《夏》
日に日に空の青が濃く高くなっていく。
白い雲もその背をモクモクと伸ばしていく。
昼の日差しはどんどん力を増し、夜の居場所を少なくさせる。
そんな季節がすぐ背後に迫ったある日。
「可愛い…いいデザインだなぁ…。」
私はショーウィンドウの中のワンピースに引き留められていた。
淡い水色が爽やかなオフショルダーのワンピース。袖から身頃に掛けた薄地のフリルが涼やかさと可愛らしさ、そしてウエストの引き締め効果を存分に出している。ここ、重要よね。
肩を出すスタイルは暑い季節ならではのファッション。なんか気分も上がりそう。
「もうすぐ夏だし、こういうのもありだよね…いいな…。」
なんてじっくり見ていると、ショーウィンドウに映る背後の彼は笑顔でこう言った。
「ほう…これはこれは…。」
ただし、よそ行きの笑顔で。
あれ?ちょっと待って何か不穏な気配なんですけど?
最近分かるようになってきた彼の表情の違いを察知してヒュッと息を飲むと、
「いいですか?夏の紫外線を舐めてはいけません。夏の紫外線は特に日焼けしやすいものが強いのです。あのように肩を晒していては焼け過ぎて肌が火傷のようになってしまいますよ。完治するまで大変ですし何よりせっかくの肌にシミが出来たらどうするんですか。それに空調の効いた場所に入ったら今度は冷えの原因にもなりますからね。」
今度は彼が一息で理を詰めてきた。
まずい。変なスイッチを入れてしまったみたい。
こういう時は笑顔でも妙な迫力がある。
うーん。でも諦めきれないなぁ。
「でも凄く可愛いんだよね。今度の外出の時に着たいな。」
可愛い服を着て気持ちを上げて。その上、あなたにより相応しくなれる。
素敵なファッションは心を強くするから。
引き際も悪くワンピースを見つめていると、隣で微かに溜め息が。
「…仕方ありませんね。これに似合うショールも一緒なら問題無いでしょう。」
その表情は、苦笑混じりだけどいつもの柔らかな空気を纏っていて。
これはこれであまり見ないレアな笑顔なので、つい見とれてしまう。
するとふと視線を逸らせた彼が私の手を取り、お店の扉を指差した。
「ショールを選ぶ時間もありますから、早速入りましょう。」
ショーウィンドウに映るのは、高く晴れた青い空と白い雲、ほんの少し頬が赤くなった私。
思わぬ幸運尽くしに胸を高鳴らせながら、揃ってガラスの扉を開けた。
《ここではないどこか》
辛い、苦しい、泣き出したい。
暗くどろりとした感情が心を支配する。
そんな時は思ったもの。どこか遠くに逃げ出したい。
どこでもいい。ここ以外ならきっと自分は幸せになれる。
私は弱い人間だから、今までそうして生き延びてきた。
一度限界を迎え折れた心は、次はいとも容易く砕けてしまう。
だけど、今はあなたのそばにいる。
どんなに辛く、苦しく、泣きたくなるような事が起きても、ここにいる事と引き換えになどできるはずがない。
大きな困難にも逃げることなく折れずに立ち向かった強い人。
あなたの存在は、私の心の暗闇を照らす鮮烈な光。
何も見つけられずに蹲っていた私を、暗い澱から連れ出してくれた。
以前は見つけることができなかった、鮮やかに彩られた世界。
もう絶対に逃げはしない。
他のどこかが苦しみのない世界だとしても、私の楽園はあなたのそばにあるから。
《君と最後に会った日》
私は今、一人きりだ。
彼は5カ国間首脳会議とその後に続く各国首脳との軍事貿易に関する協議の為、6日ほど他国へ出向いている。
寂しいな。
たった6日とも言うけれど、これだけの期間彼と離れているのは初めてなのだ。
心の粗食に慣れきっていた私は、ずっと相棒の中から姿を見て声を聞くだけで満たされていた。
それでも心はいっぱいいっぱいになって、想いが溢れてきて苦しいくらいだったのに。
なのにこちらに来て闇の者として監視を受ける身とは言え、他人を無碍にしない彼は無意識だろうけど普通の人として私を扱ってくれて。
あり得ない喜びを毎日受けているうちに、私はとんだ贅沢者になり下がってしまったみたい。
洗面所、食堂、リビング、廊下、玄関。
出立の日に彼が辿った順に家の中を巡る。
まだ眠気が取れないのか、寝室から出る前に身なりは整えていてもほんの少しだけぼんやりとした表情での朝の挨拶。
食材と作り手への感謝が見て取れる丁寧な食事の所作。
交わされる会話の中に織り込まれる私への気遣い。
玄関を出る直前も『身体には気を付けて。』と。それ、私が言うべき台詞なのに。
そんな彼の気配も一日毎に薄くなっていく。
明日か明後日には帰国するそうだけど、心の中の飢えはどんどん加速していく。
あなたの顔が見たい。声が聞きたい。傍にいたい。他愛のないおしゃべりがしたい。
まだ夕方前だけど、私は寝室のベッドに座った体制から身体を横たえた。
飢えた心の声に侵食されていく精神を宥めるようにクッションを抱きしめていると、気疲れからか意識は微睡んでいく。
寝室のドアは開け放したまま。まだ微かに家に残るあなたの気配を感じていたいから。
「会いたい…『あなた』に会いたいな…」
そして、意識は微睡み落ちた。
溢れる想いが口から零れ出た事も、帰国が早まり帰宅した彼がそんな私に優しく毛布を掛けてくれた事も知らず。
《繊細な花》
ある日通りを歩いていると、ケーキのショーウィンドウの奥にある鮮やかな色彩が目に入った。
「薔薇の花…?」
厨房へも繋がる作業台に置くには少し相応しくはない物だなと疑問に思えば、女性の店員が出てきて説明をしてくれた。
「あちらは、ご贈答用の飴細工の薔薇なんですよ。」
何でもあの有名な菓子処で修行をしてきたらしく、この度新商品として売り出す為に製作中なのだという。
赤、白、黄色、ピンク、紫。実際にはあり得ない目の覚めるような青や虹色もある。
これは熟練の技術で作られたものだとひと目見て感心した。
細部に渡り作り込まれたそれは、一見すれば本物の薔薇の花だ。少し触れれば崩れてしまいそうな程薄い花弁のあれは、本当に飴で出来ているのか。
作り手の修行の成果が見て取れる、心打たれる物だった。
咲き誇る薔薇に見入っていれば、
「こちらお土産にどうでしょう?今なら新商品価格でお求めやすくなっておりますよ。」
と、店員が小気味良く売り込んでくる。
そうだな…と思い描くは、僕の帰りを待つ彼女の顔。
いつも笑顔で迎えてくれるけれど、今日はこの薔薇を見て驚き喜ぶ顔が見てみたい。
「では、これとこちらを貰えますか?」
二つの薔薇を指差し、お金を手渡しながら注文をする。
店員はお礼と共にお金を受け取り、奥から新しい飴細工を持ってくるとテキパキとそれらを箱に入れ包装する。
店員の仕事も手際が良いなと感心していると、
「お待たせしました。こちらは常温ですと日持ちがしませんので、お早めにお召し上がりください。」
と、綺麗な包装紙とリボンに包まれた箱を手渡された。
「ああ、ありがとうございます。」
この箱を開けた彼女の笑顔を思い浮かべながら受け取れば、
「…あ!申し訳ありません、少々お待ち下さい!」
そう言って、店員が店の奥に戻っていった。
少しの間待っていると、店員が同じ包装紙の細長い包みを持ってきた。
「こちらお客様へのサービスです。お土産とご一緒にお持ち下さい。」
見ればそこには、一本の赤い薔薇。サービス精神が旺盛過ぎではないか。
「これは!返って申し訳ない。ありがとうございます。」
恐縮のあまり礼を述べれば、店員は答えた。
「いいえ、お客様が初めてあの薔薇を買って下さいましたので。これがお役に立てますように。」
と何やら意味ありげな微笑み付きで。
さて、今日は一段と帰りが楽しみになった。
手には一本の赤い薔薇。そして箱の中には、優しい甘さの赤い薔薇と青い薔薇。
三本の薔薇を携えて、僕は心躍らせながら帰路に就いた。
《1年後》
大好きなあなたに闇に魅入られた者だと疑われたあの時、私は自分が死ぬ可能性もあると覚悟した。
私自身、自分が何者であるか断定出来ない。
その上、この身体の特徴。以前、闇の力に魅せられた人物にあまりにも似た髪と瞳の色。
かの人物が起こした騒動の為に、この世界は一度滅びかけている。
せっかく救ったこの世界を、あなたが見捨てるはずがない。
いえ、見捨ててほしくない。
懐に入れた人には甘くなるけれど、あなたには曲がらぬ正義への信念がある。
それを決して曲げてほしくない。
愛しい大事なあなたの一番大切な部分を守りたいから。
だから、私は満月に誓った。
私が闇の者ならば、あなたに裁かれたい。
その時は、迷う事なくその引き金を引いてほしい。
私の全ては、あなたの物。全てをあなたに委ねます。
そんな誓いを立てた、その1年後。
私は、またあの時と同じように頂へと向かう満月を見ている。
全ては、あの月のように綺麗に丸く収まった。
私の存在は、疑念を受けたものではなかった。
祝福。遥か古の昔よりの想いを紡ぎ、私は今ここに立っている。
ここへ辿り着き、あなたと出会い、あなたを救い、古の想いを受け取った。
そんな気の遠くなるような出来事が凝縮された、それでも尊いこの1年。
あなたはずっと、私を一人の人として扱ってくれた。
私の立場を考えればぞんざいに扱われてもおかしくないのに、ひたすらあなたは優しかった。
やっぱり、あなたは私の知っていたとおりの人だった。
義理堅く、正義に対する折れない信念を持ち、誰よりも優しく暖かい。
あの時、相棒の中から見ていた印象そのままの人だった。
ありがとう。本当の彼に会わせてくれて。
見上げた月に感謝を送れば、背後からかさりと足音が。
振り向けば、そこにはこちらを見ているあなたがいた。
月の光に照らされて、そこだけきらきら眩しく見える。
思わず笑顔で駆け寄れば、あなたは満面の笑みで優しく私の手を取ってくれた。