【またね】
ああ、また駄目だった。そう思うのは何度目か。
万華鏡、というものを知っているだろうか。
三面の向かい合わせた鏡に囲まれ、その中を数多の色鮮やかな細工物が転がり、一種の一時しか得られぬ芸術、永遠には留めおけない芸術。
しかし、そのどの姿も美しく。されど、あのときに見た美しさをもう一度と願っても、なかなか実現されることは難しい。だが、どうして諦める事が出来ようか。一度手に入れたことがあるということは、得るのが不可能ではないと分かっているのだから。
今日もまた、自分は万華鏡を転がす。
『またね、消しゴムが無くなってたの』と、彼女はそう言った。
その後、彼女は『装飾された新しい消しゴムが机に置かれてたわ!』と喜んだ。
『またね、あの子に悪口を言われたの』と、彼女はそう言った。
その後、彼女は『あの子、お引っ越しするんだって!』と喜んだ。
『またね、お母さんに叱られたの』と、彼女はそう言った。
その後、彼女は『お母さん、死んじゃった』と悲しんだ。
なぜ?
居なくなって嬉しくないの? と聞いたら、真っ青な顔で首を振られた。
ふうん。また、間違えたかぁ。難しいなぁ。
『もしかして、あなたの仕業なの?』と彼女が聞くから。
『うん、そうだよ』というと、たくさん怒られた。
『なんで、こんなことするの!』と彼女が聞くから。
『だって、愛しているんだもの』と言った。
『あなたなんて嫌い!! 二度と顔を見せないで!!』
と、彼女がそう言った。
『うん、分かった』
と――彼女の首を絞めた。
息絶えた躯の前で、冷たくなりつつある体の前で、また否定された愛しい者の前で、何度目か分からない光景の前で、ただ彼女の頬を撫でた。
『来世でも一緒になろうね』ってそう言ってたのになぁ。
忘れてもいいのかもしれない。約束は時効かもしれない。
それでも、一度見た、万華鏡の美しさを、知ってしまっていたから。
――愛しているのに、こんなにも距離が遠い。
『またね』
自分はそう言って、己の首を刃物で掻き切った。
『次はあの子も覚えていますように』
もしくは……。
『次の自分は約束を忘れていますように』
《泡になりたい》
苦労が水の泡になる、とはよく聞くものだが、私の苦労は水の泡にはならなかった。
――だから、私が泡になるのだ。
水中から見上げる海面は、いつもキラキラとしていた。
波を揺蕩う光の反射で、又は夜空に散りばめたれた宝石のような星が輝くため。
だけど、あとにも先にも、私はあんな美しい光景は見たことが無かった。
まるで星の輝きを金糸に練り混んだような、それを一斉に海面にばら撒いて、キラキラと光り輝く黄金の天の川だった。
だから、私はそれに触れたいと思って……彼と出会う。
砂浜の上、金髪の彼が私に助けられたお礼を言った。
私は首を傾げながら、頷いた。ずっと一人で暮らしてきた私には、その感情はまだ難しかったから、
何度か会ううちに、どんどんと心が引き込まれて行くことに気づく。
笑ったときに口元に出来るえくぼ。どんなに手入れしても一房ぴょこんと立ち上がるアホ毛。まるで夕日を詰め込んだような美しい赤い瞳。そして、愛しい人の事を語るときの甘い囁き。
好きな人だと、幼馴染だと、領主の娘だと、初恋なんだと……色々と聞いた。だから、知ったときには遅すぎだ。
好きだなんて、これが恋だなんて、伝える気にはならなかった、なれなかった。
どんな病も治す『海の宝石』があれば、幼馴染で領主の娘である初恋の好きな人の病が治せるのだと。
泳げないカナヅチの自分はそのために、この海に来て探して居るのだと。
彼がそう言っていた。どこか寂しそうな目だった。途方にくれているような、諦めてしまっているような……目の前に宝物があるのに、自分には手に入らないと分かってしまったような、そんな顔。
それがどれだけ辛いのか、私はよく知ってる。だって、私もそうだ。
だからこそ、だからこそだ。
私は彼に『海の宝石』を差し出した。
いいの? と聞く彼に、いいの。と答えた。
ありがとうと本当に嬉しそうに涙を流す彼に、私は後ろで固く握った拳を隠しながら、ニッコリと意識して微笑を浮かべた口元で言った。
どんな彼女とお幸せに、と。
彼は、もちろんと、照れくそうに頬を染めながら大きく頷いた。
そんな事できないよ、君も居てくれないと。なんて言葉はやっぱり吐いてはくれなかった。
……当たり前だけど。最期だから、ちょっとは期待した、しても良いだろう、これぐらいは。
涙は出ない、出さない。それが、なけなしの私の矜持だったから。
その後、彼は海を離れて、渡り鳥から二人が結婚した事を教えて貰った。
あぁ、良かったと。あぁ、寂しい。が一緒になって襲ってくる。
もうよろしいですか? と声がした。
深い深海色の暗いローブを被って、深緑のわかめみたいな髪で顔を覆い尽くした、海の魔法使いだった。
私は、いいですよ。と言った。
取引をしたのだ。『海の宝石』を手に入れる代わりに、私が泡になることを。
惚れ薬なら髪の毛で済んだのに。そう悲しそうに口を曲げる海の魔法使いに、くすりと笑った。
それでは私の苦労が水の泡だわ。
だって、私が好きになったのは、好きな人のために足掻く、彼だったから。
私の苦労は水の泡にはならなかった。
――だから、私が泡になるのだ。
こんな清々しい気持ちで、泡になりたいと思った人魚は私が初めてでしょうね。
そう言った私に、海の魔法使いは苦々しく、そりゃそうだ。と肩を竦める。
そうしている間にも、私の下半身は泡となって消えていく。
ありがとう、と。私は最期に言えただろうか。
だから、私は知らない。
僕だって、貴女をずっと愛して居たんですよ、と泡をかき集めながら、咽び泣く者の姿を。
泡になりたい。
そう言って、自分の姿を泡に変えてしまったのを。
《ただいま、夏》
二度と食べられなくなった肉まんが恋しかった。そのためなら、なんだって出来る気がした。ただ、それだけ。
びょうびょうと頬に突き刺さるような極寒の吹雪、一歩先すら見えないほどの荒れ狂う真っ白な雪景色。体の芯が冷えに冷えて、指先を動かすだけで全力疾走したほどの体力を消費する。
――現在、世界は悪の科学者により、絶賛氷河期を迎えている。
私は今、たくさんのセキュリティーを乗り越えて、とある装置の前に立っている。
悪の科学者が作った、氷河期到来機械の『停止』スイッチの前に。
たくさんの仲間が倒れ伏した。全人類の期待を背負って、スイッチを私は押した。肩で荒く息をして、口から出る真白の息でメガネを曇らしながら、震える指先で、停止スイッチを押した。
そして、隣にあった機械、真夏到来機械の『稼働』スイッチを押す。
これできっと夏が来る。肉まんだって食べられるようになるだろう。
外に出た。
まるで、早送りされた映像のように、世界が移り変わっていく。
世界に青空が広がり、真っ白だった雪は溶け茶色の大地を剥き出しにしたかと思うと、ぽつりぽつりと緑の芽が顔を出し、すぐさま大地を一面の緑で覆い尽くした。桃やオレンジなどの花が顔を出したかと思うと、木がたくさん生え始めて森になった。
どこからか虫や動物、蝉の声がし始める。
じりじりとした太陽の熱を感じる。気がつけば、すぐ横には黄金色の向日葵が立っていた。
ああ、ただいま、夏。
人里に降り、再び口にした肉まんに頬を緩める。気がつけば、頬が流れ落ちた涙で濡れていた。
じんわりと掌に広がる熱に、口に溢れる肉汁に。どうにも感情が高ぶるのを抑えられなかった。
ああ、生きてて良かった。頑張って良かった。
次の日、真夏の炎天下の下で私はこう思った。
寒い中で食べる鍋は最高だろう、そのためなら、なんだって出来る気がした。ただ、それだけ。
そして私は再び、悪の科学者の施設に向かった。夏到来機械の停止スイッチを押し、氷河期到来機械の『稼働』スイッチを押した。
……だって、最高の鍋が食べたいから。
ただいま、夏。
おかえり、冬。
―とある悪の科学者の手記より―
唐突だが、僕は『ぬるい炭酸』が嫌いだ。風呂の残り湯のような生温い温度、沼に足を踏み入れたみたいなへばり付く喉越し、そして大雨の日に靴に水が溜まって靴下がグチョグチョになったような不快感、それらがほんとうに嫌いだ。
夏の日は、じめっとした生ぬるい湿度の高い空気と、じりじりと照りつけるような高温の日差しが僕らを襲う。
真っ青な空と、笑顔で咲き誇る黄色の向日葵、二色のコントラストが眩しくて目に染みる。
こんな日には、キンキンに冷えたサイダーをぐびりとやるに限る。
僕は友達との学校帰り、コンビニによってサイダーの入った透明のラムネ瓶を1本購入した。
無口だが真面目な友達が、放課後の寄り道にじとりをこちらを見るが、僕は無視して、ラムネ瓶を傾ける。
シュワシュワとした弾ける感覚と、流氷のように冷たい液体が、喉を流れ落ちる。
喜びに満ちる僕に、近所の小学生がちょっかいをかけてきた。最近よくあるやり取りだ。一口ちょうだい、なんなら一本買って、という無邪気だが安い小遣いしかない僕のラムネの取り分か財布にダイレクトアタックしてくる攻撃を、大人げなくじゃんけんで勝ちきった僕。
それは良かった。
……ただし、その頃には買ったラムネ瓶がぬるい炭酸になっていた、最悪だ。
僕はぬるい炭酸が嫌いだ。ぎりりと強く睨みつけたラムネ瓶を、友達が無言で取り上げる。
なにやらボソボソと、無言な彼にしては長い言葉を発したかと思うと、またもや無言でラムネ瓶を返された。
首を傾けながら手にしたラムネ瓶の冷たさに僕は、はっと目を見開く。
僕の手には冷え冷えになったラムネ瓶が握られていたのだ。
なんで? とラムネ瓶と友人を交互に何度も見返しながら聞くと、ぼそりと友人が氷魔法を使ったから。と答える。氷魔法? え、なにそれ、なんでそんなの使えるの? と聞くと、異世界生まれだから。とそう言った。
……え、僕の友人、異世界転移してきたってこと?
思わず溢れた独り言に、友人は律儀に頷いた。
なんで言ってくれなかったの? と僕が聞くと、聞かれなかったから、と友人が答える。
いや、いくら無口だからと言って、それぐらいは言っておいてくれよ、おいおい。そう思ってしまうのは、果たして僕が悪いというのかだろうか、いや僕は悪くない。
根掘り葉掘りと愛人とホテルから出てきた夫を責め立てる妻のように、僕がキリキリと追求していく。
そこでこんな質問を僕はした。
Q あなたはどうして、異世界からやって来たのですか?
A 魔王が復活して、この世界を滅ぼすのを止めるために。
え、こわ。
魔王とか居るの? と僕が聞く。コクリと無言で頷かれた。頷かないで欲しかった。今からでも、うっそぴょーん! とか言ってくれないだろうか、無理か、無理だよなぁ。この無言な友人に、うっそぴょーん! は無理だ。僕が無理だった。
どうやって魔王が世界を滅ぼすのを止めるの? 僕が恐る恐る聞くと、友人はもう止まった。そう答えた。
いつ?
今さっき、じゃんけんに勝ったから。
だれが?
お前が。
ミンミンミーン! と鳴り響く蝉の声だけが辺りを支配する。
二人で何も言わずに見つめ合って、コンビニのすぐ横にある鉄の棒で出来た腰掛けやすいとこに座って、じとりと汗を垂れ流した。
無口な友人はじっとこちらを見ている。
僕は視線を右往左往しながら、あ、え、お、と言葉にならない音を吐き出していた。
……ど、どういうことですか? とようやく聞いた僕に、さっきの近所の小学生が魔王だと言われて驚愕した。
え、僕は知らない間に世界救っちゃった感じですか?
はい。
唐突な展開すぎて、もはやついていけないと呆気に取られた僕が、せめてもの心の癒やしにとばかりに、ラムネ瓶を呷ろうとすると、またしてもラムネ瓶はぬるくなっていた。そりゃそうだ。
現実味のない事象よりも、身近な悲劇。
はっきりと悲しい気持ちに覆われた僕に、またもや友人は無言でラムネ瓶を取り上げ、ゴニョゴニョ言うと僕に返してくれる。
……冷たい。
氷魔法ですか? と聞くと、時戻し魔法だ、と答えてくれる。
ラムネ瓶をぐいっと呷ると、キンキンに冷えた液体と共に、開封したてのような強い炭酸の刺激が、口内を弾けた。
なるほど、これは確かに、氷魔法じゃなくて時戻し魔法だ。便利だな。
減ったラムネ瓶の中身に、これは時戻し魔法で戻せないの? と聞くと、無口な友人は、それは法律で規制されている、と言われた。
……魔法も案外、不便らしい。
僕は残ったラムネ瓶を、炭酸がぬるくなる前にチビリチビリと一口ずつ大事に口にする。
世界を救った勇者に対する勝利の美酒にしては、案外チープだが、ぬるい炭酸よりずっとマシである。
僕は大事に最後の一滴まで楽しんだ。