「登ってみろよ!ノロマ!!」
「お前なんかにこっち来れるかよ!ははは!!」
ジャングルジム。それは力あるものが上へと進み、力の無いものは下の方にいるしかない。上に行けば行くほど落ちた時の危険は上がる。ただそれでも皆、上を目指す。だが、なかには他者の影響を使って上がる者もいる。ジャングルジムの上を眺める私は幼いながら社会とはこのようなものなのかもしれないと思っていた。
月日が流れ、自分はごく普通のありふれたサラリーマンとなった。会社も社会もジャングルジムと同じだ。しかし、違うところもある。それは全て実力であり、結果のみが答えにしかならないということだ。力なく登ったように見える人にも他者を味方につけるという別の力があり、登ったものが何らかの影響で落ちたのなら、その時見た高さが過去関係なく結果として見られる。未だヒラで結果を出せてない自分はジャングルジムの競走にも参加出来ていない。それは登りたいものの踏み台にされる危険性もあるということを孕んでいる。
仕事に、人間関係に疲れた私は夜の公園でジャングルジムに登った。さすがに子供がいる時間に大の大人が占有するのは気が引けた。上から見た景色は子供の頃よりもちっぽけに見え、ビルが建ったからか狭苦しく感じた。それでも心のどこかで何かから解放されるかのような安心感を感じた。今この瞬間子供だったのなら、ジャングルジムの頂上という抗いがたい魅力の虜になっていたことだろう。
トロッコ問題というものを聞いたことがあるだろうか?トロッコ問題というのはトロッコのふたつの分かれ道の片方には誠実な人を一人、もうかたほうには犯罪者を5人をしばりつけあなたはどちらの命を優先するのか?と言うものを考える思考実験である。どちらかのためにどちらかを犠牲にする、その選択は自分のためかもしれないし、誰かのためかもしれない。この問題はそうした倫理観、死生観を私たちに問うている。どちらが正しいのか、それは時代や人生経験によって変わるだろう。
さて、このトロッコ問題では時折第三者を使ってトロッコを止めるというものもある。例を挙げるなら、自分を犠牲にするものや大きな人を犠牲にするというものもある。では、あなたがトロッコ問題の場所にいるとして、あなたは自分の身を捨てられるだろうか。そのレールの先にいる、名前も年齢も顔すらも知らない、誰かのために命を捨てられるだろうか。私は断然Noだ。
では、その選択をした時、トロッコの先にいるのが自分の両親や、関わりの深い人、親友、恋人だったらあなたはその選択を後悔しないだろうか。誰かが知り合いだった時に後悔しないだろうか。
結局、私が何を言いたいのかと言うと、誰かのためは結局のところ、じぶんや周りの人のためになるということだ。人生という名のトロッコ問題では必ず犠牲にしないといけないものが出てくる。何がが大切か、それを考えることこそが誰かのためになるのかもしれない
小さい頃、家にインコがいた。
幼いながらわたしは、この子を外へ出してあげたい、大空に解き放ちたいと思っていた。
インコは結局、あの部屋の中で、あの鳥籠の中で一生を迎えた。
今の私は社会人となり、会社と自宅を往復し、地下鉄に揺られる日々を送っている。
ふと思うのは、私は自由なのか、ということだ。
自由とはなんなのか、どこかに行けることなのか、何にも縛られないことなのか、何かを決められる権利を持つことか。私にはまだ、自由というものはわからない。きっと、死を目の前にしている老人でさえもわからない。
社会という鳥籠に、日本という鳥籠に、人生という鳥籠にそして、自由という鳥籠に私は囚われているのかもしれない。
鳥籠は悪いことだけではない、そこには慢心的な安全が満ちている。心を落ち着かせることができる。
狭い世界は自分の存在を少し大きくしてくれる。
それなのに、私は自由に囚われている。安心に囚われている。つまり、私にとってはどこでも鳥籠の中なのだ。そこは狭く、不自由だか、安心とある種の自由があるのだ。きっと死ぬまで私は何かの中で囚われている。
雪が土を湿らせる。
柔らかな土と日差しが君を温める。
まだ、ちいさく幼い君は己の殻を破るため力を込めて、もがいている。
硬い殻を破ったとて、すぐには現れない。
時間をかけてふたつの葉を開かせる。
君は、日を追う事に殻を破った努力が、自らの成長への1歩だと実感するだろう。
沢山食べて、沢山飲んで、沢山息をする。瑞々しい体を空へ伸ばす。
初めの葉を養分にしてまだまだ伸び続ける。
子供から大人になる季節、君もまた、大人になる。
大きく、可憐な花を惜しげも無く咲かせる。
朝露に濡れる花は、可愛く、美しく、妖艶な輝きを持ってみつばちを呼び寄せる。
みつはちとの協力が実を結ぶと、新たな生命を誕生させる準備を完了させる。
君が枯れてしまっても、君の子は君と同じように、元気に育つだろう。
生物の目的、次世代へのバトンタッチができたのは、君が魅力的な花を咲かせることができたからだ。
それは、君の小さい、けれど大きなきっかけからだということを忘れてはいけない。