涙
ぽつりと涙が落ちる。
それは、何かを失う音。
涙は静かに、頬を伝い、
誰にも気付かれずに、
夜の底へと還ってゆきます。
貴方が笑い掛けてくれた日を、
まだ、覚えています。
余りにも、優しくて。
でも、とても脆くて。
だから。
欲しくなってしまったのです。
貴方の全てを。
呼吸も、声も、
血の温もりさえも。
愚かなことだとは、
知っていました。
ですが。
赦されたいとは、
思いませんでした。
ただ、
共に終わるために、
過去に奪われないように、
この手を汚したのです。
貴方にとって私は、
特別な存在になれないから。
誰にも奪われないよう、
貴方の心ごと、
閉じ込めるしかなかったのです。
貴方の瞳が閉じたとき、
漸く、私は貴方と、
ひとつになれた気がしました。
貴方の最期の震えが、
私の鼓動になり、
涙が流れる音となり、
静かに、溶け合ってゆきました。
私は今もここにいます。
眠らず、泣かず、
ただ、消えゆく、
その温もりだけを抱いて。
凍りゆく夜の中で、
貴方の名を心に刻みます。
ぽつりと涙が落ちる。
それは、何もかも失う音。
小さな幸せ
貴方は、突然、
俺達を置き去りにして、
逝ってしまった。
俺は、憎んだ。
貴方の命を奪った輩を。
貴方を一人にした仲間を。
貴方を救えなかった医者を。
でも、本当は、分かってる。
貴方を奪ったのは、
人の力では抗えない、
この世界の理…自然の力。
誰も悪くなんか、ない。
そして。
本当に憎らしいのは、
それを認められない、
醜くて、弱い、俺自身。
それなのに、
他人に責任をなすりつけて、
貴方の居ない悲しみを、
誤魔化してるんだ。
貴方が旅立ってしまって、
ぽっかり空いた心の穴を、
埋めるように、
貴方の想い出の欠片を、
探して。集めて。
そして、抱き締める。
貴方の名残に触れる度、
懐かしい声が、
すぐ傍に聞こえる気がする。
だから、俺は。
想い出の中の貴方の背を、
今も、必死に追い掛ける。
それが、唯一、
俺に遺された、
…小さな幸せ。
春爛漫
気が付けば、春爛漫。
一面に、春が咲いていた。
枝の先は薄桃色に染まり、
柔らかな陽の光を浴びて、
まるで俺を嘲笑うかのように、
無邪気に微笑んでいた。
ここには、
爽やかな風も、
甘い花の香りもあるのに、
何故か、心だけは、
冷たく凍りついていて。
逃げようと走っても、
この季節は終わらない。
華やかな色を纏った世界が、
ただ、眩しくて、苦しくて、
俺を苦しめるんだ。
柔らかな春風に乗って、
君の声が聞こえてくる。
だけど、君はいつだって、
皆の真ん中にいるから、
遠くから見詰めることしか、
出来ないんだ。
例え、君を求めたとしても、
差し出されるのは、きっと、
友情という、
優しくも残酷な感情。
俺の想いはずっと、
届く場所も分からず、
春霞の空を彷徨っている。
それでも、
忘れることが、出来ないんだ。
春は、
こんなにも、騒がしいのに、
こんなにも、静かだったなんて、
知りたくはなかったのに。
春爛漫。
この鮮やかな景色の中で、
今年も変わらず、何度でも、
ただひとり、君を想う。
七色
貴方に出逢うまでは、
私は人の姿をした、
ただの動物でした。
常に孤独で、心を持たず、
誰の目にも止まらない、
見捨てられた存在でした。
ですから。
私の世界は、
いつも灰色で、
私の心は、
果てしない闇の色でした。
でも。
貴方が教えてくれたのです。
この世界には、
色鮮やかで、
美しいものがあるのだと。
春の葉は、瑞々しい緑に輝き、
夏の空は、どこまでも澄んだ青を描き、
秋は山々を、黄や橙に染め上げ、
冬の夜空には、月が淡い紫を滲ませる。
そして虹は、
七色に煌めくことを、
貴方が、私に教えてくれました。
貴方は、私の心を、
七色の光で、優しく染めてくれたのに。
貴方の心は、次第に、
醜いこの世に踏みにじられ、
その鮮やかさを失い、
悪意の黒に蝕まれていったのです。
だから、私は。
貴方を、赤に染めました。
貴方と私の中から流れ出す、
とてもとても美しい……生命の赤で。
これで貴方は、
私の色に染まり。
これで私は、
貴方の色に染まり。
そして、二人の色は、
混ざり合い、そして、溶け合い、
七色は、永遠となるのです。
記憶
瞼の裏に残るのは、
あの日の匂いと、雨の温度。
呼び掛けようとして、
声が喉の奥で、解けていく。
ただ、擦れ違っただけ、だった。
私と君を、そんな言葉で、
片づけられたなら、
どれだけ楽だっただろう。
そして、私は独り、
今も、ここにいるんだ。
夜を歩けば、溢れるのは、
記憶の中の君の影。
誰もいないのに、
口唇から溢れ落ちる、
君の名だけが、
風に残るんだ。
何故、忘れられないのだろう。
何故、消えてくれないのだろう。
一度断たれた糸を、
何度、結ぼうとしても、
解けてしまうのに。
遠くに君を感じる度、
堪らなく、笑いたくなって。
堪らなく、泣きたくなる。
記憶という名の檻に、
自分で鍵をかけて、
逃げられなくしているのは、
きっと、私自身なんだ。
きっと君は、還らない。
それでも、君を愛している。
〜〜〜〜〜〜
もう二度と
もう二度と、
あの声に包まれることはないと、
夜の隙間から溢れ落ちる、
夢の欠片が崩れる様を、
独り、眺める。
擦れ違いの果てに、
交わした言葉は、
刃よりも鋭く、静かに、
氷よりも冷たく、深く、
胸の奥を裂いていった。
別れを選んだのは、
確かにこの手だった。
なのに今も、心だけが、
あの面影を求めて彷徨う。
届きそうな距離に、
あの眼差しの残響がある。
その向こうで、
赦しを湛えた温もりが、
こちらに向けて、
その手を伸ばしていることは、
気付いている。
……だが、私には、
あの光に触れる資格など、もうない。
壊すことしか知らぬこの手で、
もう一度、その微笑みに触れるなど、
きっと、赦されはしない。
だから、この想いは、
風の中に置いてきた、
あの日のまま、
静かに終わらせたい。
強がりではない、と。
誰に言い訳するでも無く、
ただ。
その温もりを忘れぬように、
胸の奥にしまい込む。
もう二度と。
触れることも、
語ることもない。
ただ――
それほどまでに、
お前が、愛おしかったんだ。