《声が聞こえる》
僕は、夢を見ているのか。
そこは木漏れ日が差し込んでいるような、優しい光溢れる空間だ。
周りには、何も無い。空も、自分の身を支える地面さえも。
しかし、恐怖や疑念という負の感情は全く湧いてこない。
ふわふわとした感覚。まるで暖かなものに包まれて宙に浮いている、そんな不思議な感覚だ。
その心地好さに身を浸していると、何処からか声が聞こえてきた。
「…あなたはいつもいつも頑張って、周りに気を使って。尊敬するけど、倒れないか心配になる。」
聞こえてきた声は、僕への気遣いと慈しみに満ちている。
この感じは…、そうか。今僕を包みこんでいる、この暖かい感覚そのままだ。
今まで感じたことの無いような、しかし懐かしさすら心を過るような暖かさ。
ずっと揺蕩っていたくなる幸福感の中、また同じ声がした。
「本来厭うはずの私にまで、あんなに優しくて。物凄く嬉しいけれど…無理はしないでね。」
厭うはず…そうか。この声は…。
銀にも見える、綺麗に靡く白い髪。星の輝きを内包したような、赤紫の瞳。
これは、闇に魅入られた者が持っていた色と酷似している。
なのに貴女の行動からは、全く悪意が感じられない。
僕の信念も、それ故に先走る癖も何もかもを飲み込んで、ずっと傍で微笑んでくれていた。
貴女を疑った僕を毛程も否定せず、僕に命を預けるほど信頼を寄せてくれた。
そう。あの旅の仲間の心の中に住んでいた、僕を信じてくれた彼女のように。
「…い…き。だ…すき。…だから。」
え? 何と言ったのか?
その言葉は囁きよりも密やかで、遠く耳の傍を擽るだけだった。
それでも、思った。
もう一度、聞かせてほしい。
その言葉を、貴女の声で。もう一度。
ふわふわと宙を揺蕩うような感覚の中、さらりと僕の髪を撫でる暖かい気配。
そっと目を開けると、そこは薄暗くなり始めた自宅の書斎で。
そうか、僕は書類の整理中にうたた寝をしてしまっていたのか。
最近は仕事量が増えているとは言え、効率の悪い事をしてしまった。
少しでも己の目を覚まそうと眉間を指先で解していると、肩に暖かな重みを感じる。
その重みを手にすると、それは彼女が使っているブランケット。
ブランケットを、そっと指で撫でる。
その柔らかさの中に夢の中の懐かしいような暖かさを思い出し、僕の頬は自然と綻ぶ。
僕は眠りの中の幸福感を再び心に満たしながら、丁寧にブランケットを畳んだ。
《秋恋》
太陽が空の上にある時間がこれから短くなっていくという日。
空には、刷毛で白を撫でたような雲がたなびいている。
私は、一面に咲くコスモスの花の中でぼんやりと考えていた。
赤、白、桃、黄。そして葉の緑。とりどりの色が、風に吹かれてふわふわと揺れている。
宇宙、の名をもらった花。
宇宙の中に世界があるように、実はコスモスみたいに物凄くたくさんの世界があるのかな。
私の元いた世界とこの世界のように、絶対に交わらない世界、宇宙がたくさんあるのかな。
私はとんでもない偶然で、彼の世界に魂だけ辿り着けた。
ただ、髪と瞳の色はかつて闇に魅入られてその復活に力を貸した者とそっくりで。
その人は、闇から手を引いたら髪も瞳も元の色に戻っていた。
だからこそ、私は初めて出会った彼に疑われた。闇に魅入られた者だ、と。
それでも彼は、私を監視しながらも普通の人として扱ってくれる。
悪を許しはしないけれどその奥にそれ以上の優しさを持つ彼は、私が知っていたよりも芯が強く暖かい人で。
一緒にいるうちに、もう引き返せないくらいに心を奪われてしまった。
私、本当にこの世界にいていいのかな。
彼に闇の者として処されるのは構わない。けれど、疑われたまま嫌われて生きていくことになったらどうしよう。
私は心の重みに耐えかねて、コスモスの中に腰を下ろした。
長く伸びた茎の頂点で、ふわふわと揺れる花達。その隙間から見える、青い空とたなびく白い雲。
これも、秋の気配が呼ぶものなのかな。
空から刺す光の眩しさに目を細めると、目尻がほんの少しだけ湿る。
すると、離れたところからざわざわと通路にはみ出たコスモスをかき分ける音が。
その音は、徐々にこちらに近付いてきて、私のすぐ近くで止まった。
その方向に顔を見上げれば、不安そうな彼の顔。
どうしたのかと驚いて彼を見ていると、その顔はホッとしたような笑顔に包まれた。
秋の空と満開のコスモスを背負った彼は、優しい笑顔でそっと私に手を差し伸べてくれた。
ずっと先の事は、分からない。
それでも今、私はこの手を取っても許されるんだ。
私は私の出来る事をして、この想いを少しずつ未来へ繋げていこう。
この世界にいられる限り。
私はそう決心して、暖かい彼の手を取り立ち上がった。
《大事にしたい》
彼と帝都を散歩していたら、通りに少し古いけれど居心地の良さそうなお店を見つけた。
「古書店…。」
落ち着いたデザインの看板には、お店の名前と”古書”という文字が。
建物の雰囲気の良さもあって、私はそこが気になってしまった。
「いいですね。どんな本が置いてあるか興味があるので、入ってみましょうか?」
お店に惹かれていた私に気が付いて、彼が声を掛けてくれた。
彼も読書が好きな事もあるし、私は一も二もなくその提案に頷いた。
「はい、私も色々見てみたいので。」
優しく微笑んでくれた彼と一緒に、古書店に入る。
店内は薄暗くて、それでも換気が行き届いた清潔な空間で。
天井近くまである本棚には、歴史を感じさせる重厚な本から割と最近の文庫まで色々な古書が並んでいた。
奥の方にいる眼鏡を掛けたお爺さんが、ゆったりと椅子に座りながら丁寧に本の表紙の乾拭きをしている。
その手仕事を見ていると、このお店の本が大切にされている様子がはっきりと分かる。
だから過ごしやすい空間なんだなぁ。
「失礼します。ご主人、しばらく店内の本を見せていただいてよろしいでしょうか?」
彼がそう声を掛けると、お爺さんはこちらを向いて目を細めて答えた。
「ああ。ゆっくりと見ていきなされ。」
その返事に、彼がありがとうございますと礼をして答える。
私も一緒にお辞儀をすると、お爺さんはうんうんと頷いて、また本の手入れに集中し始めた。
「それでは、それぞれ見たい本を見て回りましょうか。」
そう提案する彼に私も賛成して、各々見たい本の棚に移動する。
こういうところでは、私は昔の絵本や料理のレシピ、神話や伝承の本に心惹かれる。
あちこちの地方の特色や時代ごとの表現など、同じジャンルでも読み比べると差があって面白いから。
絵や写真の表現も独特の特徴が出たりして、それも見ていて楽しいんだよね。
そんな感じで、本棚の色々な本を見ていた。
こちらでもやっぱり、童話や伝承の原書は残酷な表現もしっかり描写してある。
料理レシピは、地方ごとの調味料や調理過程が現代版は帝都でも調理しやすい簡略化したレシピになってる。
どの本も丁寧に手入れされていて、古いのに本当に読みやすい。
ゆったりした空気に満ちていて、いるだけでも安心できる。
私は、夢中になって本に目を奪われていた。
そしてふと気が付いて壁の時計を見ると、優に1時間は越えていた。
しまった! 夢中になり過ぎて、彼を待たせちゃってるかもしれない!
私は読んでた本を棚に戻して、慌てて、それでも走り回らないように彼を探した。
するとお店の奥、お爺さんの座っているところで、別の本棚の間から少し焦ったような彼が現れた。
「ごめんなさい! 夢中になり過ぎちゃって…。」
「すみません! 待たせてしまいましたか?」
お互いの顔を見ながら、二人同時にそう言った。
私もびっくりしてぽかんとしてしまったけれど、いつもは冷静な彼もそうだったのかきょとんとした顔で私を見ている。
私達は、偶然同時に同じ事を考えてたんだ。
二人とも本が好きで、このお店を気に入って、ふとお互いを思い出すタイミングも一緒。
それに気が付いた私は、じんわりするような暖かい幸せに包まれて。
そして、お互いに顔を見合わせてくつくつと笑い出した。
その奥では、お爺さんが私達を慈しむような目で見つめていた。
「よかったら、また遊びに来なされ。」
お爺さんが、柔らかい声で言ってくれた。
「はい、是非またお伺い致します。」
彼が笑顔でそう答え、私と一緒にお辞儀をする。
そうして、何冊かの本をお会計してもらって私達は古書店を出た。
帰り道は、どんな本に心惹かれたかを語り合う。
秋の柔らかくなった空色が、彼の笑顔に光を照らす。
ほんの何気ない日常の、それでも貴重な時間。
ずっと大事にしたい、私の宝物。
《時間よ止まれ》
申し訳ありません。今回も保全させていただきます。
いつも読んで、いいねを下さっている皆様には本当に感謝しております。ありがとうございます。
《夜景》
保全しておきます。
下に、昨日保全し損ねていたものを載せておきます。
読んでいただけると嬉しいです。
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《花畑》
晴れた日の午後。
執務室のドアのノックに応えて出ていた彼が、頭を抱えて戻って来た。
「どうしたんですか?」
彼が態度に出している時はそれなりに話して大丈夫な内容がほとんどなので聞いてみると、
「いえ、先程重要書類を持ち出して脱走を図った兵士見習いを捕らえたそうなのですが。」
聞けば、その兵士見習いは書類と共に白昼堂々逃走をしたらしく、今まで捕物劇が繰り広げられていたとか。
いわゆるスパイなのかな。
それにしては盗んだのは機密ではなく重要書類だし、逃走方法は雑だし、なんだかなぁ。
なんて考えていると、彼が更に事の顛末を話してくれた。
「その見習いなのですが、民家の庭に踏み込んだ挙げ句にリコリスの花畑で顔面から派手に転倒してしまいまして。」
リコリス。
マメ科のリコリスもあるけれど、この季節の花畑といえば。
「…まさか葉のないリコリスですか?」
「そのまさかです。」
あー! まさかの彼岸花の方!
花や茎にもアルカロイドが含まれる、あっちですか!
「おかげで民家への補償もですが、よりにもよってその見習いは肌が弱かったらしく、折れた茎の汁が触れた顔の皮膚が齧れてしまって治療しながら尋問する羽目になっていると。」
彼は困ったというより、呆れてたのね…。
まあ、その気持ちは分かるなぁ。
人様の庭に踏み込んで花畑を踏み荒らした上に転倒して汁で肌を齧らせるとか、そのお家の方は災難でしかない。
本当に早くその見習い兵士が捕まって、よかった。
「この後は尋問内容の確認と見習いの処遇、被害を与えた民家への対応が入ることになりました。」
少し萎れた感じの彼に、私は心から
「お疲れさまです。待ってますね。」
と伝えると、彼は
「ありがとうございます。手早く終わらせてきますよ。」
と、ふんわり笑って答えてくれた。
スムーズに彼の業務が進みますように。
皆さん、綺麗な花でも触るなら気を付けてくださいね。