《つまらないことでも》
彼が熱を出して倒れた。
その前の日、私は自分のつまらない混乱で彼を困らせてしまった。
私を大切にしたいなんて、言われると思わなかったから。
今まで礼儀正しく扱ってくれたのだって、真面目な彼の義務感からだと思っていたから。
だから、素直に受け取れなかった。
そのせいで、彼に謝らせてしまった。
混乱から一晩泣き明かしていた私を待ち続けたせいで、彼に負担を掛けてしまった。
熱に浮かされながらも、彼は看病をしている私に謝っていた。
ごめんなさい、と。
看病するのなんて、当たり前なのに。
謝らないといけないのは、私の方なのに。
その上、置いて行かないで、と私の手を取って言った。
傍にいて。そう言ってくれた。
そんなの、答えは決まってる。
毎朝のおはよう、毎晩のおやすみ。
同じ食卓に着いて、同じご飯を食べる。
毎日一緒に歩きながら、何てことのないおしゃべりをする。
読んだ本の感想を言い合ったり、時にはどこかでお茶を飲んだり。
他の人達には何気ないことかもしれない。つまらない日常かもしれない。
それでもあなたと送る日常は、私にとっては何物にも代えがたい大切なものだから。
私の方こそ、困らせてごめんなさい。
謝らせてごめんなさい。
私の方こそ、あなたの傍にいさせてほしい。
あなたが望んでくれるなら、一千年の時を超えても。
私はずっと、あなたのことが…。
==========
鳥の声が聞こえる。
ぼんやりした意識の中、瞼の上から朝日が差し込むのを感じる。
耳の上側に雫が降りて、自分が仰向けに眠りながら涙を流しているのに気付いた。
いつの間に私はベッドに戻っていたんだろう。
彼の熱は引いたのかな。大丈夫かな。
すると、その涙の雫を拭うようにするりと眦に誰かの指が触れる。
そしてそのまま、髪を梳くように頭を撫でられる。
その手付きは、凄く優しくて心地好くて。
それがとても嬉しくて目を細めると、瞼に残っていた涙がまた一粒零れた。
うまく目覚めない意識の中ゆるりと頭を横に向け目を開くと、そこにはすっかり熱が引いたのか顔色も良くなっている彼が、心底嬉しそうな表情で微笑んでいた。
《目が覚めるまでに》
僕は、夢を見ていた。
どこまでも暗い闇の中、僕は当て所もなく彷徨っていた。
ここは暗い。何も見えない。寒い。苦しい。誰もいない。
寂しい。ただひたすら、寂しい。
どうしようもない孤独感に苛まれながらせめて明かりはないものかと歩き続けていると、周囲は徐々に赤い光に包まれ、同時に燃えるように暑くなっていった。
もはや熱いと言っても過言ではない中、それでも歩を進めていると、遠くに彼女が現れた。
僕は彼女に出会えた喜びから、一目散に彼女に駆け寄った。
彼女の白に近い銀の髪が周囲の光に照らされて、赤く輝いている。
腫れて赤くなっている目元。ずっと泣いていたのだろう。
僕が、泣かせてしまった。
想いはどうあれ、勢いに任せてしまった言葉で。
それなのに僕と目が合った彼女は、気丈にもふわりと微笑み、小さな白い手で僕の頬にそっと触れてくれた。
その掌は微かにひんやりとして、空気の熱さを和らげてくれるような優しさで。
微笑みは、陽炎のように儚げで。
怖くなった。
このまま、貴女が消えてしまうのではないかと。いなくなってしまうのではないかと。
僕は咄嗟に、頬に触れている彼女の手に自分の手を重ねるように置き、そっと力を込めた。
そして、泣き腫らした目を見つめて懇願した。
「行かないで…。お願いだから、僕を置いて行かないで。僕の傍にいて…」
分かっている。これは、僕の我儘だ。
貴女が闇に魅入られし者だと疑いを掛けたのは、僕なのに。
その監視の為に隣にいる事を強制し、今もそれを解かずにいる。
嫌われて当然だ。疎まれて当たり前だ。
なのに、貴女はいつも隣で笑ってくれていた。心の底から嬉しそうに。
そして時には突拍子も無い行動で僕を驚かせ、笑顔にさせてくれた。
気が付けば、離れたくないと駄々を捏ねている子供のような行動だ。
それでも貴女に離れてほしくないと、その優しさに縋った。
すると、透き通るような明瞭な声が僕の耳に届いた。
「離れたりしません。傍にいます。ずっと。」
全てを包み込むような、柔らかい笑顔。
そこに嘘は無いと確信出来る、真っ直ぐな眼差し。
ああ。この人は、本心から言ってくれている。
喜びが心に染み渡り、全身を巡るようだ。
それは、澄み切った清らかな水が喉を通ったかと錯覚させる程に。
僕は心を支配していた不安から解放され、彼女の心に包まれた安堵感の中で幸せに微笑んだ。
熱かった空気も清められたかのように程良く冷めていき、辺りは赤から柔らかなランプの光へと色を変えた。
ぼんやりと未だ覚醒せぬ意識の中、頬に触れている小さな手の感触に思う。
僕を守ってくれて、ありがとう。
目が覚めるまでに、貴女を守れるように必ず心を構えておきますから。
《病室》
昨日夕方、彼に私を大切にしたいと言われた。
私はその言葉への心からの歓喜と、今自分が闇の者として疑われている状況から誤解ではないかと湧き出る不安でぐちゃぐちゃになって、彼の前から逃げ出して部屋で一晩泣き明かしていた。
それでも涙を流しきって、心の澱も全てとは言えないけれど流れ去った。
気が付けばカーテンからは夜明けの光が差し込み、小鳥達の声が聞こえてきた。
大丈夫。昨日何も言わずに走り去った無礼を謝って。またいつものように彼と毎日を過ごそう。
まずは腫れた目を冷やしがてら顔を洗おうかと廊下を歩いていると、バン!と凄い勢いで彼の部屋の扉が開いた。
驚いて立ち止まると、その勢いのままに彼がよろめきながら部屋から出てきた。
私は腫れた目を見られないように両手で目元を隠しながら彼を見た。
眉間に寄りながらも下っている細い眉。その下の目は見開かれ、目尻と頬は赤く染まっている。
さあ、言おう。
おはようございます。昨日は突然走り去ってしまって本当にごめんなさい。と。
そう口を開こうとした時。
身体のバランスを崩しながら彼が私の両肩に手を置き、俯きながら呟いた。
「よかった…。」
私はまた、目に涙が溜まるのを感じた。
不安にさせちゃったのかな。もしかして、心配してくれたのかな。
両肩から彼の熱が伝わる。
ん?
ふとそこで、まさかと思った刹那。
彼が私に覆いかぶさるように上半身を傾けた。
「っ…わ!」
よろけながらも何とか自分の背中を壁へ付けるように持っていき、彼の身体を支える。
その身体に触れて、まさかが確信になった。
「ちょっと! 凄い熱じゃない!」
こんな体調でずっと私が部屋から出てくるのを待っていたの?
どうしてこんな無理をするの?
心配から語気が荒くなった私の顔を見て力なく微笑んだ彼を、私は何とか支えつつ彼の部屋に誘導した。
==========
寝室に寝かせた彼をお医者様に診ていただいたところ、熱は高いが汗は出ているし他に異常はないので、しばらく寝ていれば治まるそうで。
ひとまずホッとした私は、看病のために今は病室となっている彼の部屋で過ごしていた。
額の濡れタオルが温くなったら取り替え、せめて首元だけでもと汗を拭う。
手が空くと昨日の事が頭を掠めるけれど、彼の体調を考えるととてもそれどころではない。
そうして夜も近くなった頃。
「…ここは…?」
小さく掠れた声が耳に届いた。どうやら彼が目覚めたみたい。
「あなたの寝室です。今朝、熱を出して倒れたんですよ。」
彼の目が覚めた事に安堵して、答える。
替えの濡れタオルと水差しを手にしながら枕元に置いた椅子に座り、彼の顔を見る。
その目は完全には開いてなくて、まだぼんやりとした様子。
「そうか…ごめんなさい…。」
小さく謝る彼。悪いのは、私なのに。
今日、私が通りかかると同時に飛び出してきた彼。
昨日急に泣き出し走り去った私を、彼はずっと待っていてくれたのかも。
そんな負担を掛けたのは私なのに、謝ってくれる。
だから、もう負担にならないように努めて明るい声で私は言った。
「謝らないでください。それよりゆっくり眠って、早く良くなってくださいね。」
起きているうちにと水差しから水を飲ませ、額の濡れタオルを替える。
顔の赤みは、今朝に比べれば少し引いてきてる。
「すみません、熱を診ますね。」
それでも一応と、体温を大まかに知るために彼の首元に手のひらを当てる。
よかった。少しだけど熱は引いてる。
すると彼が寝返りを打ち身体をこちらに向け、首元の私の手のひらをそっと自分の手で包み込み、彼の頬に誘導した。
ぱさりと落ちる、彼の額の濡れタオル。
その突然の事に、私の胸が煩く鳴り響く。その鼓動が、胸から全身へ熱を伝える。彼の熱の高さが分からなくなるくらいに。
そうして、彼は呟いた。
「行かないで…。お願いだから、僕を置いて行かないで。僕の傍にいて…」
私を見つめる彼の目は、熱に浮かされているからかとろんとしている。にも関わらず、視線には揺るぎのない力があって。
重ねられた手は私の手のひらを離すまいと、優しくも固く力が入っている。
そうだった。
彼は三年前、家族皆を失った。
自分を疎んでいた兄姉も、反乱分子と見做された彼を帝国に引き渡せなかったからと処刑され。
乳母と立場を偽って彼を傍で守ってくれていた実のお母様も、その兄姉に殺された。
そうだね。あの時、誓ったはずだ。
彼の傍にいられるなら、何でもいい。殺されても構わない。
例え失った家族の穴埋めだとしても。
それを思えば、その苦しみの穴埋めなんて容易い。
昨日の言葉に心乱されて、彼に負担を掛けている場合じゃない。
私は彼の頬に当てられた手のひらを更に深く触れ、視線をしっかりと合わせ、できる限りの笑顔で答えた。
「離れたりしません。傍にいます。ずっと。」
あなたが、それを求める限り。
私は、心の中で新たな誓いを立てた。
すると彼は、心底嬉しそうにふにゃりと力なく微笑んだかと思うと、そのまま眠りに付いた。
その安心しきった彼の寝顔に、私はその笑顔への幸せと自らの決意への覚悟で泣きそうになりながら、空いてる手で彼の額に濡れタオルを当て直した。
《明日、もし晴れたら》
彼女を、泣かせてしまった。
「僕は、貴女を大切にしたいと思う。」
僕は彼女の手を取り、その時の思いを正直に打ち明けた。
衝動的、ではあったと今は自覚している。
らしくもない行動を取ったその時の僕は、全身が熱を帯びたようだった。
頬だけではなく耳まで熱くなり、心臓は早鐘を打っていた。
何故かは、正直分からない。
どうしてそのような心境になったのか。
今までは、闇に魅入られし者として彼女の監視を行っていた。
彼女の他では見られないような髪と瞳の色が、かつて同じように闇の力に触れ色が変化した者に酷似していたからだ。
だから、彼女を帝国に連れて来て、僕の側に置いた。
帝国内なら、彼女が何かを起こしても僕の権限で処理できる。最悪、僕が被害に合えばそこから国内が警戒態勢に入れる。
そう決心していた。
ところが、いざ共に暮らしてみたらどうだ。
帝国の街並みを見て目を輝かせ、港から見える空と海に切なくなるような眼差しを向け、その香りを胸いっぱいに吸い込む。
何をするにも、日常の食事でさえそれは嬉しそうに微笑んで。
移動の際に共に歩けば、初めの頃こそは少し俯きがちではあったが、今は笑顔で語り、僕の話にもしっかり耳を傾けてくれる。
それは、帝国の復興に全力を傾けて色を失いかけていた僕の日常に、優しい光が降り注ぎ色が蘇ったかのようだった。
彼女は、疑いを掛けられたにも関わらず僕を信頼し、心を許してくれている。
あの月の夜、密かに見た光景がそれを示している。
降り注ぐ月の光の中、彼女は僕に命を預けると呟いた。
これ以上はない、絶大な信頼。そして、曇りなき笑顔。
そんな彼女を、僕は大切にしたくなった。
夕日に染まる彼女の笑顔を見て、その気持ちが抑えきれなくなった。
そして衝動に任せて動いてしまった結果、彼女を泣かせてしまった。
僕は、そのまま走り去る彼女を追う事が出来なかった。
そんな資格があるの?
彼女の声の幻が、頭の中で鳴り響いた。
今まで散々疑ってきたのに?
そうか。僕は、拒絶されるのが怖いのか。
今すぐ傍にある暖かさを目前で失なうのが、怖いのか。
例え何者であっても、彼女にこのまま傍にいてほしいのか。
僕は、彼女の手を取っていた自分の掌を見つめて決心した。
何が怖いのか理解出来れば、行動に起こせばいい。
まずは自宅に帰ろう。
彼女が戻っているならば、涙が止まるまでいつまでも待ち続けよう。
彼女に拒絶の意思がなければ。いや、その意思があったとしても。
ひたすら彼女を大切にしよう。僕の心を、行動で示そう。
もし明日、彼女の涙が晴れたなら。
まずはいつもよりもほんの少し特別な食卓を、貴女と一緒に囲みたい。
貴女の負担にならないように、僕は貴女を大切にしたい。
《だから、一人でいたい。》
私の隣を歩く彼が不意に立ち止まったかと思うと、私の手を掴み取って囁いた。
「僕は、貴女を大切にしたいと思う。」
赤い夕焼けの光に照らされたその顔は真剣で、その燃えるような瞳は揺らぐ事なく私を見つめていた。
大切に…私を?
その言葉は、私にとってあまりにも大き過ぎた。
もちろん、嬉しい。
けれど、それ以上にこんな言葉を受け取っていいのか。
地面に足が着いている感覚がない。視界が歪む。
その衝撃に声も出せずに立ち竦んでいると、私の手を掴んでいた彼がハッと表情を曇らせその力を抜いた。
「…申し訳ありません…。」
咄嗟に目尻に手をあてて気が付いた。視界の歪みは、自分の涙が原因だった。
瞬間、溢れる涙のように自分の感情が決壊した。
喜び、悲しみ、疑問、嬉しさ、苦悩。
謝らせてしまった申し訳なさ。
それでも私は声が出せず、めちゃくちゃになった感情に背中を押されるままその場を走り去った。
全速力で走り続け息も絶え絶えになった私は、自室に入り、背を向けたままその扉を閉じる。
そして力尽き、ずるずると扉に背を預けへたり込んだ。
彼は追っては来なかった。でも、今はそれでいい。
彼は本来、出会えるはずのない人。
私が偶然、何の因果か分からないけれどこの世界に来れただけ。
しかも、私が闇の者だという彼の疑いは晴れてはいない。にも関わらず、彼は私が人間らしい生活を送れるように気を配ってくれていた。初めから今まで、ずっと。
否が応にも期待してしまう。彼のあの射抜くような眼差しに。
いや、もう何度も射抜かれている。
初めの頃と変わり、最近は何かと笑いかけてくれている。
その笑顔にどれだけ心を射抜かれたか。
一人で動ける時間も増えている。監視なんて名ばかりだと、勘違いしたくなるぐらいに。
ただ一緒に暮らしている。そう思い込みたくなるぐらいに。
だけど、心の一番弱い部分を守ろうとする自分が叫びだす。
本当にそんな期待を抱いてもいいのか?
彼は誰に対しても誠実だ。だから今までも無意識で人間扱いされてきたに過ぎない。
ただ表に出していなかった意思表示をしただけで、どうせこれまでと何ら変わらない。
それが証拠に、あの時彼は手を離したじゃないか。
勘違いするな。お前は、彼に愛されているわけではないのだ。
なぜ。なにを。どうして。いつから。どうやって。
大切にしたい。
彼の言葉に、湧き出てくる感情が選り分けられないくらいにぐちゃぐちゃにかき回される。
涙と一緒に次々溢れ出してくる想いは、暮れ泥む空のように光を影へと塗り替えていく。
この空が明ける時には、必ず笑ってみせるから。
頭の中を選り分けて、整理して、空っぽにして。
「昨日はごめんね。」と、いつも通り過ごせるように戻るから。
だからお願い。
今だけは、一人にさせて。