【風を感じて】
木々のささやき、ライターの炎が揺らめく。
火のついた線香から白い煙が躍りながら天に上がっていく。鼻をかすめる匂いに懐かしさを感じた。
優しく、頬を撫でていくそれらは、まるで人の手のようだった。
「お盆だから、会いに来たわよ」
誰も居ない早朝のお墓、ひとつの墓石の前で私は手を合わせる。両親を早くに亡くし、2人きりの姉妹になった私たちが死に別れるとは思わなかった。
突然の、交通事故。
当たり前に来ると思っていた明日が、来なかったあの日。
久しぶりに会える姉とのショッピングを楽しみにしていたのに、来たのは姉ではなく、病院からの連絡だった。
ただ帰宅するために歩道を歩いていた姉は、飲酒運転の男に、奪われてしまったのだ。運悪くスマホやバッグが遠くへ飛ばされて、私へ連絡が来たのは姉が死んだあと。翌朝だった。
「もうあれから、3年も経つのよ。私、お姉ちゃんの歳に追いついてしまったわ…」
明るく人との交流が得意な姉と違って、私は一歩踏み出せず、人との関わりは増やせて居ない。職場に数名、話せる友人が居る程度。恋人も居ない。唯一の家族を奪われてしまった悲しみから、当時はここまで立ち上がれると思わなかった。それもこれも、当時の私を見兼ねて手を差し伸べてくれた、友人と上司が居たからだ。
職場には、とても恵まれたと思う。
掃除を終え水跡が残る、返事のないその墓石を眺め、私は思考の海に身を投げ出す。この両親と姉の眠っている墓石のそばが、私には重要な意味のある場所だった。
思考の中で、姉の言葉を思い浮かべる。人は死んで最初に忘れるものは、声らしい。私はもう正確な姉の声を思い出せない。
じわっと汗が滲む、真夏の墓地。
またそっと、風が私を撫でた。
それでも私は動かない。
今日だけは、ここに居る間だけは、全身に風を感じて居たいから。
パパが言ってた。
虹の向こうには、天国があるって。
パパは、死んじゃった。
事故だったらしい。突然だった。
毎日、パパの胸に抱かれて寝ていた。僕の茶色い毛を優しく撫でてくれる大きな手が大好きだった。
パパが死んでから、僕は施設に預けられた。
他の子たちに囲まれて新しい飼い主を待っている。
でも、僕はパパを待っているんだ。
他の誰かじゃなくて、毎日遊んでくれて、抱いて寝てくれるあのパパを。僕は犬だから、言葉は喋れないけど、パパは…パパは僕の言葉をちゃんと理解してくれていたんだ。
パパに会いたい。
そう思ったら、施設の高い塀を僕は飛び越えていた。
施設の人の声が後ろから聞こえる。
でも、立ち止まらない。
全力で走った。
雨が少し降っている。晴れているのに、雨だ。
雨の日には、パパは僕に服を着せてくれた。
でも、今日は服はない。直接冷たい雨が、背中の毛に当たって、じわじわと皮膚まで冷えていった。
ふと、空を見上げる。
遠くに光る七色の橋。
あの橋を渡って、向こうまで行けば、
パパに会えるかもしれない。
僕は駆けていく。
虹のはじまりを探して。
【もしも過去へと行けるなら】
病室で、右手で妻の右手を握る。
とても、穏やかな顔をしてる。
「お母さん、すごく良い顔しとるね」
「心筋梗塞やって。持病も色々持ってるし…苦しかったやろうにね…」
「誰も間に合わなかったなぁ。」
3人の娘たちは、口々に言う。娘たちはそれぞれ、県外へと嫁に行き子どもをしっかり育て上げた。
孫も1番上の子でもう、35歳になるだろう。
今回は入院中の妻の危篤の電話が入ったのが平日の夕方ということもあり、私と娘たちだけが病室へと集まった。
娘たちはハンカチを片手に、妻の顔を覗き込んでいる。
私は、仕事が1番だった。平日も休日も関係なく、働き詰めだったが好きな仕事だったので苦は無かった。
妻は、ほとんどひとりで子育てをしてくれた。苦労を掛けたと思う。家族旅行もあまり行かなかった。
孫が産まれ、仕事を定年退職してからは好き勝手に過ごしていたように思う。
妻の作るご飯を食べ、妻が用意してくれる着替えや生活の動線を自由に使う。妻は文句も言わずに、私のそばで居てくれた。妻が時折入院するようになってから、自分で身の回りのことをするようになって、ようやく妻がどれだけ大変な思いで毎日過ごしていたのか想像するようになった。男は馬鹿な生きものだと思う。側にあるうちは、その当たり前さにあぐらをかいて、専業主婦として家に居る妻を何処か下に見ていたんだろう。こんなに馬鹿な男なのに、何故妻はずっと一緒に居てくれたんだろう。
当たり前に貰いすぎて、感謝なんて、した覚えがない。
妻が死んだというのに。思い出すのは就寝前に、妻が習慣のように作る梅昆布茶を飲むことだった。
特に話をするわけではない。
『梅昆布茶は、睡眠前に飲むのにとても身体に良いんやって。曾孫も増えてきて、もう名前が覚えられやんわ。でも、元気に生きてみんなの成長を見ていかんとね』
柔らかい、妻の声が聞こえた気がした。
自分自身のことよりも、誰かを優先する、とても優しい女だったのだ。
右手に力が入る。
冷たいそれは、もう握り返してはくれない。
もしも過去へと行ける、夢のような道具があるのなら、
私は妻に「ありがとう」と、「苦労をかけてすまない」と伝え、きっと嫌がられるほど抱きしめてやるだろう。
歳と共に涙は枯れてしまったのか、もう溢れることはないが、私は妻を愛していたと言う事実が、溢れんばかりに胸を熱くした。
娘たちが返事もくれない妻に声をかける中、ぽつりと私は呟いていた。
「おい、早く迎えに来てくれよ」
【またいつか】
駅のホーム。行き交う人々。
その場に、縫い付けられたように動けない私。
動けなくて立ち尽くしているのに、周りの人たちはとても上手に私を避けて前に進んでいく。
まるで私なんて最初から、居ないかのように。
「大丈夫ですか?」
透き通るような綺麗な声に、ハッとする。
私の存在に気づき、立ち止まる女の人。
止まった時間が動き出したみたいに、私の意識もはっきりとしていく。
「え、ええ…」
「もしかして、気分悪いんですか?顔色…」
「……少し…」
特に考えずに返事をしていた。
気分が悪いわけではないと思う。でも、なんだか居心地はとても悪くてとても強い不安感に飲まれていくようだった。
女の人は、私の手を取るとベンチの所まで連れて行ってくれた。私はその手を振り払うことはせずに素直に従う。
「誰かに押されたら、危ないから」
とても優しく笑い、ベンチへ私を座らせると隣に荷物を置いて自販機まで走っていく。
ホームを流れるままに、歩いていた人たちの波は少し落ち着いていた。戻ってきた女の人が手にしていたのは、麦茶と水。
「どっちが良いですか??」
「すみません…大丈夫…」
「私2つも要らないから、良かったらもらってください!」
「ありがとう…」
私は水を手に取る。女の人はキャップを開け、麦茶をゴクゴクと音を立てて飲んだ。私も真似して、キャップ開ける。ゆっくりとした動作で、水を口に運ぶと喉が渇いていたことに気づいた。そのまま、喉を潤すように水を体内へ送り込む。女の人は、私のその様子をじっと見ていた。
「ふふ、良かった。顔色…少し戻ってきたみたい。真っ青でしたよ。」
「ごめんなさい。ご迷惑かけてしまって…」
「勝手にやったことですから!私、こんな風にすぐ人に絡んでしまうから…よくお節介だと嫌がられるんです。でも今日は、それが役に立って良かった。」
女の人は、ニコリと笑う。
声も綺麗だと思ったけど、とても綺麗な笑顔だなと思った。女の人は鞄から、メモ帳を出して、サラサラっとメモ書きすると私に渡す。
「これ、チャットアプリの私のIDなんです。名前も偽名で始められるから、もし良かったら…話しませんか?」
「え?」
「ふふ、そんなに警戒しないでください!なんだか、悩んでるみたいだったから…。偽名だし、知らない人だから相談出来ることってあるじゃないですか。良かったら連絡ください。私、仕事辞めて転職活動中で…暇なんです」
「……」
「怪しんでます?」
「…少し…」
「ふふ、正直ですね。そろそろ私は行かないと。じゃあ、またいつか!」
「あ、水…ありがとうございました」
「はーい!」
手を振りながら、女の人はあっという間に去っていく。
少し前までの不安感は、少し和らいでいたように思う。
女の人の後ろ姿を、見えなくなるまで見ていた。