真夜中
灯りの消えた暗い廊下を、
足音を殺し、一人歩いていきます。
遠慮がちに窓から差し込む、
青白い月明かりだけを頼りにして。
真夜中の静けさに、
まるで世界にたった一人で、
取り残された様な錯覚を感じ、
何処か不安になったにも拘らず、
灯りを灯そうとは、思いませんでした。
遠くから聞こえてくるのは、
夜行性の獣が獲物を求めている、
呻き声でしょうか?
それとも…。
真夜中は、
多くのものを闇で覆い隠します。
血生臭い行いも、犯罪行為も、
…人の醜さも。
真夜中の闇が、
私の過去の過ちも、後悔も、
叶う筈のない恋慕も、
いっそ、私自身さえ、
全て覆い隠してくれれば良いのに…と、
願わずにはいられませんでした。
愛あれば何でもできる?
私の中には、
私の知らない私が居て。
私は私が恐ろしいのです。
もう一人の私は。
愛する貴方を護る為なら、
真実に口を噤むことも、
親友を騙して素知らぬ顔で微笑む事も、
仲間の命を切り捨てる事さえ、
平気でしてきました。
そして。もう一人の私は。
愛する貴方を護る為なら、
友に刃を向ける事も、
神の教えに背く事も、
悪魔に魂を売り渡す事さえ、
平気で出来るでしょう。
…愛があれば何でもできる?
もし、貴方からそう問われれば、
私は困惑した顔で、首を横に振るでしょう。
…流石に、出来ない事もありますよ。
と。
ですが。
もう一人の私は、微笑みながら頷くでしょう。
…愛する貴方を殺める事以外なら
何でも出来ますよ。
と。
後悔
あの時。
私は、一時の怒りに駆り立てられ、
お前に別れを告げた。
お前の事なんか考えもせずに、
お前に酷い言葉を投げ付けた。
そして、私はお前の元を去った。
…後悔している。
お前の想いも考えも、二人の歴史も、
自分の中のお前への想いさえ、蔑ろにして、
お前との繋がりの全てを断ち切った事を。
そして、今も尚。
後悔を抱えたまま、
お前に近付く事も、お前を見る事も、
お前の事を思い出す事さえ、
避け続けている。
あの日。
君は、私に激しい怒りをぶち撒け、
私に別れを告げた。
一方的に私を責める君に、
私は、何も言う事が出来なかった。
そして、君は私の元を去っていった。
…後悔してる。
未練がましいのは、格好悪いからと、
君を手放したくないと、縋る事もせずに、
私の元から去りゆく君を、黙って見送った事を。
そして、今でも。
後悔を抱えたまま、
君に声を掛ける事も、君に近付く事も、
君をそっと見つめる事さえ、
出来ずにいるんだ。
風に身をまかせ
何だか、上手くいかなくって。
酷く息苦しくなって、
一人、街を飛び出した。
そのまま、高い丘に登って、
断崖絶壁の崖から、街を見下ろすと、
俺の住む街は、とても小さく見えた。
俺を苦しめてる日常って、
こんなにちっぽけなんだ、って。
そう思ったら、何だか涙が出てきた。
爽やかな風が吹き抜ける。
風が俺の服を、前髪を。
足元の草花さえ、分け隔てなく揺らす。
全て投げ出して、風に身をまかせ、
遠くに飛んでいってしまいたい。
そんな衝動に駆られて。
そのまま、足を踏み出そうとして、
…何とか踏み止まった。
きっと何時の日にか。
風が幸せを運んできてくれるから。
そう思ったら、何だか切なくて。
でも、もうちょっとだけ、
頑張ってみようって、思えた。
失われた時間
生まれ育った国から逃げる為に、
私は『私』を殺しました。
今迄、生きてきて築き上げてきた、
キャリアも、人間関係も。
全て…無に帰しました。
何も持たず、身体一つで、
慣れぬ文化の他国で、
過去を忘れた振りをして、
姿を変え、職を変え、
生きていかねばなりません。
『私』が死んだ事で、
失われた時間は、
戻りは、しません。
ですが。
新しい『私』として、
胸を張って生きていけるのならば。
何時の日にか、きっと、
失われた時間以上に大切なものを、
手に出来るに違いない。
…そう信じています。