力加減は難しい。
我が家の犬は、もう一歳半になった。
人で言えばもう成人だ。
この一年はそれはそれは騒がしくて、
「カーペットを噛んでダメにした」とか
「ソファの肘掛け部分に齧り付いて削った」とか
「齧られた指から出血した」とか
「買ってきたおもちゃを3分で壊した」とか
まあまあ、なにかと、強靭なアゴにため息の漏れる日々だった。
寝ている姿は天使。
ボールを持ってくる姿は天真爛漫。
子犬だから仕方ない、そう信じたい日々。
あれこれ手は尽くしたが、あんまり効果を感じられずにいた。
一歳の誕生日にも、ひとつカーペットを使用不能にした。
落ち着くとは無縁な子なのか、と愕然としていた。
昨日の成人式の様子を、ニュースで見ながら、犬のお腹を撫でていた。
犬のお下がりの振袖がある。お洋服嫌いで噛みついてくる犬なので、小物の多い振袖はとてもじゃないが着せられない。
「着られないねえ」とお腹を撫でていて、気づく。
家に来たばかりの日には、黙ってお腹を撫でられることはなかった。
そういえば、口元に手を置いても噛まなくなった。
そういえば、体のどこを撫でても暴れなくなった。
いつか、この子にも「そっと」の力加減がわかる日が来る。
その日を楽しみにしている、という話。
北海道の冬特有なのかもしれないが、冬に「晴れた」ということは「特に冷え込む日」と同義だ。
雪がずっと降っているのが当たり前なのだが、ぴっかり晴れ渡る冬の日もある。そういう日は大抵風が強くぐっと気温が低い。
つまり、道が凍る。
ざくざくした雪は踏みしめて歩けるが、凍ると道産子にも滑らずに歩くのは難しい。
晴れた日にこそ、下を見ながら歩くことになるので、誰も晴れていることに気が付かない。
仕事合間のランチに外に出たその信号待ちで、横断歩道のどのルートが滑らず安全かを見極めていて、ふと空を見る。雲ひとつない、きりりとした晴天だった。ほ、と出た息が白く煙る。悪くない。
不便だし安全に歩くのは難しいが、悪くない。
毎日の、雪との生活も、こんな鮮やかな晴天を見る日があるなら、悪くない。
信号は青。
珍しく晴れ渡る青空。
安全なルートを確保さえすれば、空を仰ぎながら歩くことだってできる、という話。
デジタルネイティブだなと実感する私の遠い日の記憶は、父の部屋のパソコンに紐づいている。
まだWindowsもない時代にパソコンが家にあることは当時かなり珍しかったはずだ。でも家にはパソコンがあって、それは父の部屋に置いてあった。よくりんご太郎で遊んでいた。マウスのクリックボタンは一つだけで左右の区別がなかった時代。キーボードはまだ打てずもっぱらマウスを使っていた。
そもそも父の部屋は特殊だった。寝室に入ると、クローゼットとは別にウォークインスペースがあって、その小さな空間が父の部屋だった。机とパソコンと本棚でみちみちで、冬は寒く夏は暑い空間だった。
父は忙しい人で、平日に顔を見れたことは少ない。父の部屋に入れるのも、日曜日だけだった。
小さな狭い空間に親子でパソコンに向かう日曜日。
あの思い出がなければ、もう少しパソコンが苦手だったかもしれないな、という話。
未来が地続きなことを意識することは少ない。
今の選択肢は、確実に未来に影響を与えるのに、だ。
今起きていることで、明日の朝起きる時間が決まっている人は、刻一刻と睡眠時間が削られている。
寝る前に酒を飲んだことで、明日スッキリ起きられるかどうかも変わる。
未来は年単位じゃなくいつも「今より少しあと」だと思うことにしている。
20年後の自分に恥じないため、なんて高尚な理由じゃない。明日後悔しないため、ただそれだけだ。
そんな私も今起きているなぁ、という話。
一年前には、こんな風になるなんて思っていなかった。
白い十四歳の犬と暮らしていて、立って歩いて尻尾を振って食欲もある、まだまだ元気だった一年前。
夏にぐんと食欲が落ちた。それまでのご飯では飲み込むことができなくなっていた。
秋には、ふやかしたものでも飲み込めなくなって、ジェル状のご飯を針のない注射器で流し込んでいた。
それでもご飯は嬉しいようだった。
秋に、犬は亡くなった。老衰だった。
信じられないほど泣いて泣いて泣いて、年を越して、黒い犬を迎えた。
びっくりするほど落ち着きのない、まだ赤ちゃん犬。
カーペットの端を噛む赤ちゃん犬を叱りながら、「生きていてくれれば何だって」と思う話。