NoName

Open App
8/27/2024, 1:30:17 PM

私の日記帳

「日記」と呼べるものを書いたのは大学の四年間だけだ。
 確か無印良品の厚手のノート(焦茶のカバー付き)に、最初は無印の水性ボールペン(ブルーグレー)、その後は死んだ父の机から出てきたモンブランの万年筆で書いている。ぱらぱらめくってみると、こんな特徴があった。

 ・固有名詞がほとんど出てこない(親戚や友人の名前など)。
 ・咲いている花や気温と暑さ寒さの体感は妙に細かく書いてある。長袖と半袖の境界は気温22°、冷房をつけずに耐えられる限界は32°だったらしい。
 ・夏休み(文系・レポート中心のため何と二ヶ月半もあった)のほとんどで、「今日も何もせず過ごしてしまった」と、どれくらい時間を無駄にしたかがかなり具体的に書いてある。◯時にようやく起床、△時までぼんやりテレビを見て云々。
 ・よほどの場合を除き、「自分の気持ち」もほとんど書いていない。例えば時間を無駄にしたことについても、「どう無駄にしたか」ばかりで「それでどう思ったか」「どうしたいか」は一切ない。意識が低い。極めて低い。
 ・「出来事」もかなり省略されている。「父の法事なのに、両親とは結婚式でしか会っていない祖母のきょうだい(苛烈な性格で皆に嫌われていた)の隣に座らされ、その人の信じる新興宗教の話を延々聞かされた。誰一人止めに入らず、そもそも誰もその席に座ってくれなかった。何故、故人の娘である私が『接待』をしなければならないのか」
 客観的にはこう書くところを、ただ
「とても不愉快なことがあった。あの場にいた大切な人たち(※母ときょうだい、父の母のこと)以外の全員を、多分ほんの少し恨んで生きていくと思う」とだけ書いている。こういう時くらいしか自分の感情を書いていない。

 そして最大の発見はこれである。
 ・「毎年、『今年は秋が無かった』と書いている」(※一九九〇年代後半〜二〇〇〇年代前半)。

「私の日記帳」は残念ながらあまり素敵ではなかった。
 しかし自分がかつてものすごくヒマであったこと、それでも大したことをしていないこと、でもそれなりに幸せだったこと、だからまぁ忙しくて持病もあって、それなりに大変な今、無理に復活させなくてもよい習慣であろうということ、そして二十年以上前から秋という季節は吹けば飛ぶような何かになっていたこと。
 そういったことが分かっただけでも、本日のお題は価値あるものであったと考える次第である。

8/26/2024, 7:07:31 PM

向かい合わせ

「そこに君が座って、私は君を見ながらのんびりする。それが一番かなと思って」
 一緒に暮らし始めた時に、彼はそう言った。

 食事の時は向かい合わせに座る。
 彼は朝に弱い。時折食べながら寝そうになるので、なるべく手摑みか匙で食べられるものを出すことにした。最近では専ら目玉焼きをのせたトーストだ。何であれこぼしやすいので、食べた後に着替えさせる。
 彼の世話をしていると、何かふわふわとした気分になる。きっとこれが「楽しい」とか「幸せ」という感情なのだと思っている。

 夕食になると、彼は朝とは別人になる。
 ハムステーキを食べるだけであっても背筋がきっちり伸び、すべての所作が美しい。
 自分はそういう教育を受けていないので、なるべく彼を見て真似するようにした。
 彼はあまり目を合わせてくれないし、時々合ってもすぐにそらしてしまう。そんな時は何か無駄な空気の塊が胸に詰まったような感じがして、これが「淋しい」という感情なのかなと思い始めた。
 人間の感情はまだよく分からないが、一つ明らかにしたいことがある。

「そっちに座ってもいいですか」
 今の自分の定位置は大きな揺り椅子だ。
 正面には何とも立派な安楽椅子が置かれている。深緑の天鵞絨張りで、上部には真っ白なレース編みが掛けてある。
「嫌。このままでいて」
「でも、あまりクッション性が良くないのではないかと」
「君こそ重くない?」
 確かに彼の体重はほんの少し増えた。おそらくウイスキーが主食だった生活をやめて、なるべく食事を摂るようになったからだろう。
「体重は若干増加していますが、重くはないですね」
「増えた? どんな感じに?」
「柔らかくなりました」
「…そこは逞しくなったって言ってほしかった」
「すみません」
「君が言うなら信じるけど」
「筋肉の強張りが少しとれてきました。あと、体温が少し上がってきています」
「君にくっついてるからだね」
 食事の時以外、ほとんど彼が自分の膝の上に座っているのはどうなのだろうか。この揺り椅子は本来、彼が自分で座るために買ったもののはずなのだが。
「できればもっと、あなたの顔が見たいです。そちらに座っても」
「私はこの状態の継続を要求する」
「何故ですか」
 彼は身体をぐっと捻って、こちらをまっすぐ見た。深緑の目に見とれていると、彼は小さな、蚊の鳴くような声で「ずっと目が合うと心臓がもたないことが分かった」と言って、また前を向いてしまった。
「もちませんか」
「もたない。でも幸せ」
「じゃあ、このままでいましょう」
「ありがとう」
 彼は自分よりもだいぶ小柄なので、足の長いぬいぐるみを抱えているような気分になる。これはこれでいい気がしてきた。

 自分たちはまだ、新しい幸せに慣れていない。お互いにもう少し慣れたら、どちらかが安楽椅子に座るかもしれない。あるいはこのままかもしれない。
 彼が幸せならどちらでもいい。

8/18/2024, 2:37:55 PM

いつまでも捨てられないもの

 哀しみ。

 哀しみは
 ドーナツの穴のようなもので
 存在してはいるが
 「捨てる」ことはできない

 この穴が空くと
 元々見えて 聞こえていたはずのものが通り抜けていき
 心のうちに留めておけるはずのものが 溢れてこぼれていく

 無いものを捨てるにはどうしたらいいか
 ずっと考えている
 ずっと ずっと考えている

8/14/2024, 3:01:33 PM

心の健康

「落ち込んでいる」と思える、または今日あった嫌なことが頭の中をぐるぐる回る
 →ごく正常な反応です

とても悲しいことがあり、いつまで経っても思い出すと涙が出てくる
 →それだけ悲しかった、ということです。あなたの苦しみも悲しみも、誰かではないあなたのものなので、「そんなこと」とか「いつまでも」とか言ってくる人とは、心の中で縁を切っても問題ありません

「腐らないゴミ」(ビニール袋やきれいに洗った瓶など)が溜まっている
 →かなり疲れています。まずは何とかして(便利屋さんに頼んででも)、絶対に要らないものを消していきましょう。
 断捨離はまだしなくていいです。ときめきも一旦横に置いておきましょう。まずは「確実にゴミであるもの」をゴミの日に出すことを目指しましょう

 私ですか? 腐らないゴミに埋もれた部屋に住んでいます。
 もしあなたが夜お風呂に浸かって、朝ゴミを捨て、朝食を食べて毎日過ごせているなら、それはとんでもなくすごいことです。
 昔はそれができていましたが、今はやり方がさっぱり思い出せません。

8/13/2024, 11:18:44 PM

君の奏でる音楽

「…献杯をしたいので、白いカクテルを」
 ふらりと入って来たその人に、マスターは「ホワイトリリー」を出した。アブサンの風味がきいた、私の好きなカクテルだ。
「…とても美味しいですね」
 その人の声は低くて柔らかで、弦楽器を思わせた。

 その後も彼は時々現れ、タリスカーのロックを呑み、最後にホワイトリリーを頼んだ。
 今日も彼はタリスカーを呑んでいる。そう言えば彼が初めて来た時に自分も呑んでたな、と思いつつ、同じものを頼んだ。 
 マスターが誰かと喋っている。お酒を呑むための空間は、たとえ呑まなくてもみんなが少しずつ心地よくなれる、そんな場所であってほしいものだが、ここはまさにそういう店だ。
「ええ、よくいらしてますよ。初めてお作りしたカクテルも、あの方が昔僕の先輩に作ってもらったから、とリクエストされて覚えたものでして」
 何だか話のネタにされているらしい。
「え、これを弾いてらっしゃるんですか⁈ いえ僕は単にこの曲が好きで、クラシックに詳しい訳じゃなくて…そうでしたか」
 流れているのはバッハの『無伴奏ソナタ』。ヴァイオリンの音色が何とも美しい。ただ私は、BGMくらいに控えめな彼の声の方により興味を持っている。何と言うか、聞こえるとほっとする声なのだ。
 ほぼ空のグラスをくるりと回すと、覚えずカラン、といい音がした。
「最後に何か飲みます?」
「じゃあラヴィアンローズを」薔薇色の人生。柘榴と桜桃と檸檬、人生はそんな味で満ちている。
「…同じものをお願いできますか」低くて柔らかな声がそう言った。

 彼には若くして亡くなったいとこがいる。ヴァイオリン奏者だった。
 あの日が命日だったんです。店に入った時、彼の演奏が流れていた。そして、カクテルが美味しかった。
 ちょうど曲が終わった時に、貴方のグラスの氷がカラン、って言ったんです。
 綺麗な音だな、と、思いました。それに、あなたはいつも楽しそうに話す。まるで音楽みたいに。
 彼は本当にいい声をしていて、ラヴィアンローズは今日も甘くて酸っぱかった。

 最近私たちは待ち合わせをせずにその店に行く。そしてどちらともなく、隣に座る。
 彼の声は、私の一番好きな音楽だ。
 

Next