プレゼント
《プレゼント》
うちの子がそう書いて寄越した。かれは声が出せない。
「そうだね、何かほしいものはあるかな?」
《よいこです》
「うん、きみはとってもいい子だよ」
《サンタさんがきます》そう書いてこちらを指差す。
「えーと、まずはありがとう。でもサンタさんは子どもの為にいるから、僕は何も要らないかなぁ」
しゅん、とかれは下を向いてしまった。頭からすっぽりとシーツを被っているので、顔の角度で気持ちを推測するしかない。何かくれるつもりだったのだろうか。これはまずい。
「サンタさんじゃなくても、誰でもいつでもプレゼントはしていいんだよ」
かれは笑顔のマークを書いて寄越した。楽しみにしていよう。
エッグノッグを作ろう、そのためにはミルクと卵を買わないと。そういう名目で街まで連れ出した。
村外れの家を出て、目指すは食料品店の手前にある玩具屋である。
さりげなく立ち止まると、かれは巨大なクマのぬいぐるみが鎮座するショーウィンドウに張り付いてしまった。多分、こんなにたくさんのおもちゃを見たのは初めてだろう。横にしゃがんで、目線の高さを共有する。かれがこちらを向いた。
「仲良くなりたいおもちゃはいるかな」
かれはおずおずと、目線の先にある、自分の胴体くらいのクマを指差した。
店主は見事な髭をたくわえた白髪の老人である。
「包みましょうか、それとも抱っこして帰るかい?」
話しかけられたかれは小さく飛び上がって、自分の後ろに隠れてしまった。
「…見えるんですか」
「人生で二度目ですが、はっきり見えますよ。お差し支えなければ…お子さんですか?」
「いいえ。でも、うちの子です」
ちょっとだけ、お店のおじさんとお話ししてもいいかな。うん、お店の中、見えるところにいてね。
店主が初めて見た幽霊は、姪の子どもだったという。贈るはずだったプレゼントを棺に入れてやりたい、と目を泣き腫らして来た彼女の後ろで、その子は目を輝かせてお人形を見つめていた。
「まだ遠くには行っていないらしい」ということが、いいことなのかどうか今でもわからない。自分の頭がおかしくなったのかとも思い、見たことを伝えられずにいるという。
「お辛かったでしょう。…僕のほうは実際、あの子の縁者ではないんです。丘の向こうの…あのスレート葺きの家をご存じでしょう? 今でも身元が分からないのがあの子です。あの丘で寝転んでたら出会いました」
「あの子が…こう言ってはなんですが、今はとても幸せそうだ」
「そうあってほしいです。あ、やっぱり包んでいただけますか? 包みを破くのは楽しいですからね」
深緑の包み紙に赤いリボン。季節にふさわしいものが出来上がった。
帰ろうと振り返ると、かれはこう書いて寄越した。
《おじさんは サンタさんですか》
確かに、そう見える。
「ああ、よい子はいつでも大歓迎だよ」
店主は微笑んでこう付け加えた。
「あの子もこんな風に過ごしているかもしれない。そう思うようにしてみますよ」
僕たちの家の先、丘の向こうのスレート葺きの一軒家は、子どもばかりを狙った連続殺人の現場である。被害者の一人は頭部がない状態で発見され、その頭部は何年も経って、丘の上から見つかった。丘の反対側に引っ越してきた男性が、子どもの頃、一夏だけ過ごした時に埋めた宝物の缶を掘り出そうとして見つけた、と報道されている。この「男性」が僕で、かれと知り合ったのはその丘の上である。
かれは頭に紙袋を被って、カボチャのランタンを抱えていた。僕がいると現れるが、必ず丘の向こうに帰って行く。送って行っても家族らしき人はいない。
出会って数回目、警察に相談しようと思ったころに、「それ」を見つけた。
紙袋以外の服装は、記録に残っていたものと同じだった。子どもたちを閉じ込めていた家の出窓には、カボチャのランタンがあったという。
ハロウィンの夕暮れに、かれはシーツを被ってやって来た。
《おかし か いたずら》
「今クッキーを焼いてるから、少し待ってくれたらあげられるよ」
この子は本当に此処にいるんだろうか。何か幻覚でも見てるんだろうか。
《おかし いらないから このおうちがいい》
どうでもよくなった。あの寂しい場所に居させたくない。
「分かった。じゃあ、きみはこのうちの子だよ」
それで、かれはうちの子になった。ちなみに、素顔は《まだ ひみつ》とのことである。
新しいむくむくした友達が来た翌朝。枕元にプレゼントが置いてあった。
大きな松ぼっくりが一つと、つやつやの団栗が三つ。お礼を言って、虫が出ないよう塩水できっちり下処理をした。
今、松ぼっくりと団栗二つは書物机に飾ってあり、残り一つはコマになってテーブルの上で回っている。
《サンタさんには またあえますか》
「うん、今度会いに行こう」
きみが此処に居られるあいだ、せめて素敵なプレゼントに囲まれていられるように。
冬のはじまり
此処に春が来る時が、地上では冬のはじまりである。
かれが再び、主人と我々の元へやって来た。相変わらず春の花のようである。実際に野の花を見たことはないのだが、地上を知る者は皆、そう譬える。
「こんにちは」
「ようこそ」
我々はうれしい。
主人もとても喜んでいるが、あまり態度には出さない。二人の間には今でも遠慮がある。
「毎年、君にも母君にも申し訳ないが」
「いいんです」
我々はかれの側に行儀よく座る。かなり威嚇的な外見をしているので初対面の際は怯えられたが、最近ではすっかり慣れたようだ。念のため、かれの前では「ワフワフ」という腑抜けた音声しか出さないようにしている。
二人は黙って赤葡萄酒を飲む。しばらくすると、かれは小さな声で「果物が食べたいです」と言った。
かれは運ばれてきた果物をじっくりと眺め、葡萄を選んだ。我々もお相伴にあずかる。主人はかれの前ではものを食べない。居心地が悪いのか、会えて良かった、と言って仕事に戻ってしまった。
「…やっぱり、柘榴はないんだね」
かれは帯の間から守り袋を出し、我々に見せてきた。
「あの時の種、ずっと持ってるんだよ」
「ワフ」ほう。
人間どもの時間では、はるか昔のことである。
一人の少年が野山を歩いていてどこかから転落し、大きな怪我を負った。珍しく地上にのぼってきた主人がかれを見つけ、ひとまず館へ連れ帰った。生前医師だった老爺が来ていたため、治療を頼んだのである。
客人が来たためしのない館なので、主人は一つしかなかった寝室を明け渡した。やがて時が経って、かれは回復した。そして喉が渇いていたので、手を伸ばして取れたもの-柘榴を四粒食べた。
此処には厳格な掟がある。生きた者が此処の食べ物を食べた場合、地上に戻ることはできない。
かれは毎年、一定の期間を此処で過ごす。その間、かれを愛してやまない母君(作物の実りを司る者)が悲しみのあまり姿を隠してしまうので、地上は冬になる。
我々が最近知ったところでは、主人がかれを一方的に見初めていきなり誘拐し、さらに(本人には好意を伝えてすらいないのに)かれの父親からだけこっそりと結婚の許可を得て犯罪を正当化し、あまつさえ奸計をもって柘榴を食べさせて自分から逃れられないようにした、という物語が巷間に流布しているらしい。
主人の勤勉さと職務への責任感を知る我々としては、誠に許しがたい。この物語を書いた者がまだ存命ならば、我々の牙が待っていることを伝えねばならない。
確かに、柘榴が原因だったのは間違いない。あれ以来、主人はかれに食べ物をすすめることはないし、果物の皿に柘榴はない。
だがまあ、果物を置きっぱなしにしていたことについては、主人に非があるのも確かである。もし食べてしまったらその時は云々、くらいの下心はあったのではないかと疑われても仕方がなかろう。遺憾ながらこの点においては、先程の恐るべき犯罪物語を否定しきれない。
別の日。
「おいしいです」
「良かった」
「…柘榴は置かないんですか」
「…貴方は見たくないかと思って」
かれは俯いてしまった。
「ワフ、ワフワフ」ほら、袋。あの種の。
「ん、桃食べたいの? はい」
「ワフ」違う。だが美味い。
林檎を食べるのが初めてだとかれが言った時、さすがの主人も少し表情が動いた。あらゆる自然の恵みを享受できる立場だろうに。
「喉に詰まらせたら危ないからって」
なんでも遥か外つ国に、美しい姫君が林檎を喉に詰まらせて仮死状態になるが、通りすがりの男に口づけされると治り、その男と結婚する、という話があるのだという。母君は誰ぞに連れ去られてはならじ、と林檎を食べさせなかった。
その物語はもしや、主人を悪し様に言っている例のあれと同じ作者が書いたのではなかろうか。
「柘榴も、詰まらせたら危ないって」
すると主人は「そうならなくて良かった」と言って引っ込んでしまった。
かれは守り袋を玩んでいる。
「でもおいしかった、って言いたかったな」
端的に直接的に、可及的速やかに伝えてほしい。無理ならば我々にも考えがある。
今日、かれは珍しく一人で出かけている。地底の空(鉱物がきらめく美しい場所。主人のお気に入り)を見に行ったのだ。好機である。
「何をしている」
主人はかれの部屋に決して入らない。だが目的のものはかれの衣装箪笥にある。我々が何か重要なものを見つけた時に出す唸り声を上げると、主人もやっと動いた。着替えの上に置かれた守り袋を開けるまで唸り続ける。
主人はしばらく柘榴の種を見つめ、元通りにきちんと包んだ。
「仕事に戻ろうか」
その日は、大量の新鮮な鹿肉を堪能した。
かれはうたた寝をしている。ついさっきまで、主人と二人で柘榴を食べていた。もちろん我々もお相伴にあずかった。
数日前、かれは此処に来るのは実のところ楽しみでもあること、一番好きな果物は柘榴であること、できれば一緒に食べたいと思っていることをつっかえながら話し、主人はこれまたつっかえながら、自分も同じ気持ちであると答えた。
今かれはすっかり寛いで、主人に凭れて眠っている。主人はこの上なく幸せそうである。
官吏が恐る恐る呼びに来た。ここ数日仕事が滞っているので、審判を待つ人間どもが溢れそうだと言う。
主人は小さく溜息をついてかれを抱え上げた。「…お仕事?」「残念ながら」かれが我々に手を振ってくれる。
「ワフワフ」我々は尻尾を振り返す。
主人がかれの部屋から戻ってきた。我々は恭しく付き従う。今からしばらくは我々のこの三つの首を駆使し、冥府の門番らしく振る舞わねばならない。
「頼んだぞ」
「ワフ」間違えた。「ガルルルル」
「良い子だ」
地上の冬のはじまりは、此処の春である。主人も我々もうれしいし楽しい。
春が去ってしまうと長く寂しい冬がくる。だが今年からは、次に会える楽しみを口に出せる。主人も我々も、今までより幸せである。
愛情
「あったかい。やっぱり愛情だね」
「…料理を温めるのは熱だと思います」
「何でそんな、大昔のSFのロボットみたいなこと言うの⁈」
「大昔のSFのロボットみたいなものですので」
「君は法律上完全に人間だし、それ以前に私にとっては代わりがいないひとなんだよ」
「嬉しい気がしますが、加熱は重要です。それについて大事なお話が」
「何? 別れ話?」
「違います。この間、俺が当直でいなかった時、ベイクドビーンズの缶をそのまま食べていましたよね? 温めずに缶からそのまま。あらゆる状況証拠からそのように判断しました」
「…だって、自分のために何かするって面倒なんだもの」
「面倒ですか」
「うん、面倒くさい。一人でいた頃も缶詰ばっかり食べてた。ハウスキーパーさんが強引に作り置きしてくれなかったら死んでたかも」
「…これは缶詰と比べてどうですか」
「比較にならない美味しさだね」
「ただの温かいオートミールです」
「何かちゃんと麦の味がする。あのね、壊れてる人間って味が分からないんだよ。身体にいいか悪いか、美味しいかまずいか、そもそもそれを食べたいのかどうか。素材の味も分からなくなって、塩分と糖分しか感じ取れなくなる。そういう時にまともなもの、つまり誰かが誰かのために作ったものを食べると、ものすごくほっとする」
「ほっとしますか」
「うん。加熱によるものかもしれないけど、ここは誰かの、つまり君の愛情が私を温めているという考えを推したい」
「…お願いがあります」
「叶えたいです」
「ご存知のとおり、明日当直です」
「だよね。…いつも思うけどこの世が終わりそう」
「温めたらおいしいものを作っていただくので、食べてください。温かいものを食べてお風呂に入って、ほっとしてほしいです」
「…善処します」
「ただいま帰りました」
「おかえり」
「…やっぱり愛情ですね」
「何が?」
「あったかいです」
「…私も今、ものすごく君の温もりを感じてる。ということは君の熱が私に流れ込んでいる、つまり君の体温が私より高いということだと思うんだけど」
「実際はそのとおりですが、とてもほっとしています。ここはあなたの愛情が俺を温めているという考えを推したいです」
「素晴らしい。やっぱり愛情だね」
「はい。…ところで、昨日はちゃんと食べましたか?」
「…あんまり食欲がなくて…」
「今日は? 何か食べましたか?」
「…本読んでたからまだです…」
「じゃあ、一緒に温かいものを食べましょう」
「…怒らない?」
「読書に夢中になるのはごく自然なことです」
「ありがとう。…あのね、君のこと大好きだよ」
「俺もです」
遅めの晩ごはん:しっかり温めたハウスキーパーさんの力作スープ(昨日食べるはずだったもの。豚の塊肉とたっぷりの野菜、押麦入り)、ホウレンソウとポーチドエッグのサラダ(卵たっぷり)、カリッカリに焼いたバゲット(ちょっといいバター付き)、山盛りの愛情
子猫
「子猫が来てるよ」
「…きみの仲間?」
「違うよ、本物の猫。…何でほっとしてるの」
「また変身されたらちょっと困るな」
「…僕に困ってる?」
「いや。困ってないよ」
かれと出会った時、初めて生きている猫を見たと思った。
畑に出ようとしたら玄関の前にいて、かわいらしいけれど何とも胸を締め付けられるような鳴き声を出す。
かれは畑仕事の間中ずっとついてまわり、水筒の水には見向きもせず、搾りたてのミルクを自分の掌からせっせと飲み、抱えられてうちへやって来た。
身体を拭いてやり、やっと一段落。再びコップのミルクを匙ですくって出したが、今度は知らん顔。そしてあろうことか、昼餐後の最大の楽しみである赤葡萄酒に興味を示し、酒杯にしがみついて離れない。
猫とはひたすらミルクを飲み、丸くなって眠る赤ん坊のような生き物で、ただ時々とても素早い、と話に聞いていたのだが、こんなに力が強いのだろうか。
諦めて人差し指を酒杯に浸し、そっと差し出すとカプッとやられた。のけぞった瞬間に
「危なかった。」
という声がして、テーブルの上にかれがいた。つまり、幼くはないが大人でもない、自分と似たかたちだがはるかに若い身体をもつ生き物(ただし背中に何かが生えている)である。
かれは堂々と赤葡萄酒を飲み干し、「美味しかった。ありがとう」と言った。見た目より低くて、とても綺麗な声だった。
それきり、この「子猫だったはずのもの」はうちに住み着いている。背中に生えた翼のようなもの(この大きさでは飛べないと思う)に怪我をしていたので、さすがに追い出せなかった。
不思議なことに、かれが来てから雨がふんだんに降り、迷い牛と迷い馬(とても気立てがいい。しかも馬は鞍付き)がやって来て、祖父の遺した「マシーン」(スクラップやそこらの植物を放り込むと、そこから精製した肥料や何かを出してくれる。これがなければ多分、三日以内に死ぬ)の不調が治まり、ミツバチを見つけた直後に偶然、養蜂の知識を持つ頑固な爺さんを助けて道具をもらいやり方を教わり…と、何故か良いことしか起こっていないので、今のところ無理なく養えている。むしろ貴重な赤葡萄酒が二人分買えて、気兼ねなく入浴できるくらい水が潤沢に手に入る状態になった。
夜になると危険なキメラが出ると聞いているが、かれは言葉も通じるし、見世物小屋から逃げてきた訳でもないらしい。ただ背中に触れるとひどく痛がるので、「治るまで此処にいるといいよ」と言ってある。
「子猫はどこ?」
「今、馬小屋に入ろうとしてる」
そろそろ冷えてくる。本物の猫を迎えに行こう。
捕獲して綺麗にし、温めたミルクをたっぷりやると、喉を鳴らして眠ってしまった。かれに言われるまま、寝床とトイレを作る。時々、妙に物知りである。子猫は新しい寝床で丸くなって眠っている。
「僕の時より優しい」
「そりゃ、この子は貴重な酒を強奪したりしてないからね」
ささやかな晩餐をこしらえ、二人で赤葡萄酒を飲んだ。
風呂上がり。
「少しは良くなったかな」
「痛いー。痛い痛い」
仕方ない。
「…まだ此処にいていい?」
「もちろん。どうして訊くの?」
「…本物の猫も来たし」
「あの子はきみじゃないから大丈夫だよ」
寝床に入ると子猫がやって来て、かれにくっついて丸くなった。
「きみが子猫の面倒をみて、ぼくがきみの面倒をみるっていうのはどう?」
「僕の労働だけ増えてる」
でもいい考えだね、とかれは言った。
「あのね、明日窓に小鳥が来るよ」
「それは楽しみだな」
お話の中でしか知らない光景だ。
きみが誰でも、どうでもいい。ひとりの時より幸せだし、子猫にも誰かが必要だろう。
子猫がもぞもぞと動いて小さく鳴いた。
「灯りを消そうか」
「うん」
おやすみなさい、また明日。
意味がないこと
楽しい。
目の前で私の可愛い子がアップルパイを作っている。「アメリカ風」なのだそうで、生の林檎に、シナモンとナツメグをたっぷり。いい香りが漂っている。
私は手を綺麗に洗って、パイシートをつつき、レモンを絞り、また手を洗い、スパイスを振りかけた。今は「パイを完成させる彼を見守る」という任務を与えられている。
何か手伝う、そう口にするたびに彼が私の口元に林檎のかけらを運んでくるので、雛鳥よろしく林檎を食べている。パイの分とは別に取り分けてあるから、つまり最低でもあと七回、手ずから食べさせてもらえる訳である。最高の休日だ。
「無意味って最高だね」
「無意味?」
「私たち、いつもはご大層な仕事をしてることになってるじゃない。日常生活なんて何の意味もない、どうでもいいみたいな感じ。でもやっぱり、こういうことって楽しいんだなって思って」
彼は微笑んで、
「こんな日常を誰もが過ごせるように、仕事も頑張りましょう」
と返してきた。真面目である。殺人課の刑事としては満点の回答だ。
パイをオーブンに入れてしばらく経った。
「あと二十分くらいで完成です」
林檎はとっくになくなり、今はのんびりお茶を飲んでいる。
「大袈裟じゃなく、人間の生きる意味が分かった」
「生きる意味」
「アップルパイとか、何か人の作ったものを美味しいと思えるってことだと思う」
缶詰(缶から直接食べる)とウイスキーが主食だった頃が夢のようである。剥いた林檎がこれだけ美味しいなら、焼きたてのパイを食べたら気を失うかもしれない。
彼がキョトンとしているので、説明しようとした時に電話が鳴った。
「はい…はい、すぐに急行します」
休日はおしまい。二人でせっせと身支度を整える。悲しい。
「…パイはどうなるの」
「ぎりぎりまで焼いて、火を落とします。帰れたら温めて食べましょう」
「人生の意味がなくなった」
「何とか帰れるように頑張りましょう」
優しい。
「何か二人ともいい匂いしますね。もしかしてデート中でしたか?」
そう訊かれた瞬間、彼は私の心拍数と体温の変化を感じ取ったらしい。すっと腰に手を回してくれて、「アップルパイが焼き上がる直前に呼び出しを受けましたので」と言った。
疲れた。
損傷の激しい遺体だったので、嗅覚が完全に麻痺している。それでも、家には帰れた。
二人で服を全部脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。洗濯機が回っている。
「何か飲みますか」
「…パイが食べたい」
「身体にはよくない気もしますが」
「一見有害なことも、時には大事だと思うんだよ」
彼はパイの安全性を確認した上で、しっかりと温めてくれた。スパイスとバターの香りに、シャクシャクした林檎の食感(生から焼くかららしい)。茶葉から淹れた紅茶。美味しい。
「お口に合いますか?」
「すごく美味しい。私幸せ」
「…無意味っていいものですね」
「うん、こういうのが一番」
「また何か一緒に作りましょう」
ゆっくりお茶を飲んで、深夜にベッドに入った。彼の隣は世界一安心できて、安全でもある最高の場所だ。明日の朝は、パイの残りを温めて食べる。
幸せだ。