子猫
「子猫が来てるよ」
「…きみの仲間?」
「違うよ、本物の猫。…何でほっとしてるの」
「また変身されたらちょっと困るな」
「…僕に困ってる?」
「いや。困ってないよ」
かれと出会った時、初めて生きている猫を見たと思った。
畑に出ようとしたら玄関の前にいて、かわいらしいけれど何とも胸を締め付けられるような鳴き声を出す。
かれは畑仕事の間中ずっとついてまわり、水筒の水には見向きもせず、搾りたてのミルクを自分の掌からせっせと飲み、抱えられてうちへやって来た。
身体を拭いてやり、やっと一段落。再びコップのミルクを匙ですくって出したが、今度は知らん顔。そしてあろうことか、昼餐後の最大の楽しみである赤葡萄酒に興味を示し、酒杯にしがみついて離れない。
猫とはひたすらミルクを飲み、丸くなって眠る赤ん坊のような生き物で、ただ時々とても素早い、と話に聞いていたのだが、こんなに力が強いのだろうか。
諦めて人差し指を酒杯に浸し、そっと差し出すとカプッとやられた。のけぞった瞬間に
「危なかった。」
という声がして、テーブルの上にかれがいた。つまり、幼くはないが大人でもない、自分と似たかたちだがはるかに若い身体をもつ生き物(ただし背中に何かが生えている)である。
かれは堂々と赤葡萄酒を飲み干し、「美味しかった。ありがとう」と言った。見た目より低くて、とても綺麗な声だった。
それきり、この「子猫だったはずのもの」はうちに住み着いている。背中に生えた翼のようなもの(この大きさでは飛べないと思う)に怪我をしていたので、さすがに追い出せなかった。
不思議なことに、かれが来てから雨がふんだんに降り、迷い牛と迷い馬(とても気立てがいい。しかも馬は鞍付き)がやって来て、祖父の遺した「マシーン」(スクラップやそこらの植物を放り込むと、そこから精製した肥料や何かを出してくれる。これがなければ多分、三日以内に死ぬ)の不調が治まり、ミツバチを見つけた直後に偶然、養蜂の知識を持つ頑固な爺さんを助けて道具をもらいやり方を教わり…と、何故か良いことしか起こっていないので、今のところ無理なく養えている。むしろ貴重な赤葡萄酒が二人分買えて、気兼ねなく入浴できるくらい水が潤沢に手に入る状態になった。
夜になると危険なキメラが出ると聞いているが、かれは言葉も通じるし、見世物小屋から逃げてきた訳でもないらしい。ただ背中に触れるとひどく痛がるので、「治るまで此処にいるといいよ」と言ってある。
「子猫はどこ?」
「今、馬小屋に入ろうとしてる」
そろそろ冷えてくる。本物の猫を迎えに行こう。
捕獲して綺麗にし、温めたミルクをたっぷりやると、喉を鳴らして眠ってしまった。かれに言われるまま、寝床とトイレを作る。時々、妙に物知りである。子猫は新しい寝床で丸くなって眠っている。
「僕の時より優しい」
「そりゃ、この子は貴重な酒を強奪したりしてないからね」
ささやかな晩餐をこしらえ、二人で赤葡萄酒を飲んだ。
風呂上がり。
「少しは良くなったかな」
「痛いー。痛い痛い」
仕方ない。
「…まだ此処にいていい?」
「もちろん。どうして訊くの?」
「…本物の猫も来たし」
「あの子はきみじゃないから大丈夫だよ」
寝床に入ると子猫がやって来て、かれにくっついて丸くなった。
「きみが子猫の面倒をみて、ぼくがきみの面倒をみるっていうのはどう?」
「僕の労働だけ増えてる」
でもいい考えだね、とかれは言った。
「あのね、明日窓に小鳥が来るよ」
「それは楽しみだな」
お話の中でしか知らない光景だ。
きみが誰でも、どうでもいい。ひとりの時より幸せだし、子猫にも誰かが必要だろう。
子猫がもぞもぞと動いて小さく鳴いた。
「灯りを消そうか」
「うん」
おやすみなさい、また明日。
意味がないこと
楽しい。
目の前で私の可愛い子がアップルパイを作っている。「アメリカ風」なのだそうで、生の林檎に、シナモンとナツメグをたっぷり。いい香りが漂っている。
私は手を綺麗に洗って、パイシートをつつき、レモンを絞り、また手を洗い、スパイスを振りかけた。今は「パイを完成させる彼を見守る」という任務を与えられている。
何か手伝う、そう口にするたびに彼が私の口元に林檎のかけらを運んでくるので、雛鳥よろしく林檎を食べている。パイの分とは別に取り分けてあるから、つまり最低でもあと七回、手ずから食べさせてもらえる訳である。最高の休日だ。
「無意味って最高だね」
「無意味?」
「私たち、いつもはご大層な仕事をしてることになってるじゃない。日常生活なんて何の意味もない、どうでもいいみたいな感じ。でもやっぱり、こういうことって楽しいんだなって思って」
彼は微笑んで、
「こんな日常を誰もが過ごせるように、仕事も頑張りましょう」
と返してきた。真面目である。殺人課の刑事としては満点の回答だ。
パイをオーブンに入れてしばらく経った。
「あと二十分くらいで完成です」
林檎はとっくになくなり、今はのんびりお茶を飲んでいる。
「大袈裟じゃなく、人間の生きる意味が分かった」
「生きる意味」
「アップルパイとか、何か人の作ったものを美味しいと思えるってことだと思う」
缶詰(缶から直接食べる)とウイスキーが主食だった頃が夢のようである。剥いた林檎がこれだけ美味しいなら、焼きたてのパイを食べたら気を失うかもしれない。
彼がキョトンとしているので、説明しようとした時に電話が鳴った。
「はい…はい、すぐに急行します」
休日はおしまい。二人でせっせと身支度を整える。悲しい。
「…パイはどうなるの」
「ぎりぎりまで焼いて、火を落とします。帰れたら温めて食べましょう」
「人生の意味がなくなった」
「何とか帰れるように頑張りましょう」
優しい。
「何か二人ともいい匂いしますね。もしかしてデート中でしたか?」
そう訊かれた瞬間、彼は私の心拍数と体温の変化を感じ取ったらしい。すっと腰に手を回してくれて、「アップルパイが焼き上がる直前に呼び出しを受けましたので」と言った。
疲れた。
損傷の激しい遺体だったので、嗅覚が完全に麻痺している。それでも、家には帰れた。
二人で服を全部脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。洗濯機が回っている。
「何か飲みますか」
「…パイが食べたい」
「身体にはよくない気もしますが」
「一見有害なことも、時には大事だと思うんだよ」
彼はパイの安全性を確認した上で、しっかりと温めてくれた。スパイスとバターの香りに、シャクシャクした林檎の食感(生から焼くかららしい)。茶葉から淹れた紅茶。美味しい。
「お口に合いますか?」
「すごく美味しい。私幸せ」
「…無意味っていいものですね」
「うん、こういうのが一番」
「また何か一緒に作りましょう」
ゆっくりお茶を飲んで、深夜にベッドに入った。彼の隣は世界一安心できて、安全でもある最高の場所だ。明日の朝は、パイの残りを温めて食べる。
幸せだ。
カーテン
カーテンの奥から、子どもがひょっこり顔を出した。
「…君、時々そこにいない?」
此処は自分が金の力にものを言わせて買った屋敷で、自分しか住んでいない。スタッフも全員通いである。間違っても、夜中の二時に子どもがいる場所ではない。だが時々、カーテンが膨らんでいることがあるのだ。
「…食べる?」
子どもの視線が、卓上のミルクとスコーンに向いているようだったので聞いてしまった。
その子はふるふると首を振り、またカーテンの中に引っ込んだ。駆け寄って布地をめくったが、何もいなかった。その日は、酔っていなかった。
スタッフ諸氏に訊いてみたが、子どものいる者はゼロ。「此処で亡くなった子どもの噂」も訊いてみたが、誰も知らないという。
「出たとしても、それ込みで買い取ります」
オスカー・ワイルドの「カンタヴィルの幽霊」に倣い、そう大見得を切ったのだが、もしかしたら本物かもしれない。希望が出てきた。
検証したところ、時間に関係なく、スコーンを置いているとカーテンが膨らむことが分かった。ちなみに今も膨らんでいる。食べたいならそうさせてやりたいのだが、さてどうするか。申し訳ないが今は午後四時、少し腹が減っている。
「いただきます」
手を合わせると、目の前にミルク、スコーンその他がもう一揃い現れた。
「お供え」とは死者のためのものだ。もしかして、今のはお祈りにカウントされたのだろうか。
「…食べる?」
カーテンの向こうから、五歳くらいの子どもがひょいと顔を出した。髪は真っ黒で、深緑の目をきらきらさせている。
椅子をもう一脚引っ張ってきて座らせ、高さが足りないので冬物のコートとクッションを積み重ねた。
彼はお行儀良く手を合わせると、主の祈りか何かを唱えた(声はまったく聞き取れなかった)。食べ方も、とても綺麗だった。
彼は喋らないが、首を振ったり頷いたりはできる。あれこれと質問をしたところ、以下のようなことが分かった。
気がついたら此処にいた。
昔のことはあまり覚えていない。
此処に見覚えはなく、多分知らないところ。
ほかに「見えないはずのひと」はいない。
スコーンはおいしい。
彼は次第に、スコーンがなくても出てくるようになった。おとなしく、本棚の一角に作った絵本コーナーの本を読んでいる。買ってきたぬいぐるみと遊んでいることもある。お気に入りはシロイルカとあひるだ。
彼を見ていると、弟が小さかったころを思い出す。久しぶりに、仕事をしたいと思い始めた。
「これはね、お話を書こうとしてるんだよ。僕はもともと、お話を書くのが仕事だったんだ」
彼が卓上の、一際古びたノートを指さした。小学生らしい、力の入ったたどたどしい字で書かれたお伽話である。
鬼退治に行ってみたら実は鬼が超いい奴で…というところから始まる、まあ贔屓目に見てもありふれたお話で、途中までしかない。ここからわずかでも良きものを見つけ出し、読むに堪える物語にし、そして何よりも完結させること。それが、今の自分の目標である。
一段落したところで見ると、彼が絵本を抱えてこちらを見ている。手招きして抱き上げると、『ピーターラビットのおはなし』だった。絵を見るのが好きだから、少し時間がかかりそうだ。ゆっくり読み終えると、彼は嬉しそうに笑ってくれた。
そして今度はあひるをご所望らしい。
十年前、家族が事故に遭った。
五年間、裁判で争った。
こういったケースとしては破格の金が支払われたが、自分はどこかが壊れてしまい、何もできなくなった。それから五年、何も書いていない。
気づくと、彼が子どもらしからぬ顔でこちらを見ていた。
「…君みたいな子は、みんなこうしてどこかのお家にいるのかな」
彼は側に置かれた絵本を開くと、書かれた文字のいくつかを指さした。
「ど う し た の」
「…君がいてくれてとても嬉しい。ただ、もし会えるなら会いたい子がひとりいるんだ。会えないならせめて、幸せにしていてほしいと思って」
彼は腕を精一杯伸ばして、頭を撫でてくれた。
「いつか、その子のためにお話を書きたいと思ってたんだ。書き上がったら、一番に読んでくれないかな?」
彼はあひると一緒に抱きついてきた。
弟は十年前、八歳で死んだ。
あのノートのお話は、弟が書いたものである。
奇跡をもう一度
生クリームが足りなくなった。
その日、その時間に、それから買い足すことはできなかった。
もう三十年以上昔の話である。
父の誕生日に一番近い週末だった。
私の家にはプレゼントを贈り合う習慣がなく、「とりあえず最寄りの週末にケーキを焼いて、みんなで食べる」のがならわしだった。
(贈り物をしないのは、家族全員が「本当にほしいもの以外はいらない」という性格だったためである)
小学生二人に手伝い(という名の楽しい遊び)をさせて、母がショートケーキを作ってくれる。「モントン」のスポンジケーキミックスはふんわりしていて、バニラエッセンス(ビーンズは当時、近所では手に入らなかった)がたっぷり入っていた。
私たちきょうだいは、最後の飾りつけにクリームを絞るのが大好きだった。口金のついたビニール袋をそっと絞って、不恰好な渦巻きを作る。何度やっても、いつも作っている訳ではないはずの母よりもはるかにヘタクソで、でも時折りちょっとうまくいくとひどく嬉しかった。
母はハンドミキサーを出して、私たちに幾つかの指示と注意をした。
・スイッチを入れて、そっと、ゆっくり泡立てる。
・ボウルの内側にぶつけないよう注意。
・重いので、交代しながらやること。
この文章を読んでしまった方にはもうお分かりだと思うが、母は一つだけミスをした。
「いつやめるか」を言い忘れたのである。
彼女がてきぱきとスポンジを焼いたり苺を切ったりしている間に、子どもたちはせっせとクリームを泡立てていた。
「何か変じゃない?」「うん、何か変だね」
などと言いながら混ぜ続けた結果、生クリームはボソボソを通り越した「ボロボロ」になっていた。
どうやら、何かやらかしたらしい。
母は、ひどく困った顔をした。
でも大声も出さず、私たちを一言も責めなかった。ただ「あらぁ…」とか何とか言っていたように思う。
・その頃、泡立てた「ホイップクリーム」はそこらへんに売っていなかった
・新たな生クリームのパックは、何らかの理由(買える店が遠い、まもなく閉店等)で買えなかった
という訳で、彼女はそのボロボロになったモノに何かを加えてのばし始めた。
今、インターネットの力を借りてみると、液体の生クリーム、牛乳、粉糖…混ぜるべき様々なものが挙げられている。きっと母も、知識と勘を頼りにいろいろ混ぜてみたのだろう。
私が覚えているのは、何か製菓用のお酒(おそらくホワイトキュラソー)を足していたことだけである。
普段はお店のケーキに倣って、滑らかにクリームを塗っていた。だがこの時だけはナイフの跡も荒々しく(ボソついたクリームを側面に無理矢理くっつけている)、何とかスポンジケーキを覆う! という気概溢れる仕上がりになった。ココアパウダーだか削ったチョコだか、何だかをかけていたように思う。無論、クリームを口金で絞るなど論外である。敢えていつもよりラフに苺が飾りつけられ、とりあえずケーキが完成した。
(ちなみに主役であるはずの父は、子どもたちが手伝ったケーキの出来栄えにケチをつけるような小さい男ではなかった、ということは付言しておきたい)
そのケーキは、何故か本当に美味しかった。私は今に至るまで、あれより美味しいケーキを食べたことがない。何というか、奇跡的な味だった。
だが残念ながら、何とかでっち上げた母ですらレシピがまったく思い出せないので、再現しようがない。
もしもう一度だけ奇跡が起きるなら、どうかあのケーキを食べさせてほしい。
窓から見える景色
「あら」
母がカーテンを開けると、灰色の四角が見えた。
「あ、すみません。そこはいつも閉めてまして…」
「景色を観に来たんじゃないんだから、いいんですよ」
母は何か言いたげだったが、私は話を打ち切った。どのみちそんなことをしている暇はない。それは、母もよく分かっている。
「せっかくだから開けといて」
「圧迫感ない? 向こうの壁に手が届きそう」
「それがいいんだよ。ヤモリとか来たら見えるでしょ」
何とも言えない顔をされた。母はヤモリが苦手だ。生家の雨戸を開けると時々ボタッと落ちて来る、という恐怖が染みついているらしい。だが、実は私は爬虫類が好きである。
「あ、窓は開けられないようになっているので、入ってはこないですよ」
ここで働いている人が言うなら本当だろう。
「向かいに窓があるわけじゃないし、開けといて」あったらお互い丸見えである。
母がてきぱきと荷解きをしてくれると、やることがなくなった。持って来た本をサイドテーブルに積んでもらい、その横にノートとペンを置いてもらう。
「大丈夫? 他にほしいものない?」
「大丈夫。死ぬまでに『百年の孤独』の矛盾を全部洗い出すのが夢だったし、これで当分過ごせる」
母は、何とも言えない顔をした。
それきり、本はまったく読んでいない。
ある晩、窓に目をやった。
外にはマグリットの絵のように真っ青な空が広がり、白い雲が浮かんでいた。
これが「明晰夢」とかいう奴かと思い、そのまま寝た。
またある晩、窓に目をやった。
外は柔らかな青に包まれ、無数のクラゲらしきものが漂っていた。
どうせなら鯉か金魚にしてほしい。そう思って、そのまま寝た。
やはり、本はまったく読んでいない。
というより、ベッドから起き上がることすらできない。
母には「無理に毎日来なくていいから、私が帰った時用に断捨離でもしててよ」と頼んだ。何とも言えない顔をされたが、来るのを一日おきにしてもらった。母の時間は、私と同じく有限なのだ。
そしてその晩、窓の向こうには窓があった。暖かそうな光と、どこかで見たような内装。子供の頃の居間と同じ家具が並んでいる。こちらに背を向けてソファに座っていたのは、父だった。
やるべきことは三つ。
何とかしてこちら側の窓を開ける。
向こうに気づいてもらう。
向こうの窓を開けてもらう。
これが見えているうちに終わらせなければ。
私が窓を気にしているのは看護師さんたちにばれている。私が予想より持ちこたえているので、おそらく飛び降りを心配しているのだ。本来この部屋に入る人は、そこまで体力がない。
なるべく静かに窓を破壊する方法を考えていると、微かに軋むような音がした。
向かいの窓が内側に開かれ、父がこちらを見ている。真似をして引っ張ると何とも簡単に開き、危うく尻もちをつくところだった。
「そっちに行ってもいい?」
父はもうずっと前、生きていた頃と同じようにうなずいてくれた。