてまでこの店に来た理由。
「次の満月の夜、また来ても良いかしら」
婦人がそう言うので、私は間髪入れずに頷いた。
「もちろん。何度でもいらっしゃってください。こんな店で良ければ、ですが」
「この店だから来たいのよ」
そう言われてしまっては、相手が気違いだろうが人魚だろうがどうでも良くなるというものだ。
我が家には羽の生えた丸餅がいる。
無論、「丸餅」というのは比喩だ。丸餅のような丸い体の、どの動物図鑑にも載っていない動物がいるのである。色は目に優しい淡い黄色、まんまるの黒目に滑らかでふわふわとした肌触り。性格はまるで猫で、作業している手元にどーんと寝そべったり、朝方に布団の上にダイブしてきてポンポンと短い手で布団を叩いて起こしに来たりする。
この「まるもち」の背中には羽がある。鳥の翼ではなく虫の翅に近いが、デフォルメされているかの如く単調で丸みのある白い羽で、その図体のでかさのわりにとても小さいので飛べるわけもない。
じゃあ何のためにあるんだろうかと思いはするものの、そんなに気にはしていない。
特に理由もなく頭を撫でてやれば、その羽はパタパタと動く。
花瓶を割ったり庭の花をつぼみのままもいでしまったりした時は、隠れでもするかのように体にぴったりと張り付かせる。
こちらが落ち込んでいる時は短い両腕と一緒に懸命に広げて、励まそうとしてくれる。
「お前の羽は、きっと飛ぶためのものじゃないんだよな」
そう言ってやれば、「まるもち」は嬉しそうに羽をパタパタと羽ばたかせるのだ。
クジラは空が好きだった。
息継ぎがてら見上げる空は、海よりも優しい青色をしていて、流氷よりも柔らかい白を浮かべている。あの中を泳ぐことができたのならどれだけ心地良いだろうかといつも思う。
きっと夏の海ほどに暖かいのだろう。水圧代わりの風は気持ち良さそうだ。そして何より、どこまでも空の青は続いている。陸地がないのだ。浅瀬もない。座礁の心配がない上天敵もいない。
ふふ、とクジラは笑った。そうしてもう一度空を見てみようとして、海面に顔を出してふしゃあと潮を吐いた。
すると、潮が見る間にいくつかの風船へと形を変えた。まるでクジラの背から生えているかのように、たくさんの風船がふわりとクジラを釣り上げた。
クジラは大きく尾を海面に叩きつけてみた。
――浮いた。
クジラはどんどんと高く上がっていく。やがてその体が白く、ふわふわになっていく。
「くじら雲だ!」
クジラは笑った。ふしゃあと吹いた潮は小さな魚へと姿を変え、クジラの隣で群れを成した。
くじら雲はゆったりと空を泳ぐ。どこまでもどこまでも、泳いでいく。
空はどこまでも青かった。
最近寒くなってきたので、衣替えなるものをしてみることにした。普段は落ち着いた茶色なのだが、ここはイメチェンも兼ねて思い切ってド派手にしてみようと思う。
「え? あれ?」
すると、毎朝日が昇るより早く厩舎に来る馴染みの人間が、私を見て素っ頓狂な声を上げた。
「し、しまうまが! しまうまがいる! なんで?!」
――馬小屋に突如現れたしまうまは、その牧場を即座に有名にしてみせたという。
飼育員の最近の悩みは、今後の降雪でしまうまが雪に紛れて見えなくなってしまう可能性があることだ。
そのひとはいつも、近所の神社の境内の中にいた。
「やあ、坊」
坊と呼ばれる歳でもなくなったのに、そのひとは相変わらず私のことをそう呼んでくる。十代後半頃から気恥ずかしさと不満とにふてくされたものだが、今や二十代すら名乗れない歳だ、突っ込む気さえ起きなくなるというものである。
幼い頃の私がこのひとに尋ね、それに律儀に答えてもらったところによれば、どうやらこのひとはこの神社の関係者らしい。なるほど確かにいつも白の上衣に水色の袴を履いている、と当時の私は素直に納得した。
「結婚するんだ」
とわたしは告げた。
「相手のご両親の家の近くに住むことになった。今日、引っ越す」
最後の日なのだ、とわたしは思う。
高校の入学式の前も、部活の大会の前も、大学入試の前も、定期試験の前も、企業面接の前も、入社式の前も、初デートの前も、私はこの神社へと足を運んだ。何かというとここに来るのが私の定番だった。それが終わる。
「終わるんじゃない、始まるのさ。坊がここに来る時はいつもそうだったろう?」
まるで私の胸の内を読んだかのように言うので、そうか、と私は素直に納得した。
なら、今回もきっと「始まり」なのだろう。
「……行ってきます」
言えば、そのひとは数十年来変わらない顔で「行ってらっしゃい」と歯を見せて笑った。