《泡になりたい》
苦労が水の泡になる、とはよく聞くものだが、私の苦労は水の泡にはならなかった。
――だから、私が泡になるのだ。
水中から見上げる海面は、いつもキラキラとしていた。
波を揺蕩う光の反射で、又は夜空に散りばめたれた宝石のような星が輝くため。
だけど、あとにも先にも、私はあんな美しい光景は見たことが無かった。
まるで星の輝きを金糸に練り混んだような、それを一斉に海面にばら撒いて、キラキラと光り輝く黄金の天の川だった。
だから、私はそれに触れたいと思って……彼と出会う。
砂浜の上、金髪の彼が私に助けられたお礼を言った。
私は首を傾げながら、頷いた。ずっと一人で暮らしてきた私には、その感情はまだ難しかったから、
何度か会ううちに、どんどんと心が引き込まれて行くことに気づく。
笑ったときに口元に出来るえくぼ。どんなに手入れしても一房ぴょこんと立ち上がるアホ毛。まるで夕日を詰め込んだような美しい赤い瞳。そして、愛しい人の事を語るときの甘い囁き。
好きな人だと、幼馴染だと、領主の娘だと、初恋なんだと……色々と聞いた。だから、知ったときには遅すぎだ。
好きだなんて、これが恋だなんて、伝える気にはならなかった、なれなかった。
どんな病も治す『海の宝石』があれば、幼馴染で領主の娘である初恋の好きな人の病が治せるのだと。
泳げないカナヅチの自分はそのために、この海に来て探して居るのだと。
彼がそう言っていた。どこか寂しそうな目だった。途方にくれているような、諦めてしまっているような……目の前に宝物があるのに、自分には手に入らないと分かってしまったような、そんな顔。
それがどれだけ辛いのか、私はよく知ってる。だって、私もそうだ。
だからこそ、だからこそだ。
私は彼に『海の宝石』を差し出した。
いいの? と聞く彼に、いいの。と答えた。
ありがとうと本当に嬉しそうに涙を流す彼に、私は後ろで固く握った拳を隠しながら、ニッコリと意識して微笑を浮かべた口元で言った。
どんな彼女とお幸せに、と。
彼は、もちろんと、照れくそうに頬を染めながら大きく頷いた。
そんな事できないよ、君も居てくれないと。なんて言葉はやっぱり吐いてはくれなかった。
……当たり前だけど。最期だから、ちょっとは期待した、しても良いだろう、これぐらいは。
涙は出ない、出さない。それが、なけなしの私の矜持だったから。
その後、彼は海を離れて、渡り鳥から二人が結婚した事を教えて貰った。
あぁ、良かったと。あぁ、寂しい。が一緒になって襲ってくる。
もうよろしいですか? と声がした。
深い深海色の暗いローブを被って、深緑のわかめみたいな髪で顔を覆い尽くした、海の魔法使いだった。
私は、いいですよ。と言った。
取引をしたのだ。『海の宝石』を手に入れる代わりに、私が泡になることを。
惚れ薬なら髪の毛で済んだのに。そう悲しそうに口を曲げる海の魔法使いに、くすりと笑った。
それでは私の苦労が水の泡だわ。
だって、私が好きになったのは、好きな人のために足掻く、彼だったから。
私の苦労は水の泡にはならなかった。
――だから、私が泡になるのだ。
こんな清々しい気持ちで、泡になりたいと思った人魚は私が初めてでしょうね。
そう言った私に、海の魔法使いは苦々しく、そりゃそうだ。と肩を竦める。
そうしている間にも、私の下半身は泡となって消えていく。
ありがとう、と。私は最期に言えただろうか。
だから、私は知らない。
僕だって、貴女をずっと愛して居たんですよ、と泡をかき集めながら、咽び泣く者の姿を。
泡になりたい。
そう言って、自分の姿を泡に変えてしまったのを。
8/5/2025, 1:19:09 PM