《夜明け前》
ここのところ気温の変化が激しいからか、何だかメンタルが落ちてきてる。
何か不満があるわけじゃない。それどころか、彼との生活は毎日が嬉しくて楽しい事ばかり。
でも、こればかりは理由があるわけでもなく。
今日は、月のない夜。
昼間の汗ばみそうな陽気から一変、緩やかに吹く夜風は冷たいぐらい。
それでも少しは気分転換になるかと、私は庭に出て夜空を見上げた。
月無し夜は、星灯りはあれど鬱蒼とした雰囲気が漂う。
「…夜明け前が一番暗い…」
私は気持ちの落ち込みに任せ、何故か頭を過った言葉を思わず口にした。
すると、背後からふわりと柔らかいショールに肩を包まれた。
「どうしましたか? 風邪を引いてしまいますよ。」
振り向けば、彼が優しい笑顔でそこに立っている。
彼は私の肩に掛けたショールが風で飛ばないように、肩口でショールを摘んでくれていた。
「ごめんなさい、ありがとうございます。」
彼にお礼を言って、掛けてもらったショールを胸の前で押さえる。
さあっと吹き抜ける冷たい夜風に、肩のショールも、彼の足元の草もさらさらと靡く。
「謝らなくていいですよ。」
彼の、普段よりも柔らかい声が私の耳に届く。
心配、掛けちゃった。申し訳ないな。
元気のないところを見せて、彼に心配は掛けたくない。
でも、どうしても今はその元気を出す力が湧いてこない。
力なく俯いてる私に、彼はそっと話し掛けてくれた。
「夜明け前が暗い、と言いますが。」
私は、何とか気力を振り絞って顔を上げた。
そこには、真剣に私を慰めてくれている彼の優しい顔があった。
「東の空を見る事が出来れば、夜明け前から空は白んでいます。
暗いうちから正確に東を向く為には、月の満ち欠けを読めばいい。
月がなければ、星の光を探ればいい。」
それは、とてもあなたらしい言葉だった。
どんな暗闇の中でも、置かれた状況を把握してそれに対応した行動を取る。
何事にも挫けず、押さえつけられても折れずに正義を貫いたあなたの目には、夜空の星座もはっきりと映し取られていたんだろうな。
彼は今、私を元気付けようとしてくれている。
私を見るその眼差しは、柔らかな暖かさに満ちていて。
彼の言葉と優しさに、心がほこほこと暖かくなる。
私は、彼の顔を見つめながら少しずつ上を向いてきた自分の気持ちを噛み締めていた。
すると、彼はほんの微かに目元を赤らめながら囁いた。
「…もしもあなたが星の光すら見失ってしまったなら、僕が代わりに星を読みますから。
だから、落ち込んだ時はいつでも頼って下さい。」
本当にあなたは、いついかなる時でも希望の光を見失わない。
そんな強いあなたの光に導かれて、私はここにいる。
今の私には、いつでも夜明けへの光がそこにある。
何故か冷えて落ち込んでいた私の心は、もう暗闇の底にはない。
冷たい夜風の中、肩を暖めてくれるショールがふわりと靡く。
「はい。」
私は、心からの最高の笑顔で彼に頷いた。
《本気の恋》
今日も私はいつものように、本部で政務に励む彼に連れて来られている。
私が闇の眷属に魅入られし者として、生活を共にしながら彼に監視されているから。
それでも私はこの世界に来る前からずっと彼のことが好きだったので、監視とは言え一緒に暮らせるのは物凄く幸せで。
その上、真面目で実直な彼はそんな私を人として丁寧に扱ってくれてる。
だから毎日、ますます彼のことが好きになっていった。
今は、お昼時。
彼と一緒に食堂でご飯を食べていると、テレビから観光名所特集が流れてきた。
その名所の中に、夏の初めに彼と一緒に行った蓮の池が紹介されていた。
夜明けから午前に、小さくてもはっきりした音を鳴らしながら花開く蓮の花。
向かいに座っているあなたも、その映像に目を止められている。
あの夜明けの光に包まれた池の畔であなたと一緒に見ていた蓮の花がポンと音を立てて咲いた瞬間、私はつい嬉しくなってあなたへ向き直りガッツポーズをしてしまって。
そんな女らしくない行動を取ってしまった私を見たあなたは、花開く蓮の邪魔をしないように声を潜めてくつくつと笑いだして。
そのあなたの無邪気な心からの笑顔を目の当たりにして、私の胸にもポンと新しい花がまた咲いた。
あの時は照れくさくて恥ずかしくて、思わず叫びそうになるのを下唇に力を入れる事で何とか堪えてた。
すると彼は笑顔のまま手を『すみません』の形にしたと思うと、また無言になり蓮の開花に目を向け始めた。
湿原地帯の視察がてらではあったけれど、着いてくる私のことも気遣って色々な場所を見せてくれたあなた。
いつもは人当たりのよい笑顔だけれど、不意に無邪気な笑顔を見せてくれるあなた。
今の自分の立場を考えれば、これだけでも幸福だ。
それでも想ってしまう。
もっとあなたの心からの笑顔が見たい。
あなたを喜ばせたい。
いずれ離れることになるだろうと分かっていても、ずっとあなたのそばにいたい。
テレビに映る池一面の蓮の花を見ながら自分の欲張りな願いに思いを馳せていると、向かいの彼が私を見て言った。
「この蓮の開花は見事でしたよね。また来年、次は視察抜きで一緒に見に行きましょうか。」
私は、息を飲んだ。
それは、世間話のようなさらりと何気ない一言のような口調で。
彼の表情は、ふわりとした優しい笑顔に満ちていて。
当たり前の事のように、あなたは私との未来を考えてくれている。
いいの?
ずっと、あなたのそばにいても。
私ばかりが嬉しくて、本当にいいの?
思わず、私はこの気持ちを告げそうになる。
でも、本気だからこそ言えない。
その一言がきっかけで今の安らぎが壊れて、この幸せが取り戻せなくなるかもしれないから。
私はその言葉を飲み込んで、今伝えられる最大限の気持ちを彼に伝えた。
「はい。また来年、一緒に蓮を見に行きたいです。」
《カレンダー》
「すみません。よければですが…この日に印を付けてもいいでしょうか?」
ある日、彼女がカレンダーを指さしておずおずと僕に聞いてきた。
「ええ、構いませんよ。」
闇の眷属に魅入られた者として彼女を監視している僕としては、その予定などを把握出来るのはむしろ都合が良い。
当時はそのような考えもあって、彼女の希望を受け入れた。
すると彼女はそれを聞き、それは華やかな笑顔を僕に向けてきた。
「ありがとうございます! じゃあ、失礼しますね。」
先程のおずおずとした態度から一変、心の底から嬉しそうな様子になると、カレンダーを捲ってある日付に赤いペンで花丸を書き込んでいた。
「一体その日に何があるのですか?」
不思議に思い、赤いペンに蓋をした後も嬉しそうにしている彼女にそれを尋ねるも、
「うーん…うん、秘密、です。」
と、少しはにかんだ様子でそう答えるだけだった。
今になれば分かる事だが、その日は彼女にとって本当に嬉しい特別な日なのだろう。
あの笑顔は、彼女が心底喜んでいる時の表情だ。
何か悪事を企んでいるわけでも、それを実行しようと目論んでいるわけでもない。
しかしだ。ならば、尚更分からない。
今日、壁のカレンダーを見る。
彼女の書いた花丸の日付は、3日後。
果たして、その日に何があるのか。
カレンダーの前に立ち、愛おしそうにその花丸を指で擦る彼女にまた同じ質問をするも、心の底から嬉しそうに、それでもはにかんだ様子で、
「…今はまだ、秘密です。」
そう答えられるだけだった。
その後、紆余曲折を経てその日付の秘密を知る事になる。
それはとても信じ難く、しかしそれを遥かに上回る喜びに満ちた日であった。
《喪失感》
皆で力を合わせ邪神を倒し、過去に喪われた全てを取り戻したあの時。
旅の仲間の心に住まう貴女が、元の世界へ帰る時が来た。
旅の仲間は、言っていた。
自分が貴女を呼んだのではない。
貴女が皆を、僕達を求めていたのだ。
探している大切なものは、きっと貴女の世界で見つかる。
だから、ここで別れよう、と。
彼女がその時に何を思ったのか、僕には知る術は無い。
それでも僕は心の底から彼女の幸せを願い、笑顔で今までの礼と別れを告げた。
他の仲間達も同じ気持ちだったのだろう。皆思い思いの言葉で彼女を労い、幸せを祈る言葉を伝えていた。
遥か遠い、決して交わらぬ世界。
そこで生きる貴女は今、幸せだろうか。
探しているであろう大切な何かを、無事に見つけ出せているだろうか。
闇の眷属に蹂躙され疲弊しきった帝国の復興に従事しながら、僕は彼女の幸せを願っていた。
人手も足りない。恵まれぬ環境下での日々の生活が如何に過酷かの経験も無い。
まずはそれを埋めるべく、僕は住民区の土木や建築の作業に加わっていた。
軍での訓練の経験も活き、作業を順調に進めながら色々な人と交流を深めた。
そこでやはり実感したのは、全ての人々の生活を良くするならば然るべき地位に就く必要があるという事。
旅の仲間にその地位が向いていると言われた時は、自分にその資質があるとは感じられなかった。
しかし、そのような弱腰では何も解決はしない。
幸いな事に、僕の家系は代々帝国に仕えてきた家柄だ。一定の地位に就く資格は十分に備えている。
そして先の邪神討伐の件もあり世間の目も上々な事も手伝って、無事に帝国の上層部に就く事が出来た。
ここまで来れたのは苦しんでいる帝国の人々を救いたいという僕自身の希望も勿論あるが、かつての旅の最中に貴女が伝えてくれたたった一言が支えにあったからだ。
『信じてます。』
未だ帝国の術に操られ邪神復活への手助けをしてしまうのではないかと己を全く信じられなくなっていた僕に、旅の仲間の中に住む貴女は彼の中で真っ直ぐに答えたそう。
それだけではない。
彼女は、僕が今まで受けた心の傷から無意識に敵にそれを爆発させてしまうという暗く重い部分まで受け入れてくれた。
旅の仲間が言うには『むしろそこがいい』との事だったらしく、他の顔ぶれは入れ替われど戦いはずっと僕に任せてもらえていた。
どうしてそこまで僕を受け入れてくれたのか、その理由は全く分からない。
それでも無条件で僕を信じてくれる人がどこかにいるという事実は、家族も乳母も全て喪った僕には途轍も無く大きな支えだったのだ。
そして、あの別れからちょうど一年が経過した時。
僕は、気が付いてしまった。
そのどこかというのは、決してこの世界ではないのだと。
貴女がどこかで呼吸をしていても。何かを見ていても。
咲っていても。
強く望んでも、それを見て感じる事は叶わないのだと。
知っていたはずだ。分かっていたはずだ。
理解していた上で、あの時僕は笑顔で彼女の幸せを願い、別れを告げたはずだ。
それだけではない。そもそも彼女とは決して出会う事は叶わないのだ。
旅の最中も仲間の口を借りて話せただけで、姿形すら知らない。
なのに何故。どうして今、それに気が付いてしまったのか。
僕の目からは、涙が一粒零れた。
それは、心の奥底から溢れ出した喪失感の代わりのように。
たった一粒。
だが、喪った大事な人達を悼んで以来泣く事がなかった僕にとっては大きな一粒だった。
その一年遅れの喪失感から、更に二年後。
彼女を名乗る少女が現れた。
ただし、闇の眷属に魅入られた者と同じ髪と瞳の色を持って。
どこからその情報を手に入れたかは知れないが、もし帝国を、世界を害しようものなら容赦はしない。
しかしその行動からは、全く忌まわしさを感じられない。
それどころか、僕に対する真摯な信頼さえ感じられる。
どうしてそこまで、この僕を信用するのか。
帝国復興への忙しなさか賑やかになった生活故か、心の喪失感は薄れてきている。
今は帝国の、世界の未来を守るため、僕は自らの信念を直走る。
気が付けば必ず、その少女の笑顔を連れ添って。
《世界に一つだけ》
ポケットから取り出した、銀杏の葉。
今日彼が私の髪に付いてたこの葉を、そっと摘んで取ってくれた。
私はついそれを受け取って、ポケットに入れてしまった。
彼が私の頭に手を伸ばした瞬間が嬉しくて、それを忘れたくなくて。
家に着いてすぐ、私は銀杏の葉を大事に古紙に挟んだ。
そして、上からそっとアイロンで熱を与えつつ押さえる。
銀杏の緑をそのままにするため、丁寧にムラのないように熱を加えて平らにしていく。
そうして綺麗に水気が抜けて厚みが取れた銀杏の葉を、綺麗な紙に乗せて糊付けする。
まだ緑の銀杏の葉によく映える、薄いレモンイエローの紙。
糊が乾いたら、それを透明なシートで包んで上の部分にリボンを付ける。
リボンは、赤。あなたの髪色にとても良く似た、暖かい赤。
出来上がった栞を見て、私は目を細めた。
あの時ほんの少しだけ、彼の指が私の髪に触れた。
この緑が、その嬉しさをそのまま残してくれている。
世界で一つだけの、形になった大事な私の想い出。