理想郷
君は、ただそこに佇んでいた。
幾ら話しかけても、
微かに揺らめく事は無く。
硝子玉のような瞳は、
何一つ映し出すことなく、
ただ、虚空を見つめていた。
この世に理想郷など、
存在する筈もないから。
醜く汚れた現世で、
血反吐に塗れて、
生きるしかない。
それが、人の定めだと、
私たちは知っている。
だが。それは、
余りに純粋な君には、
耐え難い苦しみだった。
君は、心を閉ざしてしまった。
心臓は動き、体温は感じられるのに、
その身体からは、
生命の息吹が失われている。
まるで精巧な人形のように、
君の心は、現し世から
遠く離れてしまった。
私も君の元へ行くとしよう。
常世の国には、
理想郷があると聞く。
君と私で、探しに行こう。
此岸では、
守り切れなかった君を、
彼岸では、
必ず守ると誓おう。
この世で最後の我儘を、
どうか、赦して欲しい。
懐かしく思うこと
俺の隣で、
すやすやと眠る君。
愛しい君の寝顔を見る度に、
胸にあふれるのは、
幼い日の記憶。
あの頃の君は、
恥ずかしがり屋で。
皆と遊びたい気持ちが、
言葉に出来なくて、
ひとりで部屋の隅に立っていたね。
あの頃の君は、
とても怖がりで。
小さな虫にも驚いて、
目の前に飛び出してくるだけで、
泣き声を上げてたね。
あの頃の君は、
とても甘えん坊で、
俺の後ろを、小さな足で、
一生懸命に追いかけて来たね。
懐かしく思うこと。
大切な想い出たちは、
こんなにもいっぱいあって、
一つひとつが宝物なんだ。
だけど。
今、こうして、
また、君の隣に居られる事が、
何よりも幸せなんだ。
だから。
これからも一緒に、
新しい思い出を刻もう。
空いてしまった時間を埋めるように、
たくさん、たくさん、
話をしよう。
人の悪意や運命によって、
もう二度と君と、
引き離されたりしない様に。
今度は俺が君を守るよ。
だから、どうか今は、
ゆっくりと眠って。
…俺の隣で。
もう一つの物語
昔むかし、ある所に、
一人の男の子が居ました。
親に捨てられたその子は、
学も無く、金も無く、
今日を生きるために
ピエロになりました。
哀れなピエロは、
どんなに仲間に虐められても、
殴られても、蹴られても、
ピエロの仮面で涙を隠し、
笑って生きていました。
辛さを堪え、
笑いを演じなければ、
今日の食事さえも、
得られないのです。
ピエロは生きるため、
人々の笑顔を作りました。
けれど、ピエロ自身は、
自分の笑顔を、忘れてしまいました。
ある日、
ピエロの心は闇に沈み、
魂を悪魔に喰われました。
冷たい闇の中、
ピエロは仲間を見つけました。
世間に見放され、
蔑まれた人達でした。
それでも、ピエロにとって、
それは初めての安らぎでした。
そして、漸く。
彼は心からの笑顔を、
思い出したのです。
そして、彼は。
仮面を外し、
ピエロではなく、
一人の男の子に戻りました。
そして――
ここから始まるのは、
もう一つの物語。
暗がりの中で
暗がりの中で、
月光に浮かぶ、君の影。
闇に染まる、私の影。
静寂の帳に包まれ、
二人だけの、
愛の誓いを交わす。
この世で最期の誓い。
虚構の結婚式。
純白のドレスも、
軽やかなベールも、
華やかなブーケもない。
ただ、布の白に包まれた君。
互いの指に、
見えぬ指輪を交わす。
二人の温もりだけが、
唯一の証。
愛を誓い合い、
誓いの口付を交わす。
全てが消え去っても、
君と共にあるならば、
それだけで満ち足りる。
病める時も。健やかなる時も。
富める時も。貧しき時も。
そして、
…死せる時も。
暗がりの中で、
君と私は永遠を誓う。
冷たい静寂が深まり、
時は静かに止まる。
何があろうとも、
決して君の手を離さない。
さあ。二人で、
最期の一歩を踏み出そう。
…永遠の闇へと。
紅茶の香り
皆が眠りに就く、
静かな夜更け。
君は、何の前触れもなく、
私の部屋を訪れる。
…君と私の関係は、過去の事で、
君には、恋人が居るにも拘らず。
それでも。
顔を合わせた瞬間、
言葉も交わさず、
互いに求め合う口付け。
君から仄かに漂うのは、
…紅茶の香り。
華やかで爽やかな香りは、
君の恋人が好む、
ダージリンのストレートティー。
華やかな紅茶の香りが、
私の胸を締め付ける。
君の好きなワインの香りならば、
こんなに苦しくは、
ならなかっただろう。
今夜、君はワインよりも、
紅茶に酔いたかったのか?
そう問いかけながら、
ベッドの中で君に寄り添う。
君は言い訳もせず、
ただ静かに『御免ね』と謝るから。
それ以上、私には何も言えなかった。
明日の朝、目が覚めたら、
君に紅茶を振る舞おう。
私の好きな、スパイスを効かせた、
温かなミルクティーを。