《上手くいかなくたっていい》
今日も空は青く、白い入道雲は天頂まで達するかの勢いでその高さを伸ばしている。
いつもと違うのは、風の強さだろう。普段と比べるとまあまあの風力で、木々の枝葉を大きくさざめかせている。
書類も一通り片付き、座りっぱなしで凝った背中を伸ばす。
流れで首を回していると、窓の向こうで彼女が庭の木の上をしげしげと眺めている。気分転換だろうか。
彼女の視線は大きな枝の辺り、大体高さとしては彼女が手を伸ばして更に上にある位の所だ。
ちょうど窓からはみ出す位置なので何があるのかは分からないが、余程興味を惹かれる物があるのか、少しずつ移動をしながら同じ地点を観察している。
何を見ていたのか、後程お茶を飲みながらゆっくりと話を聞こう。きっと楽しい物に違いない。
そんな事を考えていると、やにわに彼女がその地点を見つめながら背後へ歩を進めた。そのまま視線とは反対側の窓の死角へ姿を消した。
何があったのか?
疑問を抱いた瞬間、彼女が猛ダッシュで視界に飛び込み、跳躍して木の枝に右手を伸ばした。
跳躍の頂点で彼女の手はしっかりと枝を握り、その身体が枝にぶら下がる形になっている。
続いて左手を振り子のように大きく振るうと、枝の大きな所を伝って更に上の枝へと進んでいく。
「はぁっ?!」
突然の事に、変な声が出た。何をしているのか、あの人は。
僕は慌てて立ち上がり、大急ぎで庭の木へ走った。
落ちたりしたら、枝が折れたりしたら。着地を誤ったら。
件の木に辿り着けば、彼女は左手をワンピースのポケットに入れながら頭上の枝の端寄りにぶら下がっていた。その高さは彼女よりも頭一つは身長のある僕がようやく手が届くかどうかの所だった。
左手を空けたところで、彼女の体重が地上に向かうのが分かった。その顔、その視線が次の枝へと向いているのが分かっていても、僕の胃は鷲掴みにされるような気分だった。
「危ない!」
僕は彼女の真下に走り込み、その腰を自分の肩近くで受け止める。
見上げた視線の上にある顔は、驚愕に満ちていた。
「ぅわーー!! びっくりした!!」
僕の頭上で、彼女が顔を真っ赤にさせて叫ぶ。解せぬ。
「いや、びっくりしたのはこちらですよ! 何でこんな危ない事をしてるんですか!」
気も動転して自分も声を張り上げてしまうと、彼女が困ったように早口で言い訳を始めた。
「あ、あの、少しだけ寝室の換気をしようと思ったら、風でこれが飛ばされて枝に引っかかってしまって…。さほどの高さでもないし、上手く行かなくても着地は出来そうだしいいかなって…。」
と、先程左手を入れていたポケットから何かを取り出した。
それは、女性物のシンプルな木綿のハンカチだった。
「この間せっかく買ってもらったので、無くしたくなかったんです…。」
彼女はハンカチを握った手を胸元に寄せ、しょんぼりした顔で呟いた。
確かにこれを買い与えたが、日用品としてだ。どこにだって売っているような、そんな程度の物だ。
その位の物を、それはそれは大事そうに。
彼女を抱き止めた腕に、知らず力が籠もる。
流れ行く、一陣の風。さざめく木の葉。
「それくらいならいくらでもあげますから、もうこんな危ない真似は止して下さい。」
そうして彼女を見つめれば、耳まで赤くなった彼女が眦を下げて囁いた。
「はい…ごめんなさい…。」
今回の『ごめんなさい』は、正当だろう。
このチャレンジ精神は、もはや発揮させてほしくない。
ホッとして鷲掴みにされた胃が解放された僕は、やっと表情を緩める事が出来た。
「本当に貴女が無事でよかった。」
頭上の貴女を見つめて、呟いた。
また、風が吹く。木の笑い声が聞こえるようだ。
そのまま僕は家に戻ろうと歩き出す。
今はいわゆる縦抱っこ。先程樹上から彼女を支えた体勢そのままの状態だ。
「あの、自分で歩きますから降ろしてもらえますか?」
ふむ。それはそう。
だけど。
「今の子供のような状態が恥ずかしいなら、あんな無茶は二度としないことですね。」
少しは懲りてもらわないと困る。
仮にも鍛えている身。この位なら何でもない。
彼女の訴えを却下して歩き続ければ、消え入りそうな声がした。
「そうじゃないですよ…。」
《蝶よ花よ》
あの少女を闇に魅入られし者として監視を始めてから、それなりの期間が経った。
そこで、彼女の人物像を整理してみようとその行動を呼び起こしてみる。
普段は、主に読書をしている。内容は過去の帝国の記録から、他国の叙事詩や伝説、果ては図鑑や幻想物語、絵本まで多岐に渡る。
基本的に好きだから読んでいるのだろうが、それなりに教育を受けてはいると推察される。
僕の執務が一段落している時などは、歌を口ずさんだりもしている。
美しいが、聞いたこともないメロディに全く知識にない言語の物もあった。どこの歌なのか聞いても、はぐらかされてしまう。
話すことも好きなようで、話しかけると笑顔で受け答えをする。
時折出てくる何気ない話題も、交わしていて心が休まる事が多い。微笑みを絶やさずにいるのも大きいだろう。
ここまでの印象ならば、多少の疑問はあれど彼女は蝶よ花よと大事に育てられたかにも感じられる。
しかし、だ。
飼い主以外に心を開いていない余所の猫に対し、爪を立てられても変わらず愛情を示し、抱き止めようとさえする。
集団でいじめを行う女性達に、味方もいない単独の状態で正論を堂々と言い返す。
あまつさえ、彼女を使い僕を脅そうとした相手を、自分を餌に取り押さえようと言い出し作戦を立て、実行してしまう。
このような、時折垣間見せる突拍子も無い行動に度肝を抜かれる事もあった。
この一連の出来事で、彼女への蝶よ花よの印象は完全に霧散…いや、四散した。
何と言うか、自分の身を顧みない無茶をするタイプのようだ。見ていて非常に危なっかしい。
そんな人だが、彼女の口癖は「すみません」「ごめんなさい」だ。
ほんの少しの事を頼む時ですら、この口癖が出るくらいだ。無意識の負い目が出ているのだろうか。
…それとも、語られぬ本人の人生がそうさせているのか。
何にしても、彼女の本質は今ひとつ掴み切れていない。
が、思案を整理すればするほど強く蘇る。
帝国に来て間も無い満月の夜、耳にした彼女の独白。
僕に、命を預けると。
裁かれるなら、僕に引き金を引いてほしいと。
それには儚げな雰囲気と共に、彼女の強い覚悟が感じ取れた。
そして、彼女と初めて出会ったあの時。僕はかつての旅の仲間と言い争った。
仲間は彼女を、自分の心に住み共に旅をした者だと紹介した。
だが、僕は彼女の髪と瞳の色を見て強い疑念を抱いた。それは、闇に魅入られし者の色ではないのかと。
その疑念を切っ掛けに始まった仲間との口論に終止符を打ったのは、僕と仲間の間に割って入った彼女だった。
彼女は腕を精一杯に広げ、小さな背を僕に向け、仲間から僕を守っていた。
彼女に疑念を向けた僕を、だ。
その時の彼女の表情は見えなかったが、背を向けたまま「…いいの。」と呟いた彼女を見ていた仲間の顔は、愁傷に満ちていた。
それも含めて今思えば、彼女の行動はとても演技などとは思えない。
僕は、信じたくなっているのか。
彼女の行動が、全て本心からであると。
…僕も随分と緩んだものだ。
今、世界は邪神による災厄からの復興に明け暮れている。
邪神を倒す旅に参加していた僕は帝国の復興を導く者として持ち上げられ、今も我武者羅に奔走している。
それを妨げられるわけにはいかない。僕の判断に左右されるならば、尚更だ。
もしも彼女が本当に闇に魅入られし者ならば、僕自身が潔く引き金を引こう。
その時涙と悲しみが溢れたならば、それも潔く飲み込もう。
これが僕の現在の判断への、責任と覚悟だと肝に銘じて。
《最初から決まってた》
外は多少弱まる気配が出て来たけれど、まだまだ日差しも強い。
それから逃れるように、彼とリビングで冷たい飲み物で一息ついていた。
そんな時、私はふと「しりとりしません?」と言ってみた。
何となく、してみたくなったから。
彼はほんの一瞬、きょとんとしたように私の顔を見ていたけれど、「いいですよ。」とにこやかに受けてくれた。
始まったしりとりは、結構順調に進んだ。
我ながら、なかなかいい勝負が出来てると思う。
彼も初めのにこやかな表情を崩すことなく、自分の番が来ると間を置かず淡々と単語を口にしていく。
やっぱり、頭いいんだよね。
そして、15分ほど経った今。
次は、彼の番。
ストレートのアイスティーを一口飲んだ彼は、スッと言葉を上げていく。
「単刀直入」
うん、行ける。
私もアイスミルクティーを飲んで、答える。
「腕っぷし」
彼は更にテンポを上げるように、答えを紡ぎ始めた。
それには全く淀みがない。
「四方八方」
ま、まだまだこのくらいなら。
少し答えを浮かべるの遅くなってるけど、大丈夫。
「う…丑三つ刻!」
「危言危行」
え? また『う』?
「うぅ…うしかい座…」
「残酷非道」
「………ぅ」
う…うー!
気が付けば、彼の口から出る言葉は『う』で終わる物ばかり。
あれ? もしかして手っ取り早く潰しに掛かられてる?
脳をフル回転させて『う』から始まる単語を探そうにも、もう他は出し尽くして品切れ状態。
沸騰しそうな頭から残りの言葉が転がり出て来ないかなとぶんぶんと頭を振っても、何も出てくるはずもなく。
考えすぎて眉間に寄せた皺が取れないままちらりと彼の顔に目を向ければ、一見すると平静な余裕の表情。
でも、違う!平静じゃない!
余裕の微笑みに見えるけど、奥歯で笑いを噛み殺してる!
く、悔しい。悔しすぎる。
でも、その普段とは微かに違う表情を捉えられたことが嬉しくて。それも、悔しい。
まあ、これも当然。
そもそも彼は、代々皇帝に仕えてきた一族の人。その教育水準はもちろんかなりの物。
そして彼自身の真面目で努力家なところが、そのレベルを更に引き上げている。
最初から、勝負は決まっていた。
私、何でしりとりしたいとか言い出したんだろう…。
テーブルに置いたアイスティーも、かなりの汗をかいている。
私はほんの少しだけ眉間の皺を取り、小さく溜め息を吐いて両手を上げた。
「降参です。」
彼は、表情を変えることなく勝負の終わりを告げた。
「いい勝負でしたね。お疲れさまでした。貴女の集中力も切れ始めたみたいなので、ちょうど頃合いでしょう。」
そこまで見抜かれてた。だから、最後の『う』止まり攻撃だったのか。もう、ホント悔しい。
そして。…まだ我慢してる。
私は半分目を座らせて、今だ笑いを噛み殺してるような彼に言った。
「…いっそ笑ってください。我慢してるの分かってますから。」
しりとりの負けどころか、もう何度も貴方に負けている。
その悔しさからちょっとだけ拗ねた口調になってしまった。
すると、彼の余裕の表情は崩れ、眉尻が困ったように垂れ下がり、細めた目元はふわりと柔らかくなった。
そしてついと視線を私から逸らせ、緩めた頬を赤らめた。
その照れたような表情に私の視線は捕らえられ、胸が締め付けられる。
「えっと、すみません。悪気はないのですが、その、」
逸らせていた彼の視線が、一瞬だけ私へ向いた。
「一生懸命悩んで考えている表情が微笑ましくて、顔が緩みそうになるのを抑えていました…」
最後の方は尻すぼみになった、彼の声。
貴女は真剣だったので、悪いとは思いつつも意地の悪い言葉選びをしてしまいました、と囁くような言葉。
そんな事、思っててくれてたの?
あの我慢には、そんな意味があったの?
貴方の笑みに、言葉に、私は完全に不意を突かれた。
顔中が、熱い。夏の熱気なんて、目じゃないくらい。
絶対、今の私、顔が真っ赤だ。
グラスの中のアイスティーの氷が半分溶けて、カランと涼やかな音を立てた。
それに。意地の悪い、なんて言ってるけど。
気が付けば、あの連続攻撃の時、彼は自分に四字熟語縛りを課していた。
真剣に手を抜くことなく、それでも私とのハンディキャップを上手に埋めてくれていた。
もう、全部。何もかも勝てない。
多分、いつになっても。いつまでも。
「勘弁してください…本当に負けましたから…。」
彼の顔を直視できなくなった私は、赤くなった顔を見られないように両手で自分の顔を包み込み、俯きながら呟いた。
《太陽》
ある晴れた夏の日の事。
「暑い…暑過ぎるのよ…」
彼女が、溶けていた。
確かに、今日は暑さが殊更厳しい。空調を動かしていても効き目が薄い。
その熱は、黄金色の金属で出来ている帝都の空気を焼け付くような暑さに変えていた。
彼女はレースのカーテン越しに窓から差してくる太陽の光を恨みがましい目で見ながら、呟いていた。
「燃やすのは心だけでいいのに…何故にそこまで燃える…」
「大げさ…とも言い切れませんね…。」
僕もそれに合わせて、読んでいる本から窓へと視線を変えた。
彼女の言葉通り、窓の外には燃え盛る太陽が自らの存在を主張するかのように頭上に昇り詰めている。
その強い主張は、レースのカーテンなどでは到底止める事など出来はしない。
身体に滲む汗も、熱発散の働きよりもむしろ暑さを助長するように感じられる。
「太陽が私を殺しに来てる…お前に私の生殺与奪の権利は渡さないぞ太陽…」
彼女の発言内容が不穏になってきている。これは、限界が近そうだ。
ならば、と僕は読んでいる本を閉じて彼女に提案してみた。
「では、気分転換にかき氷でも食べに行きますか?」
すると、生気を失っていた彼女の目に途端に光が蘇った。
「行く! 行きます!!」
先程までの溶け具合から一転、音がするかのようにシャキッと立ち上がると、
「早速準備してきますね!」
と言い残し、大層晴れやかな顔でリビングを出ていった。
僕はと言えばそんな彼女の様子が楽しくて、面白くて、ついくつくつと笑っていた。
暑過ぎる太陽が、こんな幸せを運んでくるとは。
僕はその喜びを噛み締めながら、身支度のためにと自室に向かった。
《鐘の音》
鎮魂の鐘は、去り行く魂への永遠の別れと生者の悲しみの昇華のため。
祝福の鐘は、これから永遠の道のりを共に歩む二人の喜びのため。
時の鐘は、永遠に続く時間に区切りを付けて良き一年、良き一日をを過ごすため。
全ての鐘は、心を新たに切り替える音を地上に響き渡らせる。
まもなく太陽が高みまで上り詰めようかという時刻に、私は半分寝てるような意識の中ベッドで体勢を仰向けに直した。
そのまま天井へ向かってまっすぐ両腕を伸ばして手を組んで、身体を伸ばして左右に曲げる。パキッ、ポキッ。これは凝ってるなぁ。
それもそうか、熱を出した彼の看病していた時にずっと彼のベッド横で座って見てたんだもんね。
…ん? そういえば、何で自分のベッドで寝てたんだろう?
よく考えてみれば、自分の部屋に戻った記憶がそもそもない。
軽い上半身ストレッチで覚めてきた頭の中で、何とか記憶を反芻してみる。
記憶がはっきりしてるところ。…今思い出しても嬉しさで心臓が破裂しそうになる。
高熱に浮かされた彼が私の手を取って、『傍にいて』と言ってくれた。
その後、彼がそのまま眠った後に手を離そうとしたけれど、なかなか離れない。ギュッと力を入れ直される。
これは起こさないようにする方がよさそうだな、と握られた手はそのままにベッド脇の床に腰を降ろした。
私は、彼に自分の存在を求められるような言葉が聞けた喜びに浮かれていた。
熱で大変な彼には本当に申し訳ないけど、何だか甘えられてるようで、可愛いな。
なんて、握られた手と一緒にベッドに頬を付けていたところまでははっきりと覚えてる。
その後の記憶が朧気だけど。
何とか記憶を掘り出してみる。
過った記憶は、明け切らぬほんのりとした日差しの中。廊下、だと思う。ほんの少しの間の…夢?
身体に軽く伝わる振動。シャツの下から伝わる熱くはない、暖かく逞しい腕と胸板。
少し下から見上げるような角度で見える、彼の顔。その向こうで、動いていく天井や壁。
あ、あれ? これ、私抱き上げて運ばれてる? 夢じゃなくて?
病み上がりの彼に何させてるの、私? というか彼はちゃんと病み上がったの? 大丈夫なの?
自分の記憶の衝撃に軽い混乱を来した脳の中、間もなくまた次の記憶が蘇る。
明け方に夢を見たのを覚えてる。
私の混乱のせいで彼に謝らせた事が申し訳なくて。
それでも傍にいたいと言ってくれた事が嬉しくて。
私にとって貴方との日常は、手放したくない大事なものだから。
ごめんなさい。私の方こそ、傍にいさせてほしい。
そう祈り、誓う夢を。
…思い出した。私、一度ぼんやりだけど目を覚ましてる。
私はギュッと両手でタオルケットを握りしめる。
ベッドの中で、私は半覚醒状態だった。
その脇から顔を覗き込ませていた彼は、私のこめかみ辺りを髪を梳くように撫でていて。
彼の手付きは、恭しく柔らかで。
彼の笑顔は、上等のシロップが朝日に煌めいてるようで。
そうして確か彼は、私にこう言っていた。
『本当にありがとう。貴女の心の内が聞けて、最高の気分です。』
私は掘り出した記憶のあまりの大きさに、ガバっと起き上がる。
信じ難い情報でパンクしそうな脳を抑え込むように、胸にタオルケットを掻き抱く。
彼の手と笑顔の優しさ、甘さ、柔らかさ。泣きたくなるような幸福感。
それに心から喜び酔いしれる一方で、もう片方がフル回転で情報を整理している。
…あの時は、頭が働いていなかった。
何せ、その後彼に『まだ眠いでしょう。僕はもう回復したから、貴女もゆっくり休んで下さい。』と言われ、何も考えられずに眠りに付いたくらいだから。
寝室に運んでくれた彼のおかげで、徹夜から看病のコンボでもこうしてすっきり目覚められているけれど、これは…まさかの展開過ぎて。
そして、彼の言葉の意味について考える。
貴女の心の内、とは…? 誓いの言葉は、本当に夢の中だけの物…?
あり得ない、とは言い切れない可能性に至りそうになった心は、キュッと引き締まる。
その直後、寝室のドアがコンコンと鳴る。
返事をすると、廊下から彼の声が。
「よかった、起きていますか。よければ軽く食事でもどうですか?」
声から察するに非常に上機嫌で、昨日の発熱の気配は全く感じられない。
ひとまず無事に熱が治まってホッとすると同時に、その快い声に擽られた耳は、胸の鼓動を否が応にも速くする。
着替えたら行くと伝えれば、遠くから鳴り響く、正午を告げる鐘の音。
私は、いつもどおりの私でいられるのかな。
昨夜までの自分の弱さと混乱。
熱に浮かされた彼の言葉。
今朝の夢の祈りの行方。
胸に残る、最高の気分という彼の言葉。
この濃密な数日間の全てを吸い込むように、深呼吸する。
これらは全て、私のものだ。大丈夫。信じて、いこう。
いつもどおりの日常。それでも私の中で以前からもあった誓いは、より強いものに変わった。
鳴り終えた鐘の音が、微かに耳に広がる。
それがどんな道でも構わない。気持ちも新たに切り替えて、また彼の隣を歩いていこう。