question
土曜の午後に家を出たら、すべてが
?
に変わっていた。
人の顔、看板の文字、コーヒーショップのメニューの写真に至るまで、何の情報も読み取れない。
カフェに入ってみると、人の発する言葉も理解できなくなっていた。
店員の声の高低と仕草を頼りに「一人」と示し、メニューの記憶を頼りにドリアとコーヒーを頼んだ(なぜか、自分の声は聞き取れた)。
ドリアは何やらどぎつい色の「?」が盛られていて、何の味もしなかった。コーヒーは芥子粒のように小さな「?」で満たされていて、飲んでみると液体だったがやはり味はしなかった。
失礼ながら以前も「美味しい」とまでは思っていなかったのだが、何だろう、本当に何の味もしない。
観たかったリバイバル上映の映画は今まで通りにちゃんと見えたし字幕も読めたが、いつもほど楽しめなかった。
週末ごとに行っているバーには、怖くて行けなかった。
週が明けて、恐る恐る会社に行った。同僚も上司も全く見分けがつかない。ただ、幸運なことに「仕事上必要な指示」だけは聞き取れた。声は別人、というより人とは思えなかったが。
人の顔も分からず、本も読めず、音楽も聴こえない。味も香りも分からない。ただ、元々親しんでいたものや、本当に必要なものは分かるらしい。
週末、バーに行ってみた。
「ラヴィアンローズを」
ショートグラスに並々と注がれた、きめ細やかな「?」を見て、一気に呑み干して帰った。
三週間後、思い立ってまたバーに行った。「?」はともかく、店長とは会話できていたらしいことを思い出したのだ。
「お久しぶりです」
いつもの、店長の声だった。
「ラヴィアンローズをお願いします」
「かしこまりました」
準備しながら、しばらく来ないので心配していた、少し元気がないようだが云々と店長(見た目は「?」の塊)が言い出したところでドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
「一人です」
久しぶりに聞く、知らない人の声だった。
「では、こちらのお席へどうぞ」
彼は僕の横に座った。今日は割と混んでいる。
シェーカーを振る軽快な音がして、目の前にグラスが置かれた。久しぶりに見る、綺麗な赤だった。
「綺麗ですね。…ぼくも何か、赤い色のショートをお願いします」
店長は「コープス・リバイバー」を勧め、作って出した。
僕は時計を見るふりをして、彼を盗み見た。
彼は人間の姿をしていた。
その後のことはよく覚えていない。泣いたか、すごく呑んだか、その両方かだ。
最近、僕たちはよくあのバーで偶然一緒になる。そしてたまたま隣に座る。最後には赤いカクテルを呑み、「また」と言ってそれぞれの家に帰る。
「?」はまだ消えてはいないが、少しずつ減ってきている。
ところで最近、彼の頭の上に「answer」と見える気がするのだが、これは僕が都合よく期待していることと関係しているのだろうか。
その質問は、まだ怖くてできない。
やさしくしないで
「折り入ってご相談が」
「何? 結婚生活? それとも人間の感情とやらについて?」
「その両方です」
「死ぬほど聞きたくないけど一応聞くから、見張りだけ気合い入れて頼む」
コイツは俺たち二人の上司と結婚している。内容によっては上司に撃たれそうだし、そもそも何かものすごくしょうもないことだという予感がする。
「今朝出がけに、あまり優しくしないでほしいと言われたのですが、どう振る舞えば良いのでしょうか。そもそも優しさとは何かを全く理解できていないことに気付きました」
「理解しなくていいから、お前なりに大事にしてやんな」
相手の嫌がることはせず、足りてないっぽいものを用意し、心の中の密かな望みを頑張って推測し、それを何とか叶える。それくらいの適当な感じでOK。うん、俺もこの当直があけたら甘いもん買って帰るわ。ウチの妻も今日は夜勤でな。お互い頑張ろう。
「適当な感じで」
「多分だけど、そうしてくれるからお前と一緒になったんだろ」
「ですが、それを嫌がっているという事実が」
「あの人の私生活は全く知らんけど、色々辛かった人が急に幸せになると不安になるってことはあるらしい。失くすのが怖いんだろうな。おおかた、前にロクでもない男に引っかかった記憶が…とかじゃねえの」
「…悪い男ならいました。いえ、います」
聞いてはいけない感じの話が来た。頼むから真顔になるな。
「お前は知らんだろうけど、お前と結婚してホントにあの人落ち着いたのよ。だから『人間とは〜』とか考えずに、お前んちの普通にするのが一番だと思う」
「分かりました、ひとまずいつも通りにします」
狙っていた容疑者は現れなかったが、帰りがけに常連らしきゴロツキが若い店員に絡み出した。色々と法律的に真っ黒なセリフが聞こえてくる。
我が同僚はそのテーブルにスッと近づき、注意をひこうとして拳でテーブルを(コイツ基準で)軽く叩いた。ちなみにコイツは法律上は人間なのだが、「人間が造った存在」である。その気になれば素手で石壁をぶち抜ける。
テーブルはブチ壊れ、震えるゴロツキは俺が引き取った。ヤツは必ず弁償しますと店主に必死に頭を下げている。
「責任を持って弁償させますので、どうかこちらへご連絡をお願いします。ついでになんですが、最近こんな男が来店したことは…」
ゴロツキはその若くて細っこい男の店員にしつこく言い寄っていたらしい。上司だったら撃っていたかもしれない。店主にはむしろ感謝され、弁償の約束をきっちりして店を後にした。
「この馬鹿片付けたら終わりそうだな」
「今日はありがとうございました」
「ああ、とりあえずウチ帰ったらいつも通りにしとけや」
再び出勤。上司(見た目は若くて細っこい)がやる気のない顔で始末書を書いている。書き慣れているからか、速い。訊くなら今である。
「プライバシーの侵害してもいいすか」
「質問によるね」
「旦那は優しいですか」
「…普通」
「どんな感じに」
「いつもの当直明けと同じ。ジャスミンの花束を買ってきてくれて、一緒にごはん食べて、一緒にお風呂に入った。あ、あとクッキーも作ってくれた。大きめのチョコチップクッキーで、三枚食べようとしたら叱られた。ちなみにこの質問の意図は?」
「突然正気に戻らないでください。円満な結婚生活の参考にと思って」
「君のところは順調?」
「まあ普通っす」少なくとも俺は幸せだ。
「私は何でこんなに優しくしてくれるのかなっていつも思いながら生きてるんだけど、もうこの子(※身長六フィート六インチ)は優しさだけでできてるから、それをとったら彼じゃなくなるなと思って、積極的に享受していくことにした」
「いっすね」
「ところで、折り入って相談があるんだけど」
「何すか」
「最高の配偶者を得たけど自分がクズで何も返せそうにない場合、君ならどうする? どうすればいいの?」
「クッキーを二枚までにすれば全部解決っすね。無理そうなら、向こうの要望をなるべく受け入れてください」
「いつも『そのままでいてください』って言うんだよ」
「じゃあもうそのままでいいんで、三枚食おうとして叱られててください」
「そうする。ありがとう」
幸せそうだ。俺ももっと幸せになろうっと。
わぁ!
間の抜けた大声を上げながら、八歳になる甥っ子が廊下を走っていく。その後ろで、二回りほど小さなうちの子がシーツを頭からすっぽり被り、両手に赤いミトンをはめて、《わぁ》と書かれたスケッチブックを掲げて伴走している。
「おうちの中で走らないの」
姉の急な入院で預かって一週間。二人とも、少しは元気になったようで良かった。
数日前のこと。聞いたこともないような叫び声が響き渡った。
男の子というのは、変声期前であっても意外とダミ声というのか、とにかく辺りに響く声を出せるらしい。
自分はこんな声を出したことがあったか…いや、それよりも我が家で今叫び声を上げられるのは、一昨日来た甥だけだ。何があった、と腰を上げたところへ、うちの子が現れた。
《とったの》スケッチブックにそれだけ書いてある。
「何かあった? ゆっくり書いて教えてほしいな」
この子は声を出さない。おそらく出せない。
「叔父さん、この家なんか変なのがいる‼︎」
甥っ子が飛び込んできた。途端にうちの子は僕の後ろに隠れてしまった。
「変なのはいないよ。ただ最初に話した通り、君より小さい子がいる」
「うん、なんか手袋が飛んでた!」
彼が差し出した手の上には、赤いミトンが片方のっていた。うちの子が最近気に入ってずっと着けているものだ。そっと振り返ると、《とったの》のメッセージが激しく揺れている。右手の手袋がなくなっている。
「…話を聞くから、とりあえずそれを僕にくれると嬉しいな」
うちの子は所謂、幽霊である。
ずっと昔に近所で殺された、身元不明の男の子だ。
何か未練があるのだろうか、ずっとひとりでこの辺りにいた。僕はそうと知らずに引っ越してきて仲良くなった。
とは言ってもこちらはそろそろ中年の独身男だから、
《おともだちに なってください》
と頼まれて頷く訳にはいかない。
ただ、家の裏の丘に行くたびに会うので、家庭環境が心配ではあった(僕は研究者をしており、晴れた日には屋外で寝転んで数式と向き合っている。つまり普通の大人よりもそこに行く回数が多い)。
そろそろ警察かどこかに相談を、と思った時に、思わぬ掘り出し物に出くわしてしまった。
此処は僕が子どもの頃、ひと夏だけ過ごした土地である。その時にこの丘に埋めた宝物の缶を探していたら、出てきたのはこの子の頭蓋骨だった。
その年のハロウィンの日、かれは僕のうちに引っ越してきた。それ以来ずっと此処にいる。ぬいぐるみと本が大好きで、身体は小さいがとても賢い。
子育ての穏やかで楽しい部分だけを受け取っているような生活は、なかなか幸せだ。反面、かれが「とても苦しんで」亡くなったこと、いつ何処へ行ってしまうか分からないことを考えると、何とも言えない気分になる。
そんなところへ、甥っ子がやって来た。
母親が急に入院することになり、あまり会っていない叔父に預けられる(姉とは決して不仲ではないと思っているのだが、家が少々離れている)。叔父の家には間違いなく何かがいて、叔父はそいつの味方らしい…。
今から考えるととても不安だったろうと思うのだが、とりあえずは「いつもの生活」を優先してしまった。何とか一週間くらい、今までの我が家のルールでやっていけるだろう。
甘かった。僕は子どもの頃の自分を美化し過ぎていたらしい。
甥っ子は我が家の居間でずっと回り続けているコマ(うちの子が拾ってきた団栗で作ったもの)に驚き、見つめているうちに怪しげなものに気がついた。
赤いミトンが、コマが止まりそうになるたびにすっと現れて回していく。
興味本位でわざと止めてみると、赤いミトンは必死にポカポカと彼を叩いてきた。引っ張っているうちに、片方が脱げたので取り上げた。その結果が《とったの》という訳である。
ともかくミトンを返すこと。
コマが回るのは物理学の法則によるものであって、それについて知りたければ自分の授業を受けること。
誰であれ、自分より小さな子を悲しませないようにしてほしいこと。
我が甥はちゃんとそれを守ってくれた(物理の授業を除く)。その代わりに、「ふよふよ漂う手袋」と全力で遊ぶことに決めたらしく、うちの子もそれに応えることにしたらしい。
「叔父さん、この子今何してる?」
大体はすぐ横で甥っ子の真似をしている。
馬鹿正直に教えていたら、いつの間にかうちの中が混沌と化していることに気づいた。
おうちの中で走ってはいけません。
ベッドの上で飛び跳ねてはいけません。
クッキーを食べたのは誰ですか。
二人はそのたびに頷いたり首を振ったりする。甥にうちの子は見えていないのだが、動きがぴったり揃っている。
そして今日。
「ママから電話だよ」
連絡が来たら出ることになっている。荷物はもうまとめてある。
甥っ子の声がこれまでと全然違う。色々我慢していたのだろう。
子どもたちは握手をし、うちの子は《またね》と書いたので読んでやった。
バスの中にて。
甥っ子はお菓子を取り出そうとリュックを開け、小さく「わぁ!」と声を上げた。
チョコレートと一緒に、あの団栗のコマが入っていた。
「君にもらって欲しかったんだね」
「叔父さん、また来ていい?」
「もちろんだよ。ただしベッドで飛び跳ねないこと」
あの楽しさを思い出したらもう無理か。我が家でも靴を脱いでいればOKにしようかと思う。
どんな子であれ、子どもはできるだけ楽しく過ごしてほしい。特にその子が、何かを必死に我慢している場合には。
プレゼント
《プレゼント》
うちの子がそう書いて寄越した。かれは声が出せない。
「そうだね、何かほしいものはあるかな?」
《よいこです》
「うん、きみはとってもいい子だよ」
《サンタさんがきます》そう書いてこちらを指差す。
「えーと、まずはありがとう。でもサンタさんは子どもの為にいるから、僕は何も要らないかなぁ」
しゅん、とかれは下を向いてしまった。頭からすっぽりとシーツを被っているので、顔の角度で気持ちを推測するしかない。何かくれるつもりだったのだろうか。これはまずい。
「サンタさんじゃなくても、誰でもいつでもプレゼントはしていいんだよ」
かれは笑顔のマークを書いて寄越した。楽しみにしていよう。
エッグノッグを作ろう、そのためにはミルクと卵を買わないと。そういう名目で街まで連れ出した。
村外れの家を出て、目指すは食料品店の手前にある玩具屋である。
さりげなく立ち止まると、かれは巨大なクマのぬいぐるみが鎮座するショーウィンドウに張り付いてしまった。多分、こんなにたくさんのおもちゃを見たのは初めてだろう。横にしゃがんで、目線の高さを共有する。かれがこちらを向いた。
「仲良くなりたいおもちゃはいるかな」
かれはおずおずと、目線の先にある、自分の胴体くらいのクマを指差した。
店主は見事な髭をたくわえた白髪の老人である。
「包みましょうか、それとも抱っこして帰るかい?」
話しかけられたかれは小さく飛び上がって、自分の後ろに隠れてしまった。
「…見えるんですか」
「人生で二度目ですが、はっきり見えますよ。お差し支えなければ…お子さんですか?」
「いいえ。でも、うちの子です」
ちょっとだけ、お店のおじさんとお話ししてもいいかな。うん、お店の中、見えるところにいてね。
店主が初めて見た幽霊は、姪の子どもだったという。贈るはずだったプレゼントを棺に入れてやりたい、と目を泣き腫らして来た彼女の後ろで、その子は目を輝かせてお人形を見つめていた。
「まだ遠くには行っていないらしい」ということが、いいことなのかどうか今でもわからない。自分の頭がおかしくなったのかとも思い、見たことを伝えられずにいるという。
「お辛かったでしょう。…僕のほうは実際、あの子の縁者ではないんです。丘の向こうの…あのスレート葺きの家をご存じでしょう? 今でも身元が分からないのがあの子です。あの丘で寝転んでたら出会いました」
「あの子が…こう言ってはなんですが、今はとても幸せそうだ」
「そうあってほしいです。あ、やっぱり包んでいただけますか? 包みを破くのは楽しいですからね」
深緑の包み紙に赤いリボン。季節にふさわしいものが出来上がった。
帰ろうと振り返ると、かれはこう書いて寄越した。
《おじさんは サンタさんですか》
確かに、そう見える。
「ああ、よい子はいつでも大歓迎だよ」
店主は微笑んでこう付け加えた。
「あの子もこんな風に過ごしているかもしれない。そう思うようにしてみますよ」
僕たちの家の先、丘の向こうのスレート葺きの一軒家は、子どもばかりを狙った連続殺人の現場である。被害者の一人は頭部がない状態で発見され、その頭部は何年も経って、丘の上から見つかった。丘の反対側に引っ越してきた男性が、子どもの頃、一夏だけ過ごした時に埋めた宝物の缶を掘り出そうとして見つけた、と報道されている。この「男性」が僕で、かれと知り合ったのはその丘の上である。
かれは頭に紙袋を被って、カボチャのランタンを抱えていた。僕がいると現れるが、必ず丘の向こうに帰って行く。送って行っても家族らしき人はいない。
出会って数回目、警察に相談しようと思ったころに、「それ」を見つけた。
紙袋以外の服装は、記録に残っていたものと同じだった。子どもたちを閉じ込めていた家の出窓には、カボチャのランタンがあったという。
ハロウィンの夕暮れに、かれはシーツを被ってやって来た。
《おかし か いたずら》
「今クッキーを焼いてるから、少し待ってくれたらあげられるよ」
この子は本当に此処にいるんだろうか。何か幻覚でも見てるんだろうか。
《おかし いらないから このおうちがいい》
どうでもよくなった。あの寂しい場所に居させたくない。
「分かった。じゃあ、きみはこのうちの子だよ」
それで、かれはうちの子になった。ちなみに、素顔は《まだ ひみつ》とのことである。
新しいむくむくした友達が来た翌朝。枕元にプレゼントが置いてあった。
大きな松ぼっくりが一つと、つやつやの団栗が三つ。お礼を言って、虫が出ないよう塩水できっちり下処理をした。
今、松ぼっくりと団栗二つは書物机に飾ってあり、残り一つはコマになってテーブルの上で回っている。
《サンタさんには またあえますか》
「うん、今度会いに行こう」
きみが此処に居られるあいだ、せめて素敵なプレゼントに囲まれていられるように。
冬のはじまり
此処に春が来る時が、地上では冬のはじまりである。
かれが再び、主人と我々の元へやって来た。相変わらず春の花のようである。実際に野の花を見たことはないのだが、地上を知る者は皆、そう譬える。
「こんにちは」
「ようこそ」
我々はうれしい。
主人もとても喜んでいるが、あまり態度には出さない。二人の間には今でも遠慮がある。
「毎年、君にも母君にも申し訳ないが」
「いいんです」
我々はかれの側に行儀よく座る。かなり威嚇的な外見をしているので初対面の際は怯えられたが、最近ではすっかり慣れたようだ。念のため、かれの前では「ワフワフ」という腑抜けた音声しか出さないようにしている。
二人は黙って赤葡萄酒を飲む。しばらくすると、かれは小さな声で「果物が食べたいです」と言った。
かれは運ばれてきた果物をじっくりと眺め、葡萄を選んだ。我々もお相伴にあずかる。主人はかれの前ではものを食べない。居心地が悪いのか、会えて良かった、と言って仕事に戻ってしまった。
「…やっぱり、柘榴はないんだね」
かれは帯の間から守り袋を出し、我々に見せてきた。
「あの時の種、ずっと持ってるんだよ」
「ワフ」ほう。
人間どもの時間では、はるか昔のことである。
一人の少年が野山を歩いていてどこかから転落し、大きな怪我を負った。珍しく地上にのぼってきた主人がかれを見つけ、ひとまず館へ連れ帰った。生前医師だった老爺が来ていたため、治療を頼んだのである。
客人が来たためしのない館なので、主人は一つしかなかった寝室を明け渡した。やがて時が経って、かれは回復した。そして喉が渇いていたので、手を伸ばして取れたもの-柘榴を四粒食べた。
此処には厳格な掟がある。生きた者が此処の食べ物を食べた場合、地上に戻ることはできない。
かれは毎年、一定の期間を此処で過ごす。その間、かれを愛してやまない母君(作物の実りを司る者)が悲しみのあまり姿を隠してしまうので、地上は冬になる。
我々が最近知ったところでは、主人がかれを一方的に見初めていきなり誘拐し、さらに(本人には好意を伝えてすらいないのに)かれの父親からだけこっそりと結婚の許可を得て犯罪を正当化し、あまつさえ奸計をもって柘榴を食べさせて自分から逃れられないようにした、という物語が巷間に流布しているらしい。
主人の勤勉さと職務への責任感を知る我々としては、誠に許しがたい。この物語を書いた者がまだ存命ならば、我々の牙が待っていることを伝えねばならない。
確かに、柘榴が原因だったのは間違いない。あれ以来、主人はかれに食べ物をすすめることはないし、果物の皿に柘榴はない。
だがまあ、果物を置きっぱなしにしていたことについては、主人に非があるのも確かである。もし食べてしまったらその時は云々、くらいの下心はあったのではないかと疑われても仕方がなかろう。遺憾ながらこの点においては、先程の恐るべき犯罪物語を否定しきれない。
別の日。
「おいしいです」
「良かった」
「…柘榴は置かないんですか」
「…貴方は見たくないかと思って」
かれは俯いてしまった。
「ワフ、ワフワフ」ほら、袋。あの種の。
「ん、桃食べたいの? はい」
「ワフ」違う。だが美味い。
林檎を食べるのが初めてだとかれが言った時、さすがの主人も少し表情が動いた。あらゆる自然の恵みを享受できる立場だろうに。
「喉に詰まらせたら危ないからって」
なんでも遥か外つ国に、美しい姫君が林檎を喉に詰まらせて仮死状態になるが、通りすがりの男に口づけされると治り、その男と結婚する、という話があるのだという。母君は誰ぞに連れ去られてはならじ、と林檎を食べさせなかった。
その物語はもしや、主人を悪し様に言っている例のあれと同じ作者が書いたのではなかろうか。
「柘榴も、詰まらせたら危ないって」
すると主人は「そうならなくて良かった」と言って引っ込んでしまった。
かれは守り袋を玩んでいる。
「でもおいしかった、って言いたかったな」
端的に直接的に、可及的速やかに伝えてほしい。無理ならば我々にも考えがある。
今日、かれは珍しく一人で出かけている。地底の空(鉱物がきらめく美しい場所。主人のお気に入り)を見に行ったのだ。好機である。
「何をしている」
主人はかれの部屋に決して入らない。だが目的のものはかれの衣装箪笥にある。我々が何か重要なものを見つけた時に出す唸り声を上げると、主人もやっと動いた。着替えの上に置かれた守り袋を開けるまで唸り続ける。
主人はしばらく柘榴の種を見つめ、元通りにきちんと包んだ。
「仕事に戻ろうか」
その日は、大量の新鮮な鹿肉を堪能した。
かれはうたた寝をしている。ついさっきまで、主人と二人で柘榴を食べていた。もちろん我々もお相伴にあずかった。
数日前、かれは此処に来るのは実のところ楽しみでもあること、一番好きな果物は柘榴であること、できれば一緒に食べたいと思っていることをつっかえながら話し、主人はこれまたつっかえながら、自分も同じ気持ちであると答えた。
今かれはすっかり寛いで、主人に凭れて眠っている。主人はこの上なく幸せそうである。
官吏が恐る恐る呼びに来た。ここ数日仕事が滞っているので、審判を待つ人間どもが溢れそうだと言う。
主人は小さく溜息をついてかれを抱え上げた。「…お仕事?」「残念ながら」かれが我々に手を振ってくれる。
「ワフワフ」我々は尻尾を振り返す。
主人がかれの部屋から戻ってきた。我々は恭しく付き従う。今からしばらくは我々のこの三つの首を駆使し、冥府の門番らしく振る舞わねばならない。
「頼んだぞ」
「ワフ」間違えた。「ガルルルル」
「良い子だ」
地上の冬のはじまりは、此処の春である。主人も我々もうれしいし楽しい。
春が去ってしまうと長く寂しい冬がくる。だが今年からは、次に会える楽しみを口に出せる。主人も我々も、今までより幸せである。